セレスティアの心願
9
ユーフェミア大陸には、幾度となく繰り返される戦いの伝承が伝わっていた。
大陸に危機をもたらす魔王と呼ばれる者と、それを討伐し、世界を救済する勇者と呼ばれる者の物語。
ユーフェミア大陸北部の大国テイレシア王国王家は、大陸に危機が訪れた際に建国神話に従い、代々勇者を排出してきた。勇者に選ばれた王子もしくは王女は、その時点で王位継承権を放棄して魔王討伐に専念するのが使命とされている。
赤煉瓦の建物が建ち並ぶ、テイレシア王国の王都テリアレーン。
広場には噴水が吹き上げ、歴代の王家の者が好む色の薔薇が咲き誇る、美しい都である。
一番多いのは現国王の好む白薔薇だが、次点で王子が好む赤の薔薇と、王女が好む橙の薔薇もよく目に留まる色だった。歴代の国王には薔薇を好まない王もいたが、王が気に入った薔薇の品種改良に成功した庭師は一生を遊んで暮らせるほどの褒賞が与えられるとされていた。ただし、その庭師は、おそらくその後も王のために薔薇を育て続けないといけないから、現実に一生を遊んで暮らすようなことはないだろう。
この街を見下ろすような風貌の建国の勇者テイリーザの像の背後に、この大国を統べる王城が聳え立つ。
国王レスムスは善政を敷く賢王と呼ばれているが、昨今は高齢であることもあり、国民の前に姿を見せることは減っていた。毎年薔薇が咲く時期になると、それを愛でるために王城を出ることが少しあるだけである。
大陸歴七六五年、二月。
隣国オルフェリア帝国が、砦への襲撃の報復として宣戦布告した。
震撼が走る王宮内で、その孫娘にあたる王女ヴァイオラは、父王の代理として属州メオリッドへの派兵を命じた。
「謂れなき罪で国土が穢されることを、断じて許してはなりませんわ」
弱冠十七歳の少女は、動揺する領主たちにそう言い放ったのだ。
メオリッド州に戦車部隊が集結した頃、王家では新たな動きがあった。
事実無根の事件から始まった戦争の真相を探らせていた密偵が、本国に帰還してきたのだ。
砦の襲撃は実際に起きた事件で、何者かによって一夜にして警備部隊が殲滅されたようだが、これが何者によるものなのかは明らかになっていない。また、帝国国内では原因不明の国土の汚染により、多くの大地が農作物を収穫できなくなり、多くの国民が住む場所を追われているのだと言う。
つまり、真相が明らかになっていない事件の原因を隣国に擦りつけ、本心では隣国の領土が欲しいのだ。
「まさか、この時が来たのか」
事態を聞いたレスムスは、そう呟いた。
国王レスムスには、孫がふたりいる。
それが、王子レイドリックと王女ヴァイオラの兄妹である。若い頃に一人息子である王子を失った国王は、忘れ形見となったふたりの孫を深く愛していた。また、金髪に碧眼の美しい兄妹は、国民からも根強い支持を得ていた。
長年にわたり、王は次期国王をどちらにするかを明言しなかった。国民の多くは兄であるレイドリックが継ぐものと思っていたが、ヴァイオラの聡明さに期待を寄せる地方領主も多かった。
「王女ヴァイオラ。そなたには、属州アマツチ
翌日、レスムスはヴァイオラにそう告げた。
テイレシア王国の東にある離島で独自の文化を育んできた、アマツチ巫領は属州のひとつである。テイレシア王家に生まれた者は、十七歳になったらこのアマツチ巫領に赴き、半年にわたって所定の公務を果たす義務がある。今年で二十歳になるレイドリックはこれを済ませていたが、十七歳になったばかりのヴァイオラはこれを済ませてはいなかった。
これから戦になると言う時期に、あえて今アマツチ巫領に向かわねばならない理由が、ヴァイオラにはわからなかった。しかし、尊敬する賢王である祖父が意味のないことを命じるはずがないと、彼女はそう信じた。
「戦の指揮は、お前が執るわけじゃないだろ」
謁見の間を出るなり、レイドリックは妹にそう言った。
「だから、何も気にしないで行ってこい」
「はい。
「ああ。それでいいよ。お前が帰れなくなったりしないように、戦はちゃんと終わらせる。オルフェリア帝国軍はどれも精強だと聞いているが、テイレシアの戦車部隊が負けるわけがないだろ。本当のことを言えば、避けられる戦争は避けたいんだけどな」
「大地の汚染が真実であれば、争っている場合ではございません」
ヴァイオラは呟いた。「それでも、彼の国は争いを選んだ。愚かな」
「そう言ってやるな」
レイドリックは、妹の歯に衣着せぬ言動に苦笑した。正論ではあるが、あまり堂々と言うべき発言ではないだろう。
「本当に争いを終わらせたいのなら、な」
その時、黒髪の少年が現れた。名前はロラン、兄妹が幼い頃からよく知っている従者の少年だ。まだ屈託のなさそうな子供だが、左頬に大きな十字傷があり、それが異様なほど凄惨に見えた。
「レイドリック様、陛下がお呼びです」
「了解。すぐ行く」
ロランは先ほど出てきたばかりの謁見の間を指し示すように、一歩下がる。石造りの床に、足音は聞こえなかった。
「また後でな、ヴァイオラ」
「はい、兄上」
レイドリックが謁見の間に引き返すのを、ヴァイオラは静かに見送った。
「ロラン。わたくしは、部屋に戻るわ。リーシャを呼んで」
「御意」
ロランが音もなく歩き去っていく。どう見ても歩いている動きなのに、ヴァイオラが走るよりもずっと速かった。
まるで風のようだと思いながら、ヴァイオラはその場を後にした。
「お待たせしました」
謁見の間に入り、レイドリックは祖父が座する玉座の前に跪いた。
祖父は、自分が生まれた頃から王だった。
若い頃の絵姿だと美しく豊かな金髪を持つ精悍な男だったが、今の祖父は髪の毛のほとんどが白くなった痩せた老人だった。かつては儀礼がない時でも簡易王冠を被っていたが、今はそれも重くなって額からサークレットを提げていた。
それでも、赤く染めた
その圧倒的さを、レイドリックは持たない。
「よい。顔を上げよ、レイドリック。そなたに話があるから呼んだのじゃ」
「ヴァイオラにアマツチ行きを命じた時点で、察しはついております、祖父上」
レイドリックは顔を上げながら、静かに答えた。
「オルフェリアの汚染とそれに伴う此度の戦争は、世界の危機……祖父上は、そう解釈された」
レスムスは表情を変えなかった。静かに、孫たちと同じ色の瞳を向ける。
「そして、わたしは当代の勇者になる。そうですね」
レスムスは表情を変えなかった。ただ、ゆっくりと口を開いた。
「勇者になる意味は、理解しているか」
「無論」
「そなたは、それでよいのか」
「はい」
「正直に答えよ。余は、王である前に、そなたの爺いじゃ」
「わたしは、正直に、これでよいと申し上げております」
レスムスの表情が変わった。僅かに、目を見開く。
「わたしは、王には向いてない。生まれながらの王であるヴァイオラとは、違う。わたしは、ただの男です。けれど、勇者になら、ちょっとだけ向いている男だ。そうでしょう?」
「馬鹿者」
その怒気ではない悲壮な感情が混ざった一言に、レイドリックは口を噤んだ。
「勇者に向いている者など、この世にひとりたりともおらぬ」
*
大陸歴七六五年、三月初旬。
テイレシア王国第一王女ヴァイオラが、アマツチ巫領の伝統公務に赴く。
その報せは瞬く間に広まり、出立の日の港には貧富も老若男女も問わない多くの国民が見送りのために詰めかけていた。
たった半年と呼べるほど、十七歳の少女にとっての半年とは短いものではない。潮風が強いからと珍しく髪を結ったヴァイオラは、奇妙な感慨に耽った。
半年間のこの公務は、王家の子女にとって初めての単独で行う公務となり、それはある意味で儀式のような立ち位置だった。ヴァイオラは立場上、王位継承権は第二位を持ってはいるが、この公務をこなさないと、正式な王位継承権を得ることはできない。
先王だった曽祖父が若くして病に倒れ、当時十四歳だった祖父は伝統公務を前倒して少年王の即位を認めさせたことがある。曽祖父の容態は、執務に困らぬ程度に回復したので杞憂だったのだが、アマツチで行われる公務というのはそれほどまでに重要なものなのだ。
港はよく晴れていた。二日前までは天気が荒れており、王女の出立を心配する声が多かったが、それを払拭する青空だった。
儀礼用の馬車を降りた瞬間から、ヴァイオラは見送りに来たレイドリックと共に人々の歓声に包まれた。兄妹はそれを片手を振って応えた。
港には船が停泊しており、船頭が待機していた。ふたりに向かって船頭が一礼する。
「俺が付いて行ってやれるのは、ここまでだ、ヴァイオラ」
レイドリックの声は小さく、民衆には聞こえていないようだった。
彼は自分のことを俺と言ったり、わたしと言ったりする。わたしの方が王子らしいが、俺の方が兄には似合っているとヴァイオラは思っている。
「大丈夫だと思うが、しっかりやれよ」
「心得ております、兄上に言われずとも」
「もうちょっと寂しがれよ」
「寂しがるのは兄上のくせに」
「ははっ、実際そうかもな」
妹の冗談にレイドリックは苦笑してから、封書を差し出した。妹の方がずっと優秀だが、幼い頃から一緒にいた妹には変わりない。本当は、戦争を的確に終わらせる手段を考えるのも、彼女の聡明な頭脳を借りたいものだった。ここしばらくで、戦況がとても厳しいものになった。レイドリックが、自分で指揮しないといけなくなりそうだった。
「シキによろしくな」
「アマツチのシャーマンですね。かしこまりました」
受け取った封書を、ヴァイオラが恭しく大切なもののように懐にしまう。
「個人的な手紙だよ。公的文書は祖父上から渡されたのが全部だ。そんなにかしこまるな」
「それならば、わたくしは兄上のご友人であるシキ殿へのお手紙を預かっております。大切に扱わぬ理由が、どこに?」
「それもそうか」
あまりに筋が通った妹の理屈に閉口する。王子と王女という立場上、彼らには友達なんて呼べる相手が少ないのをお互いによくわかっていたのだ。
レイドリックが三年前にアマツチ巫領で出会ったシキと言う男は、彼にとって数少ない友だった。数少ない友達だからこそ、大切に扱わない理由がない。
確かに妹の友への手紙を預かれば、自分も丁重に扱うだろう。
「友達への手紙だから、ちゃんと渡してくれよな」
「もちろんです、兄上。リーシャ、行きましょう」
リーシャと呼ばれた赤い髪の娘が頷いた。ヴァイオラは彼女に先導させて、歩き始める。公務には、僅かな供回りを連れることを許されている。レイドリックはロランを選び、ヴァイオラはリーシャを選んだ。無口な娘だが、いつも真面目で信頼におけた。
ヴァイオラが渡り板を進んで、船に乗り込む。船に乗るのは初めてだと言うのに、彼女の挙措には迷いがひとつもなかった。
渡り板が桟橋に押しのけられ、船が動き始めた。レイドリックは片手を振った。行ってらっしゃい、姫様。民衆の声はいつまでも聞こえていた。
船が見えなくなった頃、レイドリックはそっと馬車に戻った。
「ロラン、帰るぞ」
いつも通りロランは音もなく現れ、明るい声で返事をした。
「はい、レイドリック様。もうよろしいので?」
「ああ。やるべきことがある」
ロランが御者に声をかけると、馬車が走り出す。夕方には、王都に戻れるだろう。その頃には、ヴァイオラもアマツチの島に到着しているはずだ。
通達はされていないが、レイドリックは自分が勇者になることを知っていた。魔王討伐に向かわなければならないが、今からそれを行うことは難しいことは知っていた。
まずは、オルフェリアとの戦争を終わらせないといけない。彼の国の協力がないと、魔王には出会えない。そしてそれは、祖父もよく知っている。だから、公式発表をまだしていないのだ。
前回、魔王を討伐したのは、十五年前だった。
「悪いな、シキ」
レイドリックは
「酷い役回りを押し付ける。恨んでいいぜ」
独り言だと知っているロランは、何も言わない。
勇者に向いている者など、この世にひとりたりともいない。
祖父の言葉が、頭から離れなかった。妹と違って王の器ではない自分が、王子として勇者にも向いていないのだとしたら、果たして何になれるのか。国王の孫として血税を喰らいながら生きる自分に、何の存在意義があると言うのか。勇者とは、何の取り柄もない自分に与えられた、最初で最後の価値だったのではないか。
それはある意味で、何者かになりたい、ただの若者の問いだったかもしれない。だが、レイドリックは王子だった。ただの男ではいけないのだ。
世界のために、祖国のために、妹のために。
向いてもないくせに、勇者にならなくてはいけない。
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