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 クェシリーズ伯爵の邸宅は、オルローザの濁ったような白さの街並みの中にある。

 そこから軍の宿舎まで、通うのに不自由する距離ではないのだが、クレールはいつも宿舎に寝泊まりしていた。早く周囲に溶け込めた方が都合がいいし、実家はあまり好きではなかった。居心地がよくないのだ。

 勝手に医者になった兄と、それを最後まで反対した父の間には距離がある。兄が士官学校を退学するのを手伝ったことや、その後クレールが怪我をして前線を離れたから、クレールとも関係があまり良くない。復帰したと聞けば少しマシになるのかもしれないが、どうでもよかった。息子が思い通りにならないことで悪化して、少し思い通りに動くから良好になるような親子関係が、健全だとはとても思えないからだ。

 邸宅の敷地内に、二階建の離れがある。地下があるので正確には三階建なのだが、外観だけだと小ぶりな離れという印象があった。そこが、サイラスの診療所兼住居だ。

 仕事終わりに中に入ると、サイラスもちょうどその日の最後の患者の診察を終えた頃だった。患者らしき男が、書類を整理していたやたら線の細い女に声をかけてから、診療所を後にする。

 女が顔を上げて、こちらに気付いた。そして、顔を綻ばせた。

「まぁ。クレールじゃない」

「久し振り、シェリル義姉ねえさん」

 兄嫁のシェリルだった。金色と言うよりも黄色っぽいような金髪。穏やかそうな眼をした、白すぎるほど白い肌の痩せた女だ。サイラスが、目に入れても痛くないほど可愛がっている妻である。

「ちょっと、兄貴と飲みたい気分になったんだ」

「ふふ、サイラスも喜んでくれるわ。呼んでくるから、ちょっと待ってて」

 心ばかりの土産を渡すと、シェリルは嬉しそうにそう言って、奥の診察室に向かった。何やら会話をしているようだが、争っている雰囲気はない。結婚して三年少々、ふたりの夫婦仲は終わらない蜜月のように円満なのだ。このふたりが一瞬でも険悪になっている姿を、クレールは見たことがない。

 両親よりも兄夫婦の方が訪ねやすかった。兄夫婦の姿には時々呆れそうになるが、クレールの出世と自分の保身のことしか考えない父と、クェシリーズ家の世継ぎのことしか考えない母とは比べるべくもない。

「クレール、来てくれて嬉しいよ」

 ややあってから、眼鏡をかけた男が奥から皺が寄った白衣を脱ぎながら現れた。サイラスだ。髪の色は同じ赤で、どちらかと言えば細身な方だが、背が高いクレールに対して、サイラスは背はあまり高くない。顔つきは、鼻筋以外は似ていない。そこまで似ている兄弟ではないだろう。

 ダイニングに連れられて、先ほど渡した土産をシェリルが出してくれる。自分で作ったものと、出来合いの惣菜が混ざっていた。クレールは、兄夫婦のところに向かう時はいつも手料理を持ってきていた。料理は幼い頃からの趣味だ。

「いいものがある」

 勿体ぶったような口調で、サイラスが瓶をテーブルに置いた。テイレシア王国にある国境近くのメオリッド州が原産の果実酒だ。葡萄酒と林檎酒。クレールも知っている、多少高価だが有名な銘柄である。

「マジでいいやつじゃん」

「弟子を使いにやったら、帰りに買ってきたんだ」

 サイラスには弟子がいる。

 弟子がいるような年齢ではないのだが、戸籍がなかった路上育ちの孤児を拾って面倒を見てやっているのだ。戸籍がない子供に戸籍を与えるために、便宜的に弟子だとか助手だとか言う肩書きが必要で、サイラスは子供が将来を自由に選べるように弟子と呼んでいた。助手だと、その子が将来医者を目指すことが半ば必然だが、弟子ならば形ばかりの破門ができる。

「兄貴、あいつは葡萄と林檎はどっちが好きだ?」

 その子供はまだ少年だが、純真にサイラスのことを慕っているようだった。クレールにも懐いているから、気が向いた時に兄夫婦が教えなさそうなことを教えてやったりしている。もちろん、悪意はない。

「好きな方を、酒飲めるようになるまで取っておいてやろうぜ」

「いい考えね」

 クレールの提案にシェリルが乗った。

「あの子は、林檎の方が好きよ」

「そうだな。五年先まで林檎酒を取っておいてやろう。葡萄酒は飲まないと、それはそれで悲しむ子だし」

 サイラスはそう呟いて、林檎酒を手早く下げた。誤って飲んでは意味がないからだ。兄は酔っても害はないが記憶をなくす。自分が何をするのかがわからなくて嫌なのだろう。

「お前にしては、優しいな?」

「人に優しくもなるさ」

 クレールは思わず苦笑した。「悪魔のような女に日々鍛え直されてんだ。いつか誰か怪我しないかと気が気じゃねぇや。疲れちゃって」

「そう言うのは、シリウス殿がなんとかしてくれるだろう」

「おっさんが?」

「その呼び方はどうなんだ」

 サイラスが、思わず呆れて嘆息した。シェリルが少し苦笑した。彼女は飲まないようだ。普段は嗜む程度に付き合ってくれるが、今は飲まないらしい。後で知ったが、この時には既に懐妊している可能性があるとわかっていたのだ。

「赤狼師団の副団長だった方だ。少しは調べておけ。シリウス・アーヴィングと言えば、二十年前の戦役で活躍した大英雄で、少し上の世代ならば知らない人はいない方だ」

 そんな大物が、どうして黒竜師団の新設部隊に。

 それをここで問うても仕方がないと判断したクレールは、あえて何も問わなかった。兄からの情報は十分だ。調べておいて損はなさそうだ。シリウスはハイリアのターゲットではなかったが、何かあったら監視対象にはなる。

 これ以上は切り上げて、取り留めのない雑談を続ける。

 クレールに特定の恋人を作る気がないのは、以前からのことだ。酒場などで知り合った女との関係は、長くても十日で終わる。互いに同じような考えの相手を探しては遊ぶことを繰り返しているので、また会う時もあれば会わない時もある。刹那を楽しんでいるのか、縛られるのが嫌なだけなのかは、自分でもわかっていなかった。

 サイラスは理解はできないが尊重はするとしており、シェリルは一生隣にいたい相手に出会えたらその時に考えればいいとしている。ただし、どちらも女遊びは大概にしろとは釘を刺してくる。幼い頃から容姿にだけは恵まれていたクレールは、遊び相手の女には困らなかったのだ。

 母から再三にわたって結婚を迫られているが、肝心の相手がいないのだ。結婚して欲しいなら相手の候補を連れてこいと主張するのは、親同士が決めた見合いでの結婚が一般的だったこの時代の王侯貴族の間では、筋が通らない主張ではなかった。

「ところでクレール。これはおまえが作ったのか?」

 サイラスがフォークを軽く刺した料理は、肉と野菜を煮込んだものだった。誰が作っても似たような味になりそうな、こんな簡単な家庭料理でも喜んで褒めるくらいには兄は料理の経験が浅い。火が苦手だから、あまり料理ができないのだという。

「前より上手くなったんじゃないか?」

「肉の種類変えただけだろ。作り方も調味料も変えてない」

「それなら、肉の選び方が良くなった」

「解釈と褒め方が斬新」

 クレールが突っ込むと、シェリルが吹き出して苦笑した。

「知ってると思うけど、いつもこんな感じよ、この人」

「シェリルの料理は世界一だ。クレールはその次」

「わたし、料理はクレールの方が上手だと思うけど」

 シェリルが呆れて呟くが、サイラスには聞く耳がなさそうだった。

「何を言う。シェリルは全てにおいて最高だろう。僕の妻は少々痩せすぎだが、それ以外は何もかもが完璧だ。見てわからないのか」

 生憎、見てもわからない。シェリルの顔立ちには穏やかさと知性があるが、絶世の美女ではないだろう。

 彼にとって妻以上の存在になる物事なんて、ひとつもない。日頃から妻が呆れるくらいに褒めちぎるらしいが、酒が入ると人目も憚らなくなり、そして散々褒めちぎった記憶は翌日には消えている。

「何だかごめんなさいね、クレール」

 シェリルが居た堪れなさそうに苦笑して、小声で声をかけてきた。褒められて悪い気はしないだろうが、人目は気にして欲しいと言ったところが。

「仕事の愚痴のひとつでも、言いたかったのでしょうけど」

「いや、義姉さんは気にするなよ。いつも通りだろ。兄貴が元気そうで安心したよ」

 兄と酒を飲むと、妻を褒めちぎることはわかっていた。いつも真面目な兄が惚気る姿は、ちょっと呆れるが、見ていて意外なほど嫌ではない。むしろ褒めなかったら不安になる。

「わたしが痩せてる以外完璧だなんて、寝言は寝て言えって話よね。わたしよりも綺麗な人なんていくらでもいるし、料理もコーヒーももっと美味しく食べられるお店がいくらだってあるわ」

 惣菜の蒸かし芋の料理を口に運びながら、シェリルがぼやくので、クレールは吹き出した。この義姉の呆れ顔も、なんとなく見ていて安心する。

 オルローザの街並みの穏やかな夜が過ぎていく。

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