6

 グレンは今年で十五歳になる。

 この年齢はただの推測に過ぎず、グレンという名前さえ本名と言っていいか怪しい。ただ、彼は後から与えられた自分の情報を気に入っていた。

 生まれた場所は知らない。

 物心ついた時には帝都で一番黒い路地裏で、物を盗んで生きている浮浪者どもに、戯れに育てられていた。たぶん、大きくなったら売ろうとしていたのだろう。

 盗みと喧嘩の才能だけはあった。だから、路地裏に迷い込んできた奴から財布を盗み、時には暴力でねじ伏せて奪ったりもした。

 成長している間に、戯れに育ててくれた者たちはいつの間にか飢えて死んでしまっていた。売られる余地もなかった。恩を返すなんてことを考えられるようになる前のことで、それは実によくあることだった。ただ、自分の面倒を見なかったら、彼らは食い扶持が増える分だけもう少し長く生きていたかもしれない。

 どんな事情で捨てられるにしても、路地裏で捨てられて生き延びる方が珍しい。ほとんどは子供のうちに死んでしまう。飢えるか病気になるか、盗もうとして返り討ちにあうのだ。

 見た目や声だけで男だとわかるまで成長したのは、奇跡とも言えたかもしれない。思えば病気はひとつもしていないし、喧嘩だって負けたことがない。

 三年前のある日の夕暮れ時、路地裏に若い男が迷い込んできた。着ているものは古いが高そうで、背嚢は大きい。そして、痩せていて弱そうだった。街中で道に迷った旅人と言ったところか。襲うのは簡単そうだ。実入りも少しはあるだろう。標的に決まった。

 いなくなる前に襲おうと、周りを見ずに歩いたのが災いした。気付けば身体が宙に浮いていて、地面に叩きつけられていた。坂の上から、車輪止めが壊れた台車が転がり落ちてきていて撥ねられたと知ったのは、後の事である。

 薄れゆく意識の中で、標的にしようとしていた男が駆け寄ってくるのがわかった。

 気付いた時には、入ったこともない屋内で、真新しくはないが清潔感はある空間に寝かされていた。

「骨がいくつか折れている」

 男の声がした。「しばらく、大人しくしていろ」

 白い上着を着た、赤い髪の眼鏡をかけた男が、足を組んで椅子に座っていた。

「君はあの若者を襲おうとしたのだろうが、自分を救った相手を襲うのは、やめておけ。彼が君をここまで運んできてくれたんだ」

 男はそう言った。何かが書いてある書面から顔を上げて、こちらを見た。

「僕の名前はサイラス。医者だ。名前は?」

 名前と言うものが何かは、何となく知っていた。この男は、周りからはサイラスと呼ばれているのだ。

「おい、おまえ」

「ん?」

「そう呼ばれてた。おいとか、おまえとかって」

「なるほど」

 サイラスは眼鏡のブリッジを軽く押し上げて、しばらく考えるようなそぶりを見せてから、呟いた。

「それなら、グレンと言う名前にしろ」

「グレン」

「そうだ。名前がないと不便でかなわん。気に入らなければ、好きなように変えればいい」

「あんたがサイラス。俺がグレン」

「そうだ。合っている」

 サイラスが微笑んだ。

 俺はグレンなのだと口に出してみると、なかなかいい響きをしていた。これからは、グレンと呼ばれたら返事をして、名前を聞かれたらグレンと答えればいいのだ。

「俺は、何をすれば、名前を返せる?」

「何だって?」

「何か手に入れるには、別の何かがいるから」

「ああ、対価のことか」

 対価という言葉の意味は分からなかったが、言いたいことは伝わったようだった。

 彼が少し思案する。名前とは生まれた時に贈られるものだ。対価なんて存在しない。だが、そんなことは、知らなかった。

「生きろ」

 サイラスは、そう言い切った。

「君は、生きるんだ。その理由は簡単だ。君を助けたあの若者や、僕が君に生きていてほしいと願ったからだ。だから、生きろ」

 何を言っているのかよくわからない。そんなに難しいことを言っているわけではなさそうなのに、とんでもなく難しいことを言われている気がした。彼が言う生きると言うのは、息を吸って飯を食えばいいと言うだけでは、なさそうだった。

「生きるって、どうやったらいいの?」

「少しずつ学んでいこう。ゆっくりでいい」

 彼はゆっくりと、グレンの頭の上に手を置いた。それは、彼にとって生まれて初めての感覚だった。

「グレン。君はまず、あの若者にこう言うところから、始めなさい。『助けてくれてありがとう』とね」

「……助けてくれて、ありがとう」

「そうだ。たどたどしくても、噛んでもいい。きっと伝わるだろう。いいかい。ありがとうと言う言葉には、言われるだけで人を喜ばせる力がある。だから、自分から言って人を喜ばせなさい。そうしていれば、君もありがとうと言われるはずだ」

「それが、生きるってこと?」

「そうだ。生きているのだから、奪うだけじゃなくて与えてみなさい。それが、人の生き方だ」

 頷くと、サイラスがまた笑った。

 何かを呟きかけた時に、扉を叩く音がした。サイラスが声をかけると、控えめそうな音を立てて扉が開く。

「サイラス、そっちはどう?」

 黄色っぽい色の髪をした、線の細い女だった。手元は骨が浮いて硬そうだが、表情はむしろ柔らかそうだ。

「あちこち怪我はしているが、大きなものはないからそこまで心配はしなくていい。あとで栄養はつけさせてやってくれ」

 女はグレンの方をちらりと見やりながら、頷いた。

「それで、もうひとりの男の子、アーサーって名前なんだけれどね、彼のことも診てあげてほしいの」

「怪我はなさそうだったが、彼にも何か?」

「口が聞けないの。名前も、筆談で」

 サイラスが少し腕を組んだ。もうひとりと言うことは、襲われそうだったことも知らずに助けてくれた男のことだろうとグレンは理解する。

「耳は聞こえるみたいなんだけれど、声は出せないんですって。でも、声を出そうとはしていたの」

「以前は声を出せていたのかもしれないな。それも、かなり最近まで」

「なぁ、サイラス」

 つい、グレンは口を挟んでいた。サイラスがこちらを振り返る。「どうした、グレン」

「そのアーサーって奴の声、早く治してやってよ」

「もちろん、そのつもりだが?」

「俺はじっとしてればいいんだろ。喋れないのに、知らないところでひとりなんだろ。なんか、あれだ、かわいそう。かわいそうじゃん、アーサーが」

 サイラスは少し驚いたような顔をして、それから片手で顔を覆って吹き出した。

「なんだよ、おかしいこと言ったかよ」

「悪かった。いいや、君の言う通りだ。どこもおかしくない。いつまでもひとりで放っておくのは、確かにアーサーがかわいそうだ。シェリル、彼のことを頼む」

「わかったわ」

 シェリルと呼ばれた女が頷く。

 サイラスが必要な道具を机の上や戸棚から取り出す。声が出ないとわかっているから、喉を診る道具が必要なのだろう。

「あっ、サイラス」

「うん? まだ何かあるか?」

「助けてくれて、ありがとう」

 グレンが言うと、サイラスがまた笑った。

「君は追い剥ぎになるには、少々いい子すぎるな」

 彼はそう呟いて、部屋を出て行った。

 確かに、喜んでもらえた。




 その後、サイラスはグレンを自らの弟子とすることで、最低限の身分を与えた。未だに難しくて理解できないのだが、オルフェリア帝国にはそうしなければならない法があるらしい。

 サイラスには父も母もいたが彼らが養子に引き取るとは思えず、彼自身もグレンの年齢の養子を縁故もなく引き取ることはできなかったのだ。年齢や実子の有無などに、法律で制限があるのだ。

 怪我が治ってから、グレンは読み書きや計算など、最低限生活に必要な知識をこの医者夫婦に叩き込まれた。

 夫婦はグレンを実の弟か、あるいは息子であるかのように可愛がってくれた。時折訪れるサイラスの弟クレールは、兄夫婦が教えなさそうな物事をこっそり教えてくれたりもした。

 先生と言う呼び方は、いつの間にか学んでいた。誰かに教わった記憶はなかったから、患者がサイラスをそう呼ぶのを真似るようになったのだろう。彼も医者として先生と普段から呼ばれていたから、特に違和感はなかったらしく、いつの間にか定着していた。

 サイラスは時折、グレンに剣術を教えてくれた。あまり剣はうまく振れなかったが、剣を持つ相手に素手で向かう技術を身に付けることができたので、決して無駄なものではなかった。

「生きるために必要なことさえまともにできない子供に、生きろと言うだけ言って放り出すほど、僕も無責任な男じゃない」

 読み書きやら剣術やらを叩き込む理由を、サイラスはそう言った。

 一方でアーサーは、声が出せるようにならなかった。

 吟遊詩人として、帝国中を旅しながらリュートを弾きながら歌って、路銀を稼ぎながら生きていた彼は、突然声が出なくなってしまった。

 医者を頼ろうにも筆記用具もなかったので、症状が説明できないうちに時間だけが過ぎていった。生活の糧を歌に依存していた彼の路銀は底を尽きてしまい、路頭に迷っていたときに、目の前で少年が台車に轢かれたのだと言う。サイラスの妻であるシェリルの説明は、概ね正しかったのだ。

 サイラスは事情を理解してアーサーを診察したが、彼の声が戻ることはなかった。原因はわかっているようだが、その治療法が確立されていないのだと言う。医術は万能ではないのだ。

 シェリルは、アーサーに手話を教えはじめた。それは概ねグレンが読み書きや計算をしている間に行われており、彼女は違うことを学んでいるふたりの生徒の教師役を器用に勤めた。計算がわからないと言えば、時折アーサーは簡単な言葉を使いながら筆談で教えてくれた。

 グレンの学習が遅々として進まない一方で、アーサーは流暢に手話を使うようになった。失ったものの代わりだから必死だっただけだ。後にアーサーはこう語る。

 それは、シェリルが所用で席を外していた時に起きた出来事だった。

 グレンは何気なく本を見て、挿絵に目を止めた。アーサーに本を見せる。

「これ、何かわかる?」

 ――林檎だな。

 彼は答えてから紙に綴りを書いてみせた。ちょうどその頃に、用事を終えたシェリルが休憩していたサイラスとともに部屋に入ってきた。

「林檎」

 ――発音は合っている。林檎は、赤い皮に黄色い実の果物だ。皮を剥いて実を切り分けて食べることが多いが、皮ごと食べることもできる。食べたことはないのか?

「見たことはあるけど、食べたことはないな。美味しいの?」

 ――僕は好きだぞ。と言うか、林檎が嫌いな人はあまりいないと思う。あまり食べない人はいるかもしれないが。

 サイラスが、シェリルと顔を見合わせたことにアーサーが気付いた。そこでようやく、グレンが当然のように自分と会話していることに気付いたのだ。

 ――今更だが、僕が言っていることが、わかるのか。

「だいたい」

 ――そうか、シェリルさんに教えられているのを見ていたから、自然に覚えていたのか。

 ――今度、一緒に林檎を買いに行こう。市場までの道でわからないことがあったら、全部教えてやる。その代わり、店の人に僕の手話を通訳しろ。

「えーと?」

 ――通訳がわからないか。僕が言いたいことを、店の人に伝えてくれればいいんだ。できるか?

「わかった。俺、たぶんそれならやれる」

 グレンの返答に、アーサーが少しだけ笑った。

 それが、彼が手話通訳になったきっかけだった。

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