セレスティアの憧憬

5

 朝は夜明けと同時に起きるのが、旅をしている時のグレンの日常だった。

 旅と言っても、そう長い旅でもなく、いつも五日もあれば帝都オルローザに帰ることができる。とは言っても指示された旅だから、あまりのんびりしてもいけなかった。

 宿屋では、いつも二人部屋を取る。旅の相棒が部屋の扉から向かって奥側の寝台に寝ており、グレンが朝早く起きるのは彼よりも早く起きるためだった。これは、自分で勝手に決めていることなので、相棒より遅く起きたところで本当は特に問題ない。自分よりもずっと旅慣れている相棒に寝坊癖はないから、叩き起こす必要もないのだ。

 時間が経つと、相棒が起き上がる。彼は長い黒髪を手で振り払いながらグレンの姿を認めて、何度か口を開けてから、諦めたようにそっと右手を挙げた。

 ――おはよう。

 相棒の挨拶に、グレンも返事をする。

 目が覚めたら、声が出るようになっているかもしれない。毎朝、相棒はこれを試しては失敗し、グレンに手話で挨拶する。だからいつも、挨拶を返してやるために早起きしている。ただそれだけなのだ。グレンにとってそれだけ、この相棒は大切な男だった。

「飯にしようぜ、アーサー」

 そう言うと、アーサーは頷いた。

 アーサーは口が聞けないが、耳は聞こえる。昔は口が聞けていたらしく、こうして喋ろうと試みることがある。その度に絶望に染まったような表情をするから諦めたほうがいいと思うのだが、それは言わないでいた。

 挨拶くらいもっと明るい顔でしろよなんて、グレンの勝手な都合でしかない。

 宿屋の食堂で朝食を済ませて、宿の部屋を引き払うと、グレンはアーサーを伴って街を後にする。

 年が明けて半月ほど経った、大陸暦七六五年の一月のことだった。

 街は閑散としていたが、街道沿いには赤い軍服姿の軍人達を見かけた。

 ――赤狼師団だ。

 アーサーが小さく、ただし素速く手を動かした。この青年は、口は聞けないがお喋りなのだ。いつも、言いたいことがたくさんある。

 ――青蛇師団が解体されて、治安維持に回されたんだ。このあいだの全滅のことばかり有名だが、あれは初めてじゃない。青蛇師団の数もかなり減ったし、何より国力の低下が懸念されているんだろう。

「赤狼師団は傭兵上がりが基本の部隊だろ。傭兵が治安維持なの?」

 ――赤狼師団は傭兵上がりが多い割には、真面目な奴らばかりだ。そいつらに、たるみきった元青蛇師団を鍛え直させる目的はあるだろう。明らかに不向きな者は黒竜師団に異動させられたらしいが、実は今度戦争があると噂が……

「なぁ、アーサー」

 ――何だ?

「聞こえないからって喋りすぎじゃないか?」

 ――空気が読める相棒で助かるよ。

「空気が読めない相棒を持つと辛いぜ」

 グレンは露骨に嘆息しながら、先を急ぐように促した。街道をしばらく歩き、途中から旧街道に逸れた。目的地は、その先だった。

「あれだな」

 グレンが指をさした先には、砦が建っていた。アーサーが軽く手を動かす。

 ――滅ぼされた青蛇師団第四小隊の砦だな。中にあるものは、兵の命くらいしか奪わなかったらしい。調べられそうかな?

「人がいる感じはしないな。軍の調査は終わったんじゃないか?」

 ――万が一のことがあったら、道に迷ったことにしろ。建物が見えたから誰かいるかと思って来てみた、とな。

「了解」

 グレンは短く答えて、砦の中に侵入した。

 外観からは寂れた気配しかしなかったが、中は荒らされていた。音を立てずに奥まで進みつつ、周囲の様子を窺う。

 錆びた燭台は倒されており、溶けかかったまま潰れた踏み蝋燭が固まった形跡が床に残っていた。何かの書類はインクの瓶が倒れたのか黒く塗り潰されており、内容を確認することができない。折れた剣に紛れて転がっていた拳銃は、全弾残っていた。抵抗する間も与えられなかったのだろう。赤黒い染みが、まだ点々と残っている。

 金目になりそうなものは大方消えていた。軍の調査はもちろん、砦から兵が消えたことを知った盗賊たちが持ち去った可能性も高い。

 不意に、アーサーが足を止めた。机にある、瓶を眺めていた。グレンが様子を見ていると、彼は語り出した。

 ――このラベルは、ラディッシュ社のインクのものだな。

 ラディッシュ社は、オルフェリア帝国の経済界に大きな影響力を持つ、大手文房具メーカーだ。

 ――中身は、薄気味悪い色をした粉だ。例えるならば、萎びたラベンダーみたいな。これがインクではないのはまず間違いないとして、何の粉だろう。

 グレンも手話を返す。持って帰る?

 アーサーは頷いて、瓶に蓋をしてグレンに手渡した。袋を上から被せて、背嚢にしまう。

 ――そろそろ、いいだろう。早く出よう。


 街道に戻って北上すると、テイレシア王国属州メオリッドに抜ける国境がある。

 国境が近いからか、付近の情勢は張り詰めていた。メオリッド州は酒造が盛んで、果実酒の交易が盛んに行われていた。今年は果物が豊作だったから例年より少し安いが、噂どおりに開戦すれば交易が止まって価格が高騰するだろう。

 ――品薄になっているな。

 酒店でアーサーがぼやいた。

 ――安い銘柄のものがほとんどなくなっている。高騰前に買ったんだろう。

「先生、喜ぶかな」

 グレンは呟いて、アーサーが止めるのを無視して適当なものを二本購入した。止めた理由はわかっている。高価だからだ。

 ――何故あの価格で買ったんだ。

「少し安くなってたから。たぶん、高騰したらマジで高すぎて売れなくなるから、在庫を捌きたいんじゃないか?」

 ――買ってしまったものは仕方がないから、そう言うことにしておいてやる。先生が喜ぶのは、間違いないからな。

 アーサーの嘆息を聞きながら、酒店を離れた。再び旧街道に戻り、砦とは逆の道を辿る。

「砦の兵士が遊んでた娼婦たちの生まれ故郷は、こっちの方だって話だな」

 ――ネア村だな。風車小屋が目立つと聞いている。

「ああ。気を付けろよ。この辺りはヤバいのがいるらしいって、さっきの店の親父さんが言ってたぞ」

 グレンの曖昧な言葉に、アーサーが右手を振って首を傾げる。

 ――ヤバいの?

「キモくてヤバい不審者だって」

 ――その語彙をどうにかしろ、グレン。不審者なんて、だいたいどれもキモいかヤバいだろう。

「そっちこそ、萎びたラベンダーの色なんてわかるわけがねぇだろ」

 グレンは軽い口調で反論し、指をさして目的地を示した。小高い丘の上から見下ろせば、人家に混ざって建つ風車小屋が見えた。周囲には農村らしい風景が広がっているが、人や家畜の姿は目視できない。

「あれじゃないか、風車小屋」

 ――なるほど。どこの村にもあるような風車小屋が目立つというのはどういうことかと思ったが、物凄い数だな。

 グレンは頷きながら、数える。

「十二だ。普通あのくらいの規模の農村って、三つもあれば十分じゃね?」

 ――十分かどうかはともかく、だいたいどこの村もそのくらいだ。そう思うと異様な数だな。何のためにあんなに多く風車小屋を建てているんだ?

 ――風車とは、風を受けて回転させ、内部の機械を動かすのが目的の機械だ。電力の安定供給ができていない郊外では、よく使われる動力源だな。農村ならば排水が一番多い。あとは飼料を作るだとかだ。そのどれだとしても、村の規模にしては大きすぎるし、農村にしては畑が見当たらない。耕した形跡くらいはどこかに……

「アーサー。ちょっと待て」

 グレンが手で制した。

 アーサーが彼の手の仕草に従って後方を振り返ると、男がひとり、泥酔でもしているようなふらふらとした足取りで近づいていた。薄汚れてはいるが、青い軍服を着ており、手には剣がある。

 青蛇師団。解体されたから、もうその制服を着る軍人はいない。軍服はひどく汚れており、長らく手入れされた形跡がなく、既に剣を抜いているのが異様だった。顔の色は生気を失ったような土気色だ。眼はこちらを見ているように見えるが、視線は合わない。

「あんた、顔色やばいけど、大丈夫か?」

 思わずグレンは尋ねていた。男は答えず、まるで腕からぶら下げるように持っていた剣を振り上げた。まだ離れており、ただ振り回しただけだったが、その間にも男は距離を詰めていく。

 ――グレン。

 アーサーが手を動かすのを、グレンは横目でそっと見た。言いたいことはとっくにわかっていた。

 ――気味が悪くて常ではないキモくてヤバい

「不審者、か」

 グレンは言葉を引き取りつつ、アーサーの腕を掴んで男と距離を置くように導く。こちらは丘の上にいる。逃げるにしても慎重に動かないと、転がり落ちて怪我をする。

 男が、距離を詰めて剣を振る。その斬撃はふらついた足取りと裏腹に鋭いものだった。グレンは右脚を引いて回避し、男を睨みつける。

「危ねぇじゃん」

 彼は小さくぼやいてから、右の拳を突き出した。拳を受けた男の手から、剣が離れる。地面に落ちる前に、グレンは剣の柄を蹴り飛ばした。剣が、丘から転がり落ちていく。

「行くぞ、アーサー」

 速足で来た道を引き返すグレンに、やがてアーサーが追いついた。アーサーが親指を鳴らす。この音は、無事に付いて来ているからそのまま走れと言う、緊急時用の合図だ。それ以外にも助けを求める笛などもあるが、今は出番はないようだった。先ほどの男が、拳銃を使わなかったのは幸運だった。

 グレンはしばらく速度を緩めてから、アーサーを振り返る。

「どうにかなった?」

 ――ああ、たぶん。

 アーサーが、肩で息をしながら片手を振った。

「何だったんだよ、あの軍人は」

 ――わからない。ともあれ、ネア村の調査は中止だ。無事なうちにオルローザに帰ろう。

「いいのか?」

 ――ああ。これ以上赴くまでもない。人生を棒に振りたくなければ、あの村には近づかない方が身のためだ。

「よくわかんねぇけど」

 グレンは肩を竦めた。大袈裟すぎる気もしたが、とにかく危険であることだけは伝わった。アーサーの護衛はグレンの仕事のひとつだ。わさわざ危険地帯に向かって、仕事を増やす気にはなれなかった。

「そこまで言うのなら、帰ろうぜ」

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