セレスティア
桜崎紗綾
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月のない夜だった。
闇夜に瞬く星明かりは視界を照らすほど明るくはなく、背後には篝火が揺らめいていた。その炎も、照明としては些か心許ない。
時刻は深夜だった。日付がもうすぐ変わる頃だろう。篝火があったところで、空気は肌寒い。
時折背後の砦から聞こえる騒がしい声に、外に立つ見張りの兵は思わず嘆息した。仲間たちは今頃、暖かくて明るい部屋の中で酒でも飲みながら賭博をしているのだ。彼も昨夜は賭博に興じていた。それに負けたから、見張りに立つ羽目になったのだ。
旧街道の、寂れた道の先にある砦だった。
昼間は人の往来はあるが、夜には滅多にない。近隣の猟師が付近の獣を狙いに訪れるのは朝だし、旅人もとっくに宿を取っている頃だ。賊どもも、仮にも帝国の正規兵が集う砦に手を出すほどの馬鹿ではない。
この砦の夜の見張りに、突っ立っている以外の仕事はない。たまに夜行性の獣が現れるから、これを追い払うことがあるだけだ。もちろん、仕事なんてものはない方がいいに決まっていて、仕事がないからこそ翌日の見張りが博打で決まるのだ。
早く交代が来てほしいものだが、月がないから時刻がわかりづらい。交代もなかなか酷い負け方をしていたが、少しだけマシだった。彼の手元に揃っていた手札は悪くなかったのに、その使い方を間違えたのだ。自分は最初から詰んでいた。あの手札で勝てるなんて、それこそ奇跡みたいなものだ。内訳を知れば、みんなちょっと憐れんだが、憐れむだけで、見張りを代わってくれるお人好しな物好きはいない。
揺らめく篝火が照らす視界の奥から、不意に人影が現れた。
深夜に砦の前に現れる人間は珍しい。だが、遠くから見る限り、人間のようにしか見えない。愚かな賊か、迷った旅人か、それとも訳ありか。
ともかく、声をかけなければならないだろう。少なくとも、危害を加えそうかどうかの判断はしないといけない。
その人影の歩みに躊躇う様子はなかった。明らかに、この砦に用事がある。弱い風に外套が
「おい」
兵士は少しだけ逡巡してから、来訪者に声をかけた。
その来訪者は、返答はせずに近付いて来る。聞こえているだろうに失礼な奴だ。まさかこの状況で、声をかけられているのが自分だと気付かないはずもあるまい。
もう一度声をかける。
「そこの、聞こえないのか」
襟巻きで顔を鼻先まで隠していて、顔立ちはわかりづらい。やはり、小柄ではないが、大柄でもない。ごく平均的な体躯の男といったところか。
腰に剣を提げていた。旅人の護身にしては使い込まれすぎていることに、兵士は気付かなかった。
「
呟き、無造作に剣を抜いた。声は低く、明らかに男のものだった。「見張りは、二人一組が常のはずだ。こう言う時のためにな」
そこでようやく、兵士は立てかけていた槍を掴んだ。見張りが実質丸腰という体たらくでは、弛んでいると言う言葉の意味は、考えるまでもなかった。
「あんた、まさか」
兵士が眼を見開いて呟いた。喫驚しているのは、たった一人が砦ひとつを襲おうとしているからではない。この命知らずな男が何者なのか、気付いてしまったからだ。
「赤い狼――」
兵士の言葉はそこで止められ、それ以上先を発することはできなかった。槍が地面に落ちる。男の剣が、兵士の胸を切り裂いていた。
「恨みたければ恨め」
男の声は、重く静かなものだった。
「君に、個人的な恨みはないのだが」
青を基調とした衣服が、赤く染まる。それはやがて、黒に変わるだろう。
その剣先は兵士の肋を切断し、肺腑にまで到達していた。男が剣を引く。兵士はもう、声を出すことも槍を掴むこともできなかった。それどころか、呼吸もできなかった。
男が指摘した通り、確かに、見張りはもう一人必要だった。有事の際、自分が時間を稼いでいる間に、中で盛り上がっている仲間に危機を告げられる、もう一人が。
男の姿は視界から消えていた。
ほどなく、砦の中から仲間たちの悲鳴が聞こえてくるだろう。酒と博打で盛り上がる彼らは、きっと素面に戻る間も与えられないのだ。いや、何が起きたかさえ、理解できないかもしれない。
敵襲。
兵士が叫ぶべきだった一言は、遂に発せられなかった。
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