エピソード13 そして用宗維織は歩き出す・前編
1.
10月2日 富士宮先輩との約束の日がやってきた。一人教室の隅で急いで昼飯を食べると、そのまま生徒会室へと向かう。急いだとてどうにかなるわけでもないのに、逸る気持ちを抑えられず気が付いたら廊下を走っていた。
「おーい!廊下走んなよ!」
「っひ?!すいませっ、ってなんだ陵かよ。」
急に背後から注意を受け全身に電流が走ったかのように小さくピクリと飛び跳ねると、反射的に情けなく声が上ずってしまった。そしてその声の正体を確認すると、僕は何故か少し安堵していた。
「なんだって何よ。ずいぶん失礼じゃん。てかそんな急いでどこ行くの?」
「あー悪かったよ。今度キルフェボンのケーキでも奢ってやるから。それより今ちょっと急いでるんだ。生徒会室に行かなきゃないからな。」
説明しよう。キルフェボンとは静岡が誇るフルーツを使ったタルトを得意とするケーキ屋で、旬のフルーツや店舗によって限定メニューが楽しめるオシャレ女子御用達店なのだ。そしてここのケーキさえ奢っておけば大概の女子の機嫌を取ることができる切り札的な存在でもある。ちなみにソースは妹の千珠葉。
そんな切り札を早々と使うほどに今の僕には余裕がなかったのだが・・・
「いや、そんな見え透いた手で釣られないから。」
前 言撤回。こうして効かないこともたまにはある。さてどうしたものか・・・
「柿とチョコレートのタルトね。」
「・・・はい。」
「1ホールね。」
「がめついな!分かったよ!じゃあまた後でな!」
しっかりと1ホール請求されたが渋っている場合ではないので陵の要求を飲み込み生徒会室へと急いだ。
律儀にちゃんと早歩きで。
・・・
「失礼しまーす。榎野ですけど、会長居ますかー?」
最早慣れた仕草で生徒会室へと足を踏み入れる。冷静に考えれば生徒会の役員でもないのにここを頻繁に訪れているのは僕くらいのものなのではないだろうか。
そんなことを考えながら生徒会室を見回すが誰もいない。会長だけでなくほかの役員も誰一人いなかった。
しかし、であれば妙だ。どうして鍵が開いていたのだろうか。誰もいないときは最後に使った生徒が、あるいは教師が施錠をしなければならないことになっている。と、以前大吾に教わったことがある。ということは先刻までここに誰かが居たということになる。
「待ち人は見つかったかしら?」
「ひいぃいぃ?!いてっ!」
背後から不意に声をかけられ何度目かの情けない奇声を上げてしまった。と同時に膝から崩れ落ち壁に頭を打ちつけてしまった。
全くひどいことをする奴も居たものだ。慌てて犯人の顔を拝んでやろうと、ぶつけた後頭部を擦りながら振り向くと、そこには口元を手で隠しながら真っ赤になって笑いを堪える富士宮先輩がいた。
いや、正式には笑いは堪えきれておらず、目尻は下がり、長い髪が揺れるとのぞく耳元は朱に染まっていた。
「先輩?!笑い事じゃないですよ!全く腰抜かすとこでした・・・」
「ごめんなさい、でも不意を突かれると本当に妙な声を出すのね。まるで京の言っていた通りだったもので・・・いつか試してみたいと思っていたの。本当にごめんなさいね。」
ごめんなさいといいつつその顔は尚も笑いを堪えきれずにいた。そして案の定入知恵したのは片浜先輩か。あの悪魔の化身め。今度会った時にはあらゆる手段を尽くして虐めてやる・・・と思ったが、物の数秒で返り討ちに合う未来が予測できたので大人しくやめておこう。
「先輩、悪いと思ってないでしょう。もう、いいですよ。それより約束通り週末ですけど、例の準備のほうは済んだんですか?」
そうだ。今はこんなことをしている場合ではない。先輩とこうしてじゃれ合っている時間は、恥ずかしい気持ちとくすぐったいような気分で満たしてくれる。できるならもう少し堪能していたいのが本心だ。だが、生憎僕にはやらなければならないことがあった。維織ちゃんのいじめの真相を明らかにし、苦痛から彼女を開放したい。そのために頼ったのが富士宮先輩だった。
「ちょっと準備があるから、週末また来てもらっていいかしら。」
その言葉に従い、今僕はここにいる。
「そうね。お昼休みの時間ももったいないし、本題に入りましょうか。とりあえず中に入って。」
そう言われて幾度目かの生徒会室へとお邪魔した。ヒトという生物は慣れる生き物とはよく言ったもので、あれだけ張り詰めたような空気を感じていた生徒会室も、いつの間にかさして感じなくなっていた。
そんな僕にはお構いなしに、富士宮先輩は自分の机からビデオカメラのようなものと、おそらくそれを設置するために使うのであろうステーを取り出した。
いったいこれから何をしようというのか、と首を捻って思考を巡らす僕を余所目に、富士宮先輩はただ淡々と機材を組み立てていた。
「あのー先輩、そろそろ何をするのか教えてもらっても・・・?」
「あ、そっか。そうだった。結局何も伝えてなかったのよね。ま、見ての通りよ。」
「見ての通りと言われても・・・」
目の前にはやや使い込まれたビデオカメラが1台と、それを設置するための道具がいくつか並んであるだけだった。たったこれだけでいったい何をしようというのか。何かの撮影でも行うというのか?
呆気にとられる僕に対して、やれやれと言った表情を浮かべる富士宮先輩。いやいやこれで察しろって?流石に無理があるでしょ・・・
「すいません。分からないです・・・」
「はぁ。そんなことだと思ったわ。これでね、証拠を撮るのよ。用宗さんが実際に部活動内でいじめにあっているっていう証拠をね。」
「証拠?!ビデオカメラでですか?でも具体的にはどうやって・・・」
「確か榎野君の話だと、用宗さんは水着を隠されたり破られたりしていたんでしょ?ならその始終を実際に抑えるしかないわよね。そのためにこれを仕掛けるの。」
いや待て待て。仕掛けるって言ったっていったいどこに?水泳部の更衣室?それって盗撮なんじゃ・・・それにまた都合よく水着に悪戯をするとは限らない。
「盗撮なんじゃないか、って思っているでしょう。」
「え?!あ、まぁ・・・その通りです。」
参った。やはりこの人には敵わない。まるで僕の思考を読んでいたかのように言い当てられた。
「そうね。まあ念のため水泳部の顧問と部長には許可を取っているし、すべて終わったらその動画は立ち合いの元で削除するってことで話はつけてあるから。後は私の責任で何とかするわ。」
「わかりました。中々強引な策のような気もしますが、それしか方法がないのも事実ですもんね。早速行きましょう。」
「ええそうね。でもその前に、ある人をここに呼んでほしいの。」
「ある人?」
「この件の当事者、用宗さんよ。」
・・・
程なくして、維織ちゃんが生徒会室へとやってきた。詳しいことは何も聞かされないままただ至急で、と呼び出された彼女は、まるで僕が初めて生徒会室へやってきた時のように緊張で委縮していた。
「先輩、これは一体、どういう・・・生徒会長も・・・」
怯えた小動物のように僕と富士宮先輩をちらちらと交互に見ては小首を傾げ、大きな瞳を潤ませる維織ちゃん。その表情は儚く、自然と守ってあげたいという気分にさせてくる。
「ごめん維織ちゃん。この前話してもらったこと、どうしても力になりたくて。富士宮先輩にも相談しちゃったんだ。」
「え、そんな、どうして・・・私、そんなこと頼んでないじゃないですか!どうして・・・」
珍しく語気を強める維織ちゃん。さっきまでとは一変して、その表情は険しい。それも当然な話だ。別にこの話を誰にも言うなと言われたわけではないけれども、許可なく勝手に他人に話されていい気持ちはしないだろう。
けれど、富士宮先輩に助力を求めた時点でこうなることは想定していた。維織ちゃんがいい気がしないことを分かっていて、それでも何とかしたかった。
「勝手なことをしてごめん。維織ちゃんが僕の協力を求めていなかったのも知っているし、先輩に一方的に維織ちゃんの話をしたのも申し訳ないと思ってる。だけどこのまま黙って見ているなんて、僕にはできなかったんだ。」
「私は・・・どうすれば」
赤面し俯いたまま呟く維織ちゃん。その表情は窺えない。重く地を這うような空気が生徒会室に沈殿していく。
その空気を切り裂いたのは富士宮先輩だった。
「用宗さん。どうか、榎野君を責めないであげてほしいの。」
優しく、あたたかな声が教室に優しく響く。
「彼はこの数日間、あなたの事を本当に真剣に考えていたわ。私に話したのだって、散々考えた上での苦肉の策だったのだろうし、面白おかしく話すつもりは本当になかったと思うの。だからどうか、あまり彼の事を責めないであげてね。」
そう言い終えると、会長は慣れた手つきでルーティンのように紅茶を淹れ始めた。
「用宗さん、紅茶は苦手じゃない?」
「え?あっ、はい・・・」
「カモミールだからね。きっと気分が落ち着くかな。」
あっという間に湯を沸かし、紅茶を淹れ、テーブルには3人分の紅茶が並べられた。
「どうぞ。ゆっくり飲んで。」
「はい、ありがとうございます・・・あっ、美味しいです・・・なんか、すごく落ち着く香りですね。」
「そうでしょう?私も気に入っているの。だけどね、そこにいる榎野君っていう男の子は前に『アールグレイってやつですかね?』なんて言い始めてね。もう可笑しくて。」
そう言い終わるより先に、堪え切れなくなった富士宮先輩は珍しく目尻に涙を蓄えるほど大きな笑いの渦に飲まれていた。
最初はきょとんとしていたものの、大笑いする富士宮先輩につられたのか、堪らず維織ちゃんも笑っていた。
そうしてこの空間で笑っていないのは僕だけだった。自分がネタ元なのだから笑えるわけがない。恥ずかしくて耳まで熱くなっていくのが分かった。
「少しはリラックスできたかな?」
「そう・・・みたいです!なんとなく気持ちが楽になったような気がします。」
富士宮先輩の優しさに抱かれ、維織ちゃんも安心したのか生徒会室に入ってきた時のような緊張感や、さっきまでの焦燥感は消え去っていた。
「用宗さん。もしよかったらだけど、用宗さんの事、私にも協力させてほしいの。」
「え?どういうことでしょうか・・・」
「私も生徒会長として、いじめが事実ならこのまま見過ごすことができないの。だからね、用宗さんのロッカーにこれを仕込ませてもらえないかと思って。」
そう言ってカメラとステーを取り出す富士宮先輩。それを見て、維織ちゃんは明らかに困惑したような顔を浮かべていた。
そりゃそうだ。いじめの確実な証拠を得るために、ロッカーの中にカメラを仕込ませてくれなんて言われたら、僕だってすぐに「はいどうぞ。」と答えられる自信はない。維織ちゃんは少し考えた末、小さく呟いた。
「あまり大ごとにはしたくないんです。なのでロッカーにカメラを仕込むのはお任せしますが、どうか何かあっても彼女たちに過剰な処罰を与えるようなことは控えるって、約束してもらえますか?」
それを聞いて僕は呆気に取られていた。自分が散々な目に遭わされておきながらも、そんな中でも彼女が心配していたのは加害者に厳罰が与えられないかどうかであった。
「こんなに優しい子がどうして・・・」
彼女の心中を考えると、また胸が握り潰されるような感覚に襲われた。
「正直ね。私はもし本当に部員の悪戯なのであれば、加害者の停学・退学も選択肢としてはあり得ると思っているの。けれども用宗さんがそれでいいなら、私はあなたの意向に従うわ。」
「わかりました。そういうことでしたら、カメラの件、お願いします・・・」
こうして放課後、僕と富士宮先輩は、部活が始まるすぐ前に水泳部の維織ちゃんのロッカーへカメラを設置することに成功した。
ま、僕は結局更衣室に入れてもらえなかったので事実上富士宮先輩が全部一人でやったんだけどね。
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