エピソード13 そして用宗維織は歩き出す・後編

3.

 維織ちゃんをいじめていた水泳部員が退部になったあの日からあっという間に数日が過ぎた。

 当たり前に思われるかもしれないが、僕の生活自体は何も変わらなかった。変わりのない日常と変わりのない風景の中をただ時間だけが流れていく。周囲は間近に迫った修学旅行の話題ですっかり持ちきりだった。

 それでも僕はあの日の事を忘れられずにいた。脳内には今も海堂の怒声が鮮明に響き渡る。富士宮先輩の言う通り、他の手段など思いつくのを待っていても事態が深刻になっていただけだったのかもしれない。それでも僕は、自分の選択にどうにも納得できずにいた。


 10月も半ばに差し掛かろうとしている放課後の校舎には、既にほとんど人影がない。教室に残っているのは音出しをしている吹奏楽部の生徒だけだ。そこには西日に目を細めながらも、真剣にチューニングを行う興津さんの姿もあった。

 なにとはなしに教室から廊下へ出て対面にある窓を開けると、冷えきった秋風が居場所を求めるように校舎へと流れ込んできた。さっきまで暖房の効いた教室にいたせいで思考力が低下していた頭の熱を冷ますように全身に冷気を浴びる。身体中に帯びた熱気がゆっくりと冷めていって気持ちいい。

 窓から顔だけ乗り出して薄暗くなった中庭を眺めていると、角に植えられた木の下に何やら人影を見つけた。


「あれは・・・維織ちゃん?どうしてあんな所に?それと、待てよ・・・他に誰かいるぞ?」

 何か嫌な予感がする。維織ちゃんしか確認できなかったが、他にも女の子が二人いた。誰だ?どうしてこんな時間にあんな場所にいる?

 胸が高鳴り動悸が止まらず、気が付くと僕は中庭へと走り出していた。気のせいであってほしい。維織ちゃんへのいじめはあの日で終わったはずだ。けれどどうにも安心ができなかった。


「いた!あそこだ!」

 階段を下りて中庭に続く廊下に出ると、窓から壁際に詰められた維織ちゃんと、それを囲むように二人の女の子が見えた。うっすらと顔が見えたが、どうやらこの前の一年生とは違うようだ。


「おい!おまえらなっ!・・・え?」

 薄暗くなった通路から飛び出そうとした時、維織ちゃんを囲む集団に近づく一人の姿が見えた。咄嗟に傍にあった生垣に身を潜め、様子を窺う。180センチは優に超えるようなその大柄な巨体に僕は見覚えがあった。


「そんな・・・どうして・・・」

 飛び出そうかどうか躊躇していると、その男は彼女達の前まで来ると、ゆっくりとその歩みを止めた。


「へー、面白そうなことやってんね。中々いい趣味してるじゃん。」

 間違いない、この声はやはり大吾だ。


「は?誰ですか?てか関係ない話に入ってこないでもらえます?」

「そうだよ。きんもっ」

 容赦なく大吾に罵声を浴びせる二人はどうやら退部になった水泳部二人とは違うようだ。しかしそれは同時に維織ちゃんへのいじめの加害者があの二人だけではなかったことを意味する。

 そのことに気づいた途端、強烈な鼓動とともに立ち眩みのようにふらついた。どうやらこの問題、僕が思っているよりもずっと根が深そうだ。


「え、何それ傷つくなー。関係ないんだったらそんな言われ方される筋合いないんだけどな。ところでこんな所で堂々といじめとは、だいぶ腐ったことしてんね。それ楽しいわけ?」

「うっさい!!だから入ってくんなって!!あ、あれ?わかった。あんたもしかしてこの子の彼氏かなんかですかー?」

「うっそ、まじで?ウケる。」

 けらけらと笑う派手なメイクと着崩した制服を纏った二人。大して大吾はまるで顔色一つ変えずに、二人に真剣な眼差しを向けていた。


「いや、別に違うけど。ほんで何がウケるの?お前の今の顔の事?それなら確かにウケるわ。てかさ、異性を庇ったり親密にしたりするとすぐに付き合っているだとかなんとか、おまえらくだらなすぎない?そういう話をしないと生きていられないの?案外初心なの?もしかして処女?ちなみに俺は童貞。」

 オイ格好つけている中恐縮なんだが、今サラっと何か大事なことをカミングアウトしちまってたぞ?

 顔を真っ赤にした二人組は明らかに激昂し、その顔は憎悪と憤怒に歪んでいた。そしてその怒りは堪え切れず遂に爆発した。


「は?あんた本当に何なの?マジでムカつくんだけど。あんま調子乗んなし。」

「ほんとそれ。まじでそろそろいい加減にs」

「うるせぇんだよ!」

 大吾の咆哮のような怒りが空を裂き、一瞬にして場が静まりかえった。


「調子乗んなだ?いい加減にしろだ?いい加減にすんのはてめぇらの方だろうが。まだわかんねえのか?こんなところでいじめだなんてだせぇことやってんじゃねぇっつってんだよ!目障りだ!失せろ!」

 一閃、大吾の苛烈が二人を切り裂いた。こんなに怒りを前面に押し出して、感情のままに叫ぶ大吾は初めて見た。普段温厚でおちゃらけながら軽口を叩く大吾しか知らなかっただけに、その迫力は僕から見ても凄まじかった。


「なによ・・・なんなのよあんた!わかったわよ!勝手にやってればいいわ。」

「もう行こ、なんかしらけたんですけど。」

 そう言って逃げるように立ち去る二人を影から見送ってから、ようやく僕は生垣から身を乗り出した。


「大吾・・・お前、なんで・・・」

「ん?おあぁ?!なんだ祥真か。びっくりさせんなよ。」

 不意を突かれたのか珍しく慌てふためく大吾。そして僕と分かるなり安堵したようにふうっと長く息を吐き出した。


「なんだか恥ずかしい所を見られちまったようだな。」

「いや、そんなことないよ。それよりどうしてここに?」

「ん?あぁ部活の最中に1人怪我しちまってな。保健室に送っていった帰りだったんだよ。そしたら外から随分な罵声が聞こえてきたから、こりゃあ穏やかじゃねえなと思って来てみたらこの子が壁に追いやられてさっきの連中に絡まれてたってわけ。」

 その視線の先には、何が起こったのかわからない様子で僕と大吾を交互に見つめる維織ちゃんがいた。


「あの・・・先輩、お二人はお知り合いなんですか?」

「ん?ああそうだよ。こいつは大吾。宮島 大吾って言って、俺と同じクラスの、その、なんていうか・・・まあ同じクラスなんだよ。」

「はぁ?お前なんだよその紹介。恥ずかしがってないではっきり友達って言えばいいだろ。そういうわけで、俺はこいつの友達の大吾ってんだ。よろしくね。」

 そう言って屈託のない笑顔を見せる。さっきまでの形相は嘘のように消えており、その表情はいつもの大吾に戻っていた。


「ま、まあそういうこと。そんで大吾、こちらは水泳部の一年生で千珠葉のクラスメイトの用宗 維織さんだよ。」

「も、もち、用宗 維織です。先ほどは助けていただいて・・・その、ありがとうご、ございました。」

 たどたどしくも感謝の言葉を伝えた維織ちゃんは深々と頭を下げたていた。


「いやいやいいよ。気にしないで。たまたま目について放っておくことができなかっただけだから。」

「い、いえ、正直助かりました。この前のことがあって、私何とかしようと思ったのに。またこうやって・・・」

「ん?この前の事って?」

 維織ちゃんの言葉の意味を確かめるように僕に視線を送ってくる大吾。何が何やら分からないといった表情だ。しかし残念ながら今大吾に事情を説明している時間はない。


「あぁ、それについては今度ゆっくり話すよ。」

「おう。それじゃあ俺は部活に戻るわ。じゃあ祥真、用宗さん、またな!」

 そう言い残すと大吾は颯爽とグラウンドへと戻っていった。まったくどこまでも爽やかな奴だ。

 しかし偶然とはいえ大吾には助けられた。結局今回も僕は維織ちゃんに何かしてあげることができなかった。


「先輩、今から帰りですか?」

 大吾の背中が遠ざかるのを見送った維織ちゃんがとことこと歩み寄ってくる。


「う、うん。そうだね。維織ちゃんは?」

「私も、今日はもう帰ります。先輩・・・その、良かったらい、い、一緒に帰りませんか?」

「え?」

「え?あ、いや、駄目ならいいんです!すいませんあわわわ私何言ってんだろ。さーてじゃあお先に帰りますね。」

 は?え、なにこの生き物、何この女の子可愛すぎるんですけど何なの?マジで俺は今日ここで死ぬのか?

 一人慌てて小走りで走り去ろうとする維織ちゃん。せっかく勇気を出して誘ってくれたのにそれを断るなんてどうかしてるだろ。


「待って!維織ちゃん、僕も帰るよ!その、一緒に・・・駄目、かな?」

 自分でも拳に力を込めていることにも気付かず、無意識的に咄嗟に彼女を呼び止めてしまっていた。

 言い終える前に全身が熱くなっていく。まともに維織ちゃんの顔も見ることができず、視線があっちへこっちへと行き場なく彷徨う。


「いや、そんな・・・ダメなわけないじゃないですか!む、寧ろ嬉しいというかなんというかその・・・いやいやそうじゃなくて、そ、それじゃあ帰りましょっか。」

「え?ごめんなんて?途中がよく聞こえなかったや。」

 途中からもぞもぞと声にならない声を口の中だけで呟いていた維織ちゃん。何を言っているのか聞こえなかったので聞き返そうとしたところ、急に顔を真っ赤にして颯爽と歩きだしていってしまった。

 どういうこと?これもしかして僕のこと好きってことで合ってる?合ってない?あ、そうですかすいませんとんだ勘違いでした。


・・・


 薄暗くなった帰り道を二人歩く。つい最近まではまだこの時間でも辺り一面橙に染まっていたはずなのに、今ではすっかり闇に包まれていた。

 小さな維織ちゃんの歩幅に合わせて歩くのにもすっかり慣れてきたな。そんなことを考えながらゆっくりと歩いた。こうして何度か維織ちゃんと帰るうちに、彼女との間の沈黙も苦ではなくなってきたと感じるのは、おそらく多少なりとも維織ちゃんと近い存在になれたからなのかもしれない。


「先輩、その、さっきはありがとうございまいました。もう一人の先輩にもお礼を言っておいてもらえるとありがたいです。」

「あぁ、いやいや僕の方こそごめんね。維織ちゃんがピンチの時に何もできなくて・・・」

「そんなことないです!先輩が謝ることなんて一つもありませんよ!でも私、悔しくて。また自分の力だけじゃどうすることもできなくて、結局周りの人に助けてもらうばっかりで。なんだか悔しくて悔しくて、自分が嫌になるんです。」

 そうだ。維織ちゃんはずっと一人で悩んでいたんだ。一人で悩んで、誰にも助けを求められずに、ただ自分だけでどうにかしようと藻掻いていたのだろう。そんな長い苦痛の時間を思うと、凡夫な慰めの言葉なんて意味がないように思える。

 ならば僕だってちゃんと考えて、正直な自分の気持ちを維織ちゃんに伝えたい。


「誰かに助けられるのってそんなに悪いことじゃないんじゃないかな。」

「え?」

「そんなに自分の力だけで何とかしようって考える必要はないんじゃない?今回みたいにトラブルに巻き込まれた時さ、維織ちゃんも自分の力でなんとかしたい。変わりたいって思っているんだよね。」

「はい、そうです。周りの人に甘えてばっかりで、助けてもらってばっかりで、私はそれが嫌なんです。」

 はっきりとした決意と同時に自身に対する嫌悪感が伝わる。そうだ、維織ちゃんも自分を変えるために前に進もうとしているんだ。別に僕と同じだなんてそんなことを言うつもりはない。だけど維織ちゃんも何かを変えなきゃ、変わりたいって本気で思っているんだ。


「前に話したけどさ、僕も変わらなきゃって思って、まあ今もその最中なんだけどとにかく今までの自分のままでいることが嫌になって、いろいろ行動しているんだ。手探りでやって空回りしたこともあった。だけど結局一人だとできることって限られてるんだよ。」

「それは・・・確かにそうかもです。」

「それにさ、周りの人が助けてくれるってのも十分維織ちゃんの魅力なんじゃないかな?」

「・・・それは、どういうことでしょうか?」

「維織ちゃんが周りの人の事いつも大事にしているから、いざ維織ちゃんが困った時、助けてほしい時、きっと周りの人も自然と助けてくれるんだよ。維織ちゃんの力になりたいって思えるんだよ。」

「そうでしょうか?」

「そうだよ。だってそもそも僕がそうだし。」

 何かとんでもなくクサいことを口走っている気がするが、もういい。どうせ今更後には退けないのだ。


「だからさ、維織ちゃん。周りに頼らず一人で立ち向かえる強い人になるのも大事なことだと思うけど、今すぐにはきっとすごく難しいと思うんだ。じゃあそうなれるように努力している間に、もしどうしても自分だけの力じゃどうにもならなくなったら、その時は誰かに頼るのもそんなに悪いことじゃないんじゃないかな。ってええぇ?!」

 心から素直な気持ちを吐き出して、ふと隣に視線をやると、そこにはまるでマンガのような大粒の涙を流しながら、肩を震わせ必死にこみ上げてくるものを堪える維織ちゃんの姿があった。

 待って、これはもしかして僕が泣かせたと思われないか?大丈夫か?

 念のため辺りを見渡すも、通りに人影はほとんど見当たらない。あぁよかった。ひとまず高鳴った胸を撫で下ろした。


「先輩・・・ありがとうございまず。あぢがどう、ご、ござ、ざいまず・・・」

「え?あぁうん、なんかごめんね!ととととりあえず落ち着いて!何か拭くもの拭くものは、ってこんな時に千珠葉から借りた謎の熊がプリントされたハンカチしかないいい!!!」

 そう、今朝遅刻しかけて急いでいたため千珠葉に何でもいいからハンカチ貸してくれと頼んだ結果、渡されたのがこのダサい・・・と言ったら絶対千珠葉にひっぱたかれるな・・・

 もとい、この個性的で謎にリアルな熊がプリントされたハンカチだったのである。


「ごめん維織ちゃん。今日のハンカチこんなのしかなくて・・・」

恐る恐る鞄から熊のハンカチを取り出し、維織ちゃんに手渡すと、そのまま瞼に持っていき一生懸命に涙を拭っていた。


「先輩、これ千珠葉ちゃんのですよね。」

 ひとしきり涙を拭くと、維織ちゃんはいじらしく笑って問い詰めてきた。

 いやその質問の仕方、明らかに答え分かってますよね?


「さすが維織ちゃんだね。その通りです。」

「これ、千珠葉ちゃんのお気に入りなんですよ?だから大事なものなんです。それなのに私、汚しちゃったから・・・これは持って帰って洗ってからまたお返ししますね。」

「え?あ、あぁそうなんだ。知らなかった・・・そんな、逆に気を遣わせちゃってごめんね。ありがとう。」

「いえいえ、じゃあ先輩。今日はここらへんで大丈夫ですよ。私の家こっちなので。」

 そういうと維織ちゃんは二、三歩と前へ歩きだし、そしてゆっくりと振り返った。


「先輩。いっぱいいっぱいありがとうございました。今日の事も、それからこの前の水泳部の事も。ありがとうございました。」

「うん。大したことしてないけど、どういたしまして。」

「先輩、私もっと強くなります。もっと強くなって、いつか私も私の大切な人の助けになれるようになりたいです。」

「うん。」

「だから先輩。その・・・それまでの間、私がまた一人でどうしようもなくなった時、その時はまた、その、助けを求めてもいいですか?」

 小さく首を傾げ、素直に弱い部分を見せてくる維織ちゃん。いやいや、ここで断る男がいるかよ。


「うん。もちろんだよ。そして、いつか維織ちゃんが今よりも強くなって、もし僕が困っていたら、その時は僕の事も助けてくれるかな?」

「もちろんです!約束ですよ。」

「うん。約束しよう。」

「はい!指切り拳万嘘ついたら・・・」

 維織ちゃんの細くて小さな小指と自分の小指を絡める。そして小さな二人だけの約束をした。

 月光に照らされた維織ちゃんの姿が闇に消えるまで見送る。大丈夫。もう彼女は砕けない。もう彼女は弱くない。

 そう思わせてくれたその背中を最後まで見送って、僕も家路へと急いだ。

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