セレスティアの顕現

1

 大陸暦七六五年、二月。

 硝煙が、雲ひとつない晴天に向かって立ち昇る。

 火薬の匂いと鉄の匂いが混ざる風が、吹いている。まだ、血の匂いはしない。

 平時ならば新緑の草原が広がる地面は煤や泥に汚れていて、灰色の空気が漂っているような気がした。

 気が滅入ってきそうな空間だと、クレールは思った。

「クレール」

 腰に剣を提げた中年の男が尋ねてくる。「怖いか、戦場ここが」

 黒衣の軍服に付けられている腕章は中佐のものだったが、口調から階位は感じさせなかった。近所のパン屋の親父が出来立てを勧めてくるような穏やかさがある。ただし、顔つきは精悍で、戦場を見据える視線は鋭いものだった。

「別に」

 クレールは、少しぶっきらぼうに答えた。「おっさんが思ってるよりは、怖くねぇよ」

 事実として、怖いとは思っていなかったのだが、男は少し苦笑した。痩せ我慢だと思ったのかもしれないが、訂正する気もあまりなかった。緊張していないと言えば、さすがに嘘になる。

 年齢も階位も離れた中年の副隊長は、若造の失礼な言動など、まったく気にしていないようだった。そういうところは、おおよそ軍人らしくない。むしろ、久しく戦場に出ていなかった復帰直後の若造を気遣っているほどだ。

 いい上官に恵まれたかもしれないなどと思いそうになって、クレールは首を左右に振った。

「何度来ても慣れねぇなって、思ってただけだ」

「慣れなくていいさ、こんなところ」

 副隊長が、軽く稜線を見上げる。「戦場に慣れたら、ろくな死に方をしない」

 その声音には、どこか物悲しい響きがあった。数え切れないくらい戦場に出たこの男は、何度もそうやって仲間を失ってきたのだろう。

 その稜線の先に、隣国、テイレシア王国はある。

 ただ、彼がテイレシア王国を見据えているのかは、わからない。隣国などよりも、もっと遠いどこか。そんな気がした。

 先頭を歩く隊長が、停止の号令とともに振り返る。

「第七小隊」

 銀色の長い髪の上に、槍を象った帝国の国章があしらわれた、黒い軍帽を載せている。

 明らかに小柄な娘とわかるその体躯に、ふたつの剣と拳銃を腰に提げていた。

 彼女は自分の部下たちを見回し、ふた振りの剣のうち、長い方を抜いた。

「最後に、作戦をもう一度説明するので、耳の穴穿ぽじってよく聞きなさい」

 語調に妙な存在感がある若い娘。それが、クレールの上官だ。

 クレールの任務は改めて説明されるまでもなく、わかっている。

 渡された小さな機材を、握りしめた。




 *




 クレールが風変わりな女隊長が率いる新設部隊に配属されたのは、ひと月ほど前になる。

 ――オルフェリア帝国、情報部。

 地図や機密資料が整然と並んだ書架と、総督が利用する机と椅子がひと組あるだけの部屋だ。余計な装飾のひとつもない。

 クレールがこの部屋を訪れた時、部屋の主はこちらに背を向けており、窓から眼下に見下ろせる帝都オルローザの街に視線をくれてやっていた。いつも、そうだ。

「待っていたぞ、クレール」

 扉を叩いて中に入っただけで、声をかけたわけではない。だが、歩いて背後に近づいただけで、その金髪の男は誰が来たかを完全に把握していた。いつも、そうだ。

 音もなく、男が振り返る。肩に届く金髪に、銀縁眼鏡の向こうに見える青い瞳。肌は白く、顔立ちは中性的で美しい。

 クレールはこの男の年齢を知らない。経歴から察するに、少なくとも四十は過ぎていると思うのだが、とてもそうは見えないほど若く見える。見た目だけならば、三十前くらいの美青年と言ったところだ。

「お待たせしてしまい、申し訳ありません、ハイリア様」

 エドワード・ヒューザック・ハイリア。

 オルフェリア帝国の宰相にして、帝国情報部総督だ。内密に諜報員を束ねて集めた帝国内外の情報を利用して、宰相の地位にのし上がった男だ。本人も、変装が得意な腕利きの諜報員だったらしいから、今の姿も素顔ではないのかもしれないとクレールは思っていた。

 今となってはその経緯を知らず、情報部は宰相が戯れに創設した私設部隊だと思う若い者も多い。十年経てば時代の常識なんて変わるものだ。

「構わんよ」

 ハイリアは、布張りの椅子に深く座った。いつも通り、脚を組んで上にした左膝に、軽く組んだ両手を載せる。

「クレール。おまえには、明日付で黒竜こくりゅう師団に異動してもらう」

 表向きは、と言う意味である。

 クレールは、表向き軍の技術部に所属していることになっていた。実際には技術部の不正調査及び内部粛清の担当だったのだが、少なくともそれをクレールが担当する必要がなくなったのだろう。

「以前、おまえは任務中の怪我を理由に前線から離れて技術部に異動した。その怪我が完治したので、前線復帰を志願したと言うことにしている。不本意かもしれないが、そういうことにしておけ」

「承知しました。俺が探るのは、レナート師団長ですか?」

 黒竜師団長であるレナートは、皇帝アナスタシアの親戚らしいが、部下の手柄を奪ったとか賄賂を使って昇進したとか、畑違いの技術部にいても耳に挟んでしまうほど黒い噂話をよく聞く名前だ。

「放っておけ。あんな小者」

 ハイリアは、つまらなさそうに一蹴した。「奴に関しては、『真実』を報告してくれればそれでいい」

 わざわざ内部粛清のために探るまでもない、と言うことだろう。

 レナートの身辺を漁りたければ、もっと早く監視の眼を出しているし、結果もとっくに出ているだろう。ハイリアは、女帝の親戚だろうと消すことを躊躇う男ではない。

「今回、おまえには第七小隊に入ってもらう。傭兵上がりの若い新任が隊長に着任する、新設部隊だ」

「俺が探るのは、その傭兵上がりの若い隊長とやらですね」

「そうだ。名前は、エミリューレ・ヴァレリア。女。年齢は二十一」

 実力主義的なオルフェリア帝国軍において、傭兵から仕官することは珍しいことではないが、彼らが隊長まで昇進することは稀だ。まして、それが二十一歳の娘であれば尚更だ。

「出自は不明。孤児だと申告していたので、その氏名も本名かもわからん。見ただけでは、何故この小娘が昇進したのかと思うだろう。だが、わたしはあれはただの小娘ではないと見ている」

 ただ少し怪しいだけでは、排除などはしない。本人の実力がきちんと認められていることもあるだろう。そもそも、傭兵上がりが昇進しづらいのは、腕っ節はよくても部隊を率いる立場には不向きな者が多いからだ。

 だが、問題の有無もわからない不透明な人間を野放しにするわけにもいかない。問題なければ、それでいいのだ。脅威がなければもっといい。

「白黒をつけてこい、ということですね」

「その通りだ。まずはそれでいい。先月末の青蛇の件があるから、不穏分子は摘み取っておかねばならん」

「承知しました」

 先月末、隣国テイレシア王国との国境近くの守りを担当していた青蛇師団第四小隊の砦が襲撃され、壊滅したとの情報があった。

 この件について、テイレシア王国軍によるものだろうとの見方が強い。

 軍の再編は青蛇師団の一部隊が全滅したことがきっかけだが、実際にはテイレシア王国への報復としての侵攻を目的にしている。

 青蛇師団の砦が襲撃されるのはこの三ヶ月で五度目のことだが、被害は今回が一番甚大だった。これまで、全員が死亡した例はなかった。就寝中の兵や、裏手を見張っていた兵は襲われなかったのだ。

 ただし、青蛇師団第四小隊は、日頃からあまり真面目に砦の防衛に取り組んでいなった。本来ふたりいるはずの見張りはひとりだけだったことが判明しており、毎晩のように酒盛りをしていたらしく、街道沿いで酒を買い娼館に通う姿は何度も目撃されていた。もちろん遊ぶことが悪いわけではないが、現場に残されていた酒瓶の数は商売でも始めるのかと思うほどのものだったらしい。

 事実を誰がどこで知ったかはともかく、そこまで油断している砦であることを知っていれば、狙われるのは半ば自然とも思えた。軍の最高幹部たちは、不憫ではあるが自業自得と第四小隊を断じ、青蛇師団長はその責任として更迭――正確には、青蛇師団は解体されて他の師団に組み込まれることとなった。

 現場に銃創などはなく、テイレシア王国軍の武器が扱われた痕跡は見受けられなかった。つまり、テイレシアではないかもしれないのだ。

 金目のものには手をつけられていないから、賊ではなかったと考えるのは妥当だ。しかし、オルフェリア帝国内部の可能性はある。ハイリアの言う不穏分子とは、そう言う意味だ。

「白ならば、ありのままを報告しろ。それでおまえの任務は終わる。黒ならば、報告の上戦場で始末しろ。所詮傭兵上がりの女、死んだところで誰も困らんだろう」

「はい」

「今度の任務は、おまえも戦場に立つことは出てくるはずだ」

 ハイリアが、クレールを見上げた。

 クレールは束の間たじろいだ。ハイリアと言う男は、ただ動かすだけの駒に、視線などをくれてやる男ではない。

「死ぬなよ、クレール」

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