エピソード14 興津恵零那は諦めない・中編

2.

 予想だにしなかった言葉に一瞬理解が追い付かず、ナイフとフォークを持ったまま石造と化していた。刹那、両手の小指球の辺りに焼け付くような強い衝撃が走った。


「あっっっつ!!!」

 一瞬にして何が起こったのかに気付く。どうやら無意識的にハンバーグが乗った鉄板に両手が触れてしまったらしい。僕の両手は、ナイフとフォークを握ったままの状態で文字通り焼け付いた。


「え、嘘でしょ。馬鹿じゃん。わら、笑いが、止まらないんですけど」

 椅子から飛び跳ねて熱さと痛みに悶絶する僕を見て、これまた文字通りに笑い転げる興津さんは目尻にうっすら涙を浮かべながらゲラゲラと笑っていた。


「いや笑い事じゃないんだよほんと!しかも両手!」

 既に両手の小指球は赤く染まり、少しずつ腫脹がみられ始めていた。


「いや、だって・・・ごめん、笑いが、おさ、おさ、抑えられなくて。」

「いててて・・・まあいいや。それよりさ、部活の件、詳しく教えてもらえるかな。」

「そう、だね。そうだったそうだった・・・」

 さっきまで笑い転げていた興津さんがなんだか急にばつが悪そうに口籠る。


「今頃さ、吹奏楽部って全国コンクールの時期なんだよ。それでね、私はずっとそれを目指してた。もちろんうちの高校は別に強豪ってわけじゃないし、今の部員達が特別上手いってわけでもない。まあ私も含めてなんだけど・・・でも、やるからには全国目指してた。一年のころからずっと目指してきた。でも、駄目だった。足元にも及ばなかった。」

 興津さんはただ淡々と語る。そこに感情などないように。


「そしたらね、なんか急に真っ白になっちゃったんだ。私には後一年ある。でも、今の段階で足元にも及ばなかった私たちが、来年全国の舞台に立てるのかって不安と、一体このままいつまで音楽続けていられるんだろうっていう漠然とした将来への不安と、あとは純粋に進路への不安とってとこかな。今の所音大行くのは考えていないし。そういうさ、色んな事を考えてたら何のために部活続けてんのかなーって思って、なんていうかさ・・・しんどくなっちゃった。」

 言い終えるとふーっと一つため息を漏らす。しかしその表情は不思議と鬱然としていない。むしろどこか清々しささえ感じられた。


「ってな感じ。ありがとうね。」

「ありがとうって、僕は何もしてないよ?寧ろ勉強教えてもらって、ハンバーグ喰って、興津さんの話を聞いて、ただそれだけだもん。」

「あと手を火傷してね。」

 そう言って興津さんの口角が僅かに緩む。きっと今、興津さんの脳内ではさっきの光景が再現ビデオのように流れているのだろう。


「茶化さないでよ。」

「ふふっ、ごめんごめん。でもさ。話聞いてもらえただけでよかったんだよ。こんな話、部活の仲間には言えないじゃん。だからさ、ずっと一人で考えていたんだけどどうにもモヤモヤしたまままとまらなくて。だから誰かに聞いてもらいたかった。一回整理したかったんだ。だからさ、その、ありがとう。」

「そっか。こんなことくらいしかできないけど、また僕でよければ興津さんが溜め込む前に話聞かせてよ。」

「うん。ありがとうね。でも榎野さ、今『自分にできることは何かないか』なんて考えてるんじゃない?」

「えっ?!」

 図星だった。今興津さんに言われた通りのことをまさに考えていた。維織ちゃんの時もそうだ。何ができるでもないし、僕に何かしてもらいたいなんて、相手からは求められていないのかもしれないけれど、それでも何かしてあげられることがあればと無い頭を捻って思いを巡らせていた。

 それはきっと偽善なのかもしれない。相手に奉仕することで、相手を喜ばせることで快感を得たいという単なる欲求なのかもしれない。いい人だと思われたいという、一種の他者承認欲求なのかもしれない。

 そんな汚い欲求に塗れた存在が僕であることを自己理解している。理解したうえで、それでも何かできることはないかと考えずにはいられなかった。きっと、他に好きになってもらえる方法が思い浮かばなかったからなのだろう。


「分かりやすい反応だね。そういうのいいから。別に榎野に何かしてほしい、答えを欲しいなんて思ってないし。」

「え、あぁ、まあそうだよね。うん。」

 分かってはいたが面と向かって言われると少しへこまずにはいられない。興津さんも悪気があって言ったわけではないだろう。彼女はいつもストレートだ。誰にでも公平で、裏表がない。それは彼女の魅力でもあるが、今は少しだけ心の奥がチクっとした。


「ん?榎野、どうかした?」

 ほら、現に興津さんは一瞬だけ陰った僕の表情を見逃さず、けれど心当たりもないようで純粋に心配したような表情を僕に向ける。


「いや、何でもないよ。興津さん的には、もうやめるってことで腹は決まっているの?」

「うーん、正直まだ悩んでる。何が何でも辞めるってより、まだ辞めようかどうしようか・・・って感じ。」

「そうなんだ・・・興津さんはさあ、どうしたいの?」

「何それどういうこと?」

 言葉より先に興津さんの顔つきが変わった。これ以上はまずいか・・・


「いや、純粋に辞めたいのか続けたいのかどっちなんだろうなあって思って。」

「そんなん分かんないから悩んでんじゃん。私別に特別上手くもないんだよ。自分で演奏するのも、人に教えるのも。なのになんか次の部長を私にしようみたいな話があるらしくて。もちろんそうやって期待してもらえること自体は嬉しいよ?だけど自分よりもっとうまい部員はいるし、特別自分がリーダーシップを発揮できる性格だとも思えないし、来年全国行ける保証もないし。そんなこんなでモチベがなくなっちゃったんだよ。」

 興津さんの抱えていた感情が一気に外へと溢れだした。別に僕に対して怒っているわけではないのだろう、けれど所々強まる語気から、彼女がいかに悩んで藻掻いて苦しんでいたのかが痛いほど伝わってきた。


「じゃあさ、興津さんは今でもホルン好き?」

「は?なにそれ、そんなん当たり前じゃん。」

 即答だ。けれど僕はそれをどこか安心していた。やっぱり興津さんは純粋に音楽が好きなんだ。ホルンが好きなんだ。だったら・・・


「それじゃあさ、もう答えは出てるんじゃない?」

「・・・どういうこと?」

 興津さんの頭上を取り囲むように“?マーク”がいくつか浮かんでいる。どうやら僕の言いたいことはまるで彼女に伝わっていないらしい。

 やっぱり興津さんはストレートだ。彼女とのやり取りの中で回りくどい言い方は誤解を生むだけで、メリットなど何もない。ストレートな彼女には僕もストレートになる必要がある。


「ホルンが好きなんでしょ?演奏するのが好きなんでしょ?じゃあ黙って続ければいいじゃん。一体いつまで続けらるのか?知らないよそんなの。好きならそのまま続ければいい。それで将来的に喰っていくつもりがなくたって、好きならそれだけで続ける理由には十分じゃん。だって稼ぎのあてにするためにホルン吹いているわけじゃないでしょ?部長になるかも?それも知らないよ。嫌なら断ればいい。嫌々続けるくらいなら最初から辞退したほうがましだよ。」

 興津さんは黙って聞いている。少しストレートすぎたかな?


「とにかく嫌いになってないなら、やらない理由も辞める理由も探す必要はないんだよ。好きだから続ける。コンクールはその目的のための手段に過ぎない。違うかな?」

 変わらず興津さんは無言のままだった。


「興津さん?」

「・・・っさい。」

「え?」

「うっさい!榎野のくせに生意気なんだよ!知ったようなこと言わないで!吹奏楽の事なんて何もわからないくせに!キモヲタぼっちのくせに!ムッツリスケベのくせに!」

 あれ?おかしいな、涙が出そうだ。

 どさくさに紛れて罵詈雑言を浴びせられ、何も感じずにいられる程僕の心は強くなかった。


「好きだからもっと上手くなりたいんだよ。上手くなったら認められたいんだよ。大会で勝ちたいんだよ。それって変なこと?当然じゃないの?」

「それは、そうだけど・・・」

「どれだけ好きなことだって、どれだけ一生懸命やったって、他人と比べてみたら自分の実力を嫌でも目の当たりにさせられるし、評価は嫌でも下される。それでも『まあいっか~私は趣味の延長程度でやってるだけだし。』って割り切れることができるほど、私の気持ちは淡白なものじゃないんだよ。」

 強い瞳で訴えかけてくる興津さんからは確かな意思が伝わってくる。興津さんの言う通り僕のような何も知らない、何にも挑戦したことのない人間が、気休めのような心地のいい言葉をただかけるだけなのは失礼以外の何者でもないのかもしれない。

 けれど、興津さんの苦しそうな表情、耐えきれず漏れ出た言葉から改めて伝わってきたものもあった。


「ごめん興津さん。無責任なこと言った。僕が興津さんに何か言えた義理じゃないよね。そもそも僕と興津さんはただのクラスメートなんだし。」

「いや、そういう言い方・・・」

「でもさ、単なるクラスメートでも、僕はやっぱり興津さんは続けるべきだと思うよ。だって興津さん、やっぱりホルン好きじゃん。負けて悔しかったのは負けたくなかったからでしょ?負けたくなかったのは好きだからでしょ?好きだから頑張ってこられたんでしょ?ここで終わりにしていいの?」

 そうだ。結局彼女はホルンが好きなのだ。好きじゃなかったら全国なんて目指せない。本気じゃなかったら毎日遅くまで練習続けることもできない。いくら他人から何か言われようが、好きな気持ちなしに、人は何かを続けることはできないのだ。ソースは俺。


「榎野。」

「ん?なに?」

「・・・なんかムカつく。殴っていい?」

「え?おっしゃっていることがよく・・・」

 次の瞬間、グキッっという音が聞こえ、目の前が真っ暗になった。遅れること数秒、顔面に痛みが駆け巡った。


「いっっっった!?」

 あなたを殴ります、という唐突な犯行予告から僅か数秒の出来事だった。殴るってなに?どういうこと?なんで?そしてどこを?殴るといっても女の子だからちょっとデコピンとか軽いビンタくらいか?なんてことを考える間もなく繰り出されたのは拳一閃、右の正拳突きだった。そしてそれは見事に僕の顔面の中央、つまり鼻筋を捉えたのであった。


「やっぱりムカつくわ。でもなんか少しスッキリしたかも。」

「こっちはひどい目に遭ったんだけど・・・」

「生意気に知ったような口きくからよ。榎野のくせに。」

 さっきから散々な言われようだ。けれど不快に感じないのはきっと興津さんの人柄故なのだろう。


「まあいいや、この話はもうおしまい。さっさとご飯食べて帰ろ。」

 そう言って残りのパスタに手を付け始める興津さん。それを見ながら自分のハンバーグを片付けることにした。鉄板はすでにすっかり冷めきっていた。

 お互い黙々と食べ、お互い何かを話すこともなく食べ終わるとファミレスを後にした。


「榎野、火傷したとこ大丈夫?」

「え?多分大丈夫だと思うけど。」

 暗くなった夜道を二人並んで帰る。火傷の事は興津さんに言われるまですっかり忘れていた。言われてみると確かに少しヒリヒリとした痛みが残ってはいるが、それだけだ。


「ほんと?ちょっと見せてみなよ。」

「いいけど・・・ほんと大丈夫だよ?はい。」

 ポケットに入れていた手を興津さんの前に向ける。なんとなくこうしてまじまじと女の子に手を見られるのは恥ずかしいものがある。

 何をされるのかと恐々としていると、興津さんの手がそっと火傷した場所に触れた。白くて細い興津さんの指は少しひんやりとしていて心地いい。そんな興津さんの冷たい手とは対照的に僕の手は見る見るうちに熱くなっていった。

 緊張で興津さんの方を向くことすらできない。何をされているのかも分からず、恥ずかしさのあまりただ天を仰いでいると興津さんの指が離れていった。


「はい、もういいよ。」

「え?何?」

「絆創膏、貼っておいたから。家に帰ったら剥がしてちゃんと冷やしなさい。」

 そう言われて自分の手を見ると、さっき興津さんに触れられていた場所には、小さな絆創膏が二枚貼られていた。何かのキャラクターだろうか?見たことのない、小熊のようなプリントがされていた。


「ごめん、今大きい絆創膏切らしててさ。火傷に絆創膏ってあんまり意味ないだろうけど、一応ね。」

「あ、や、その、ありがと。」

「ん?ああいいって。吹奏楽ってさ、弦楽器やってる子たち結構指切ったりタコできたりするんだよ。だから一応常備してんの。偉いでしょ?」

「そっか、そうなんだ・・・けっこう体力いるんだね。」

「そうだよー、これでも走り込みとかもやってるから、榎野より体力あるかもね。」

 照れくさそうに小さく笑うと、興津さんは小走りで駆けていくと、数十メートル先の街灯の下で止まり、そしてこちらに振り返って見せた。


「榎野ー!」

「えー?何ー?」

 離れているせいかよく聞き取れない。


「今日はありがとね!」

「え?ごめん興津さん、よく聞こえないy」

「何でもないよ!じゃあ帰るわ!私こっちだから!じゃあね!」

「あ、ちょ、興津さん!」

 大きく手を振ると、方向転換し颯爽と去っていく興津さん。ショートヘアが夜風に煽られ踊るように小刻みに揺れている。

 闇夜に舞うその姿が見えなくなるまで、僕はただただ眺めていた。

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