8
大陸歴七六五年、二月。
厳しい情勢が続いていたテイレシア王国と、遂に開戦した。
シリウスが所属する黒竜師団は、黒い軍の制服を身にまとって国境に向かった。その中には、弟のクレールもいた。弟の身を案じないわけではないが、サイラスは自分にできることをするだけだった。
シェリルの悪阻は、平然と家事をこなせるほどに楽な時もあれば、起き上がるのも辛そうな時もあった。サイラスがそんな妻をいたわるのは、生まれてくる子供の父親として、彼女の夫として当然のことだと思っていた。
痩せている彼女の胎内に子供がいるなんて、なかなか信じられなかったが、今のところシェリルも子供も様子は安定しているらしい。
「考えてみろよ、兄貴。料理ができる親父なんて、なかなかいいもんだろ」
弟がそう言って、簡単な料理を軽く手ほどきしてくれた。手元には、彼が時々作る料理のレシピがある。それはどれも、弟が教えてくれた手法と、同じような方法で作れるもののようだった。それでも火が苦手なのはどうにもならないのだが、慣れれば少しはマシになるかもしれない。
弟はいつも、兄を助けてくれた。サイラスは聡明とか優秀とか言われていたが、本当は人より少し面倒見がいいところ以外は長所がない男だと自分で思っていた。弟にだって機材の扱いや重火器の構造への造詣など、優秀なところはたくさんある。
父と母はサイラスの退学に、最後まで反対した。そんな兄のために、クレールは何も言わずに退学同意書に署名した。士官学校の退学には、第三者の署名がされた同意書が必要だったのだ。確かにそれは、弟の同意でも手続き上問題ない。弟は、兄は他にやりたいことがあると、以前から察していたのだろう。それは、あと半年で士官学校を卒業できるといった頃合いだった。
自分の人生を、サイラスは後悔したことがない。ただ、クレールが軍人になったのは、サイラスの身代わりだったのではないかと思ってしまうことがしばしばある。前線に戻ったのは、父の顔色を窺ったからではないのだろうか。
それでも、クレールは「俺が自分で選んだんだよ」と、言うだけだった。
アーサーとグレンを次に向かわせる先が決まったのは、ちょうど開戦直前の頃だった。
「次に向かう先は、テイレシアだ」
昼食後に告げると、アーサーが少し驚いたような表情を浮かべた。これまでとは比べ物にならないほど、遠いからだろう。
――長旅になりそうですね。どちらに?
「アマツチ地方。テイレシアより東の離島にある、属州だ。入国審査用の書類はこちらに。親書を預かっているので、これを領主殿に渡せば仕事が始められるはずだ」
――アマツチの領主ですか。簡単に会えなさそうですね。仕事を始めるのに、苦労しそうだ。
「領主の屋敷は、一定の場所までは誰でも出入りできるらしい。そこで、お会いできないか探ってみてくれ」
「わかった、先生。頑張る」
――承知しました。旅の支度を始めます。
「ああ。長旅になるから、忘れ物はないようにな」
「はーい」
グレンが緩いが元気な返事をして、アーサーの後を追った。
長旅のことならば、元吟遊詩人のアーサーが詳しいだろう。彼がテイレシアに渡ったことがあるかはわからないが、それなりに旅慣れているはずだ。ただし、アーサーが声を失う前のことは、ほとんど聞かされていない。考えてみればサイラスはアーサーのことを何も知らない。
グレンは社会に出るために、多くの物事を知らなければならない。読み書きをだいたい覚えた頃から、外に出すようにしていた。帝都の外の景色。人の営み。物や金が世の中でどう動いているか。そろそろ学院に入れてやる年頃だが、自分が何をしたいのかもわからないうちは、もっと多くの物事を見聞きさせてやりたい。
きっと彼は、サイラスも知らない景色を見て帰ってくるだろう。
昼食の片付けを終えた頃に、奥からシェリルが現れた。朝から休んでいたが、少し具合が良くなったのだろう。
「おや、シェリル。具合は大丈夫か?」
「ええ。少し調子が良くなったわ」
「何か食べるかい?」
「今はいらないわ」
「そうか、わかった。何か食べたくなったら、いつでも言ってくれ」
「ありがと」
シェリルが笑いながら、ソファに寛いだ。彼女の表情は明るい。体調は思わしくなさそうだが、気分はそう悪くはないようだ。
彼女が用意した親書には、トラヴィス商会と、オルフェリア皇帝家の印章が
皇族と手を組んだのであれば、アーサーとグレンを使者として寄越すのは無理があることくらい弁えているはずだ。アーサーはトラヴィス商会のアルバイトに過ぎないし、グレンについてはただの子供だ。
「シェリル、あの親書の内容はたとえ僕が相手でも話せないのはわかっている。その上で、ひとつだけいいか?」
シェリルは表情を変えずに頷いた。サイラスは続ける。
「砦にうっかり迷い込んで薬の瓶をくすねた以外の違法行為には、手を出していないだろうな」
「先方が魔薬商売に手を出したからこちらも法に触れることをしていいなんて、馬鹿な理屈は考えないわ」
彼女は肩を竦めて苦笑した。半分、煙に巻いている。
「安心して。印章を偽造したりはしてない。ちゃんと、然るべき権限を持つ人物に捺してもらったわ」
「それは」
皇族の印章を扱う権限を持つ人物は、皇族の人間しかいない。
「エルリッド皇子殿下よ」
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