7
目を覚ますと、既に妻はベッドを抜け出していた。
サイラスは起き上がって、軽くベッド周りを整えてから着慣れたシャツに袖を通した。
軍人の家で軍人になるように育てられたサイラスは、別段朝が弱いわけではなかった。途中で退学した士官学校の頃も、編入先の国立学院の頃も、寝坊をしたことはほとんどない。ただ、医者になってからは遅くまで起きていることも多かったから、朝は妻に甘えてしまう癖がついてしまっていた。
妻のシェリルは、オルフェリア帝国の製薬企業トラヴィス商会社長の娘だった。トラヴィス商会の家は老舗の企業で、経済界や商人ギルドには一定の影響力がある。シェリルはサイラスと結婚して次期社長の候補を辞退した今でも、商会にも商人ギルドにもその名前を連ねて一定の発言力を有している。
彼女はサイラスと同時期に国立学院に通っていたが、互いに知り合うことはなかった。ただ、トラヴィス商会の才媛の存在は何となく知っていた。一方で彼女も、士官学校を退学したクェシリーズ家の長男がいることは知っていたらしい。
ふたりの出会いは、縁談だった。トラヴィス商会の一家は爵位を持つような身分ではなかったが、軍人の一族として製薬企業と縁を作るのは悪くはなかった。先方も貴族に縁ができるのだ。
政略結婚や合理性を求めた縁談は、この時代の王侯貴族にとってむしろ一般的でさえあったから、勝手に士官学校を退学したサイラスには断ることができなかった。幸運だったのは、サイラスが縁談の相手として現れた痩せた女商人に惚れたことだろう。
次期社長だなどと言われたほどの才女であるシェリルは、縁談に対してどう反応したのかわからない。ただ、彼女はサイラスの熱烈な求婚を苦笑しつつ受け入れてくれた。「だってあなた、魂を全部売り払いそうな勢いだったもの」と後に彼女は折れたように語る。ただ、そんなことを言いながら、シェリルもサイラスほど直情的な言葉を言わないだけで愛してくれてはいるようだった。
社長になりたければそうすればいいと思っていたが、彼女は結婚を機にその座をあっさりと辞退した。周りが勝手に持ち上げるだけで、もともと社長になることに興味はあまりなかったのかもしれない。
勝手なことばかりしているのに、幸運な人生だと思う。妻にも恵まれたし、素直な性格の弟子までいる。
寝室を出て廊下を歩くが、いつも聞こえてくるはずの料理の音は全く聞こえてこない。懐中時計を見てみたが、普段通りの時間だ。
このところ、妻は体調を崩しがちだった。シェリルは思わずたくさん食べさせたくなるほどには痩せているが、病弱ではない。彼女は見た目ほど少食ではないが、最近は食が細い。しかも食べても、しばしば吐いてしまう。原因はわかっている。悪阻だ。
居間に入る。朝食の用意はなかったが、コーヒーだけは置いてあった。出来ることはしてくれたようだ。それだけで十分すぎる。いや、コーヒーを淹れているうちに体調を崩したかもしれない。
ソファに凭れかかっていた妻が、顔を上げた。案の定、顔色が悪い。
「おはよう、シェリル」
そっと手を伸ばして立たなくていいとばかりに、頬を撫でる。「具合が悪いんだろう、今日は休んでいなさい」
「大丈夫よ、少し休めば」
頬を撫でられた妻の表情は、幾分か安堵に変わった。甘えたいのだと、察する。仕事があるので好きに甘えさせることはさすがに難しいが、できることはしてやりたい。彼女の胎内にいるのは自分の子だ。妻のことも子供のことも、大切にするに決まっている。
「よくないな。安静にしていなさい。無理をするのは、良くない」
彼女が懐妊したことがわかったのは、半月ほど前のことだった。まだ、外から見て彼女が妊婦だとわかる人はほとんどいないだろう。
「そうね、あなたの言う通りだわ。部屋に戻ろうと思う」
「ああ、そうしてくれ。午後になったら、診てもらおう」
サイラスの診療所には妊産婦のための設備が整っていないから、学生時代に知り合った専門医の所に連れて行っていた。五日ほど前までは悪阻など平気そうだっただけに、不安がある。心配しなくていいのならばそれはそれでいいが、通院してみないことにはその答えは出ないのだ。
「わかったわ」
シェリルが気怠げに立ち上がる。寝室に戻るようだ。
「少し休んでるわ。朝ご飯、用意できなくてごめんね」
「気にしないで。身体を休めることに罪悪感を覚えるべきではない。ゆっくり休んでいなさい」
寝室に戻るシェリルを見送り、サイラスは淹れてくれていたコーヒーを飲んだ。
今日は診療所を開けずに、午前中に訪問診療に向かう予定だ。医者も人間なのでほとんどの医療機関は数日おきに休日を設けるから、患者が困らないようにその日程が重なりすぎないように連携して気を配っていた。サイラスのところでは、休日には扉に最寄りの診療所の場所を書いた張り紙を貼ったりする。
昨日のうちに買ってあったパンを、温め直すこともなくそのままかじってから、階下に降りる。
いつもの張り紙を用意していたら、診療所の勝手口から人が現れた。明るい挨拶が聞こえてくる。グレンの声だった。足音はふたり分だから、アーサーも来ているだろう。
旅に出していた彼らが戻ってきたのは、数日前のことだった。アーサーが「萎びたラベンダー」と例えた色の粉を持ち帰ってきて、不審な軍人に遭遇したと報告を受けている。今は、仕事を手伝わせながら様々なことを教えていた。
――先生、シェリルさんは?
「具合が悪いそうだ。午後に、知り合いの所に連れて行こうと思う。今は、休ませてやってほしい」
アーサーが神妙そうに頷いた。グレンの表情も、どこか心配げだ。ふたりとも、シェリルが懐妊したことは伝えてあった。アーサーはともかくグレンには全く知識がなかったが、何も知らないからこそ、そう言うものだと理解して、できることを手伝おうとしてくれる。弟子にして三年経ったが、素直な少年のままだった。
「先生、俺たちにできることあるの?」
「そうだな、シェリルの側にいてやってほしい。特に何もしなくていいが、僕が戻るまで、何かあったら手伝って欲しい。午前中はアーヴィング邸にいるから、緊急時は来てくれ」
――わかりました。
少々間延びているが、グレンは明るい声で返事をした。
支度を済ませて、外に出る。扉と看板に、張り紙を貼り付けてから街を歩いた。
今日の訪問は、アーヴィング侯爵家の邸宅だ。
アーヴィング邸は、ここから歩いてさほど時間がかからない。患者はクロエと言う名前の十四歳の少女だ。
アーヴィング邸に到着した。クェシリーズ邸よりも小さな家だが、帝都の中でも白い石畳が輝き出す区域だ。訪問診療の患者の中には家柄が物を言うような人脈で知り合った者も多いが、その中でもかなり上流の方だった。
門を潜って往訪を告げる鐘を鳴らすと、中年の侍女が現れた。サイラスは彼女と顔見知りで、軽く挨拶すると奥に通してくれた。玄関先から廊下まで、絵画や彫刻、壺などが飾られていた。色彩感覚が自由で、どれも統一感がないように見えるが、それでいて優美だった。
通された部屋は、広さは一般家庭の子供部屋の二倍か三倍はありそうだが、装飾はあまりなかった。その代わり、固まっていない顔料や土の匂いがした。
「サイラス先生、おはよう」
奥のベッドの上で上体を起こす、ゆったりとした口調の少女の声が聞こえた。葡萄のような色の絨毯が敷かれた床に、顔料が入っている器や陶芸用の土塊が転がっている。誤って蹴ってしまわないように、サイラスは気を配りながら部屋の奥へと向かった。
「クロエ、おはよう。今日は顔色が良さそうだな」
「うん。今日のわたしは、割と元気」
緩く編んだ茶髪を軽く揺らし、少しはにかんだ表情で、クロエがゆったりとした口調で言う。肌の色は病的なほど白く、とても健康そうには見えない。
サイラスが会話をしながら、クロエの診察を始める。
診察を終えると、大きな壺が飾られた居間に通された。中のソファに、既にこの家の主人が待っていた。白髪が少しあるがクロエと同じ色の髪をした彼女の父親は、ソファに体重を預けたまま向かいに座るように手で勧めた。
「お待たせしました、シリウス殿」
「いや、構わない」
そう答えたアーヴィング侯シリウスは、サイラスが腰をかけるのを待っていた。侍女に、飲み物を持ってくるように声をかける。
「娘の様子は?」
「体調面は問題なさそうです。肌が白いのは、引きこもって陽に当たらないからですし」
そうか、と、シリウスが呟いた。
クロエは、決して丈夫とは言えない、全寮制の女子学校も休みがちな少女だった。その上風変わりなところがあり、だからこそ学校という世間の悪意に触れやすかった。それはもしかしたら、いじめと呼ぶには些細なものだったのかもしれない。しかし、たとえどれほど些細なものでも彼女は心を痛めて、学生寮に引きこもったまま授業に出られなくなってしまった事実は変わらない。
見兼ねたクロエの姉が彼女を実家に連れ戻し、女子学校はそのまま退学させた。今の彼女は持ち前の芸術家肌を存分に発揮して、顔料や土と向き合う日々を送っている。ただ、外に出ることを拒むようになってしまい、社会に出ることを願う父親との間には一定の距離があった。思春期の少女が父親を避けたくなることは成長過程において珍しいことではないのだが、この父娘の場合は少し違った。
「表情も、はじめに比べると明るくなっています。単に僕に慣れただけかもしれないですが」
「そうか。最近、娘がわたしに冷たいのは悲しいが、その話を聞けて何よりだ」
サイラスは苦笑して、出されたコーヒーに砂糖を少し沈める。昔憧れていた大英雄も、こうして見ると年頃の娘への扱いに悩む普通の父親である。
「シリウス殿にお伝えしておきたいことが」
サイラスは唐突に話題を変えた。それを予測していたシリウスは、頷いた。「聞こう」
「まずはこちらを。弟子たちに調査をさせた結果です」
鞄から取り出したのは、小さな瓶だった。アーサーが青蛇師団の砦から持ち出した、怪しい粉が詰められていたインクの瓶だった。シリウスが慎重に持ち上げる。
「例の砦で発見されました。中身はジュネ草と言う、魔薬の一種です」
ジュネ草は、製粉して空気に触れると特徴のある斑らな紫に変色し、快楽や幻覚の作用、そして依存性が強くなるのが特徴だ。
製粉前のものが不老不死の伝説の薬草として歴史に名前を残していたから、現代の研究者たちが研究対象として栽培している。その一部が売られたり盗まれたりして、魔薬として出回っているのだ。
「こんなに目立つ色の粉を軍が押収しなかったのが、不思議でなりません」
「見落としたのだろうな。魔薬だとわかっていれば、揉み消すのも糾弾するのも簡単だったはずだ。身内として恥ずかしい限りだよ」
シリウスが嘆かわしそうに吐き捨てながら、瓶をテーブルに置く。嘆かわしいのは、押収されなかったことだけではないだろう。当然だが、禁止薬物の使用者が軍にいることだって嘆かわしいに決まっている。
例の青蛇師団の砦の生存者らしい男に、グレンたちが遭遇している。その挙措から見て、魔薬中毒者で間違いなさそうだった。娼婦たちの故郷ネア村の異常な風車の数は魔薬の製粉目的と考えられ、つまり彼女たちは密造や密売に関わっていたというところだろう。襲撃事件後に姿を消したのは、取引相手がいなくなったからだ。
アーサーは、旅の途中で製粉中に空気中を舞った魔薬を吸い込んでしまったせいで、喉を損傷した。僅かな粉で高い毒性を持つのは紫に染まる前のジュネ草の特徴のひとつで、彼が吸い込んだのは中毒者にしてみれば微々たる量だったが、声が出なくなってしまうのには十分だった。ただ、紫に染まる前のものは依存性はなく、アーサーは声が出ないことに絶望はしたが中毒者にはならずに済んでいた。
魔薬は違法だから取り締まりはされるが、被害者への救済は経済面も医療面も進んでいなかった。違法薬物とは、手を出してしまえばその時点で加害者とみなされる。アーサーのように意図せずに吸い込んだ者を、誰が加害者と呼べるのか。そして、誰が彼らを救うのか。
「それにしても、この瓶は」
シリウスが、再び瓶を持ち上げた。
「気付きましたか」
「ああ、ラディッシュ社のラベルだ」
ラディッシュ社は、オルフェリア帝国有数の大企業のひとつで、大手文房具メーカーだ。文房具の製造販売業が主な事業だが、農村に金を出して必要なものを作らせている事業も手がけている。
それ自体は決して悪いことではなく、多くの人はインクの原料の着色剤を栽培させていると思っているだろう。当然他の作物の栽培も許されているし、何より農墾ができない季節になれば工場への労働で生計を立てられるから悪いことばかりではないのだ。
もし、ラディッシュ社が農村に金をばら撒いて魔薬を製造させ、大きな利益を上げているとしたら、それは国を揺るがしかねない不祥事になるだろう。それほど、大きな影響力を持つ企業なのだ。
「ラディッシュ社はネア村を買収していると、妻が知っていました。これだけの情報を差し出せば、あとは彼女の実家に連絡を取って、必要な証拠はいくらでも集められるそうです」
「さすがだ」
シリウスがコーヒーカップを掴みながら、小さく笑う。
「君の奥方は、本当に恐ろしい女性だ」
トラヴィス商会社長である義父は、シェリルが次期社長の座を辞退することを受け入れてくれた。だが、彼女の名前は、今でもトラヴィス商会のナンバースリーに当たる役員として、商人ギルドに影響力がある。
「やっと前に進めそうだ。わたしはこの
サイラスは、ゆっくりと頷いた。
白い地区と黒い地区に象徴される、格差社会。そこには、皇族の横暴とも言える政治が根本に蔓延っていた。
女帝アナスタシアは先帝ウルフガング四世に見初められる前は市井に住まう商人の娘だったから、政治に関する知識も経験も皆無だった。先帝が急逝し、幼い子を差し置いて即位した庶民生まれの女帝の政治が、庶民を想うものとして期待された時期もないことはなかったが、得てしまった権力に目が眩んで浪費を繰り返すばかりだった。
グレンのような、名前も与えられることなく生まれ育ち死んでいく孤児がいる。アーサーのように、誰かの不正によって生活の糧を得る手段を失って絶望する若者もいる。
その世の中が許せない。シリウスはいつもそう言っていた。現在と未来を担う若者が先人が残した負債のせいで苦しまなければならない世の中は、そんな負債を残してしまった大人たちが贖うべきなのだと。
その負債とは、女帝アナスタシアに与えられた政治的権限のことだ。
サイラスがその想いに共感したのは、シェリルがいたからもしれないし、グレンやアーサーと出会ったからかもしれない。自分でもそのきっかけが何だったのかはわかっていないが、妻が懐妊したことで、改めて共感したような気がしていた。
……それから半月後、シリウスとクレールが所属する黒竜師団に、出征の通達がされた。
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