エピソード12 それでも用宗維織は前を向く・中編

2.

 女子と待ち合わせをして、放課後一緒に下校するというシチュエーション。男子高校生なら一度は夢見たことがあるのではないだろうか。少なくとも僕はずっと憧れていた。学生のうちにしか味わえないその時間を卒業までにせめて一度だけでも、と。

 その空想とゲームの中だけでしか体験することができなかった時間が、今自分のこととして目前に迫っていた。


「先輩、お待たせしました。あの、そろそろ閉館時間なので・・・」

そういってそそくさと駆け寄ってくると、維織ちゃんは何やら落ち着かないようでスカートの裾をもじもじと弄っていた。


「え?あ、うん。そそそれじゃあ行こうか。」

緊張から声が裏返る。客観的に見たら大分恰好悪い。が、そんなことを今更冷静になって思索に耽っても仕方がない。

 緊張で汗ばんだ手を制服のズボンで拭い、普段よりも足早に図書館を後にする。お互いに無言のまま校舎から校庭に出ると、既に日は沈みかけていた。先月ならまだ明るかったはずなのに。

 まだ少しだけ残った暑さからは夏を、それでも早くなった日暮れからは迫る秋を感じながら僕と維織ちゃんは並んで歩いたのだが・・・あれ、何かおかしいぞ?今僕はずっと憧れていたシチュエーションを実際に体験している。にもかかわらず、なんだろう。いまいち気持ちが高揚しない。緊張はしている。鼓動も、まるで既に何本もダッシュをした後のように早くなっているのが自分でもわかる。けれど頭の中は妙に冷静で、そしてこの二人だけの時間を堪能したいという気持ちもなかった。

 いや、嘘だ。なんでだろうってのは少し違う。僕は楽しめない理由に気付いていた。これが心から楽しめる甘い時間でないことなんて最初から分かっていたんだ。そしてその理由は俯いたまま隣を歩く小さな彼女の表情を見れば明らかだった。


「維織ちゃん、ちょっと寄り道してこっか。」

急に方向転換してどこかへ向かう僕に呆気をとられたのか、遅れること数秒慌てて維織ちゃんが僕の背中を追いかけてきた。


・・・


 どれくらい歩いただろうか。寄り道というには随分帰路から離れてしまった。


「先輩、どこに行くんですか?」

普段通らない道であることと、夜道を二人で歩くことへの警戒心からか、維織ちゃんの声には不安と戸惑いが混ざっている。


「えっとね、もうちょっとだから・・・さ、ついたよ。」

「え?わぁ・・・」

学校から少し離れた、周りより少し高い位置にある秋葉山公園。この時間だともうだいぶ日が落ちて薄暗い。けれど高台まで登ると、町並みや清水港の夜景を見渡すことができる。


「きれいですね・・・」

維織ちゃんは目を潤ませてただじっと景色を眺めていた。


「日が落ちると結構暗くてさ、ちょっと怖いんだけど、でも高台のほうは結構きれいだよね。普段見慣れた町なんだけど、こうして眺めると別の街並みみたいでさ。だから維織ちゃんとも共有したいなって。」

「先輩・・・ありがとうございます。」

「いえいえ。」

そこで会話が止まった。高台には、まだ優しさを帯びた秋風が穏やかにふいている。少し登りだったせいか、汗をかくとはいかないものの身体は少し暑く、ひんやりとした風が身体の熱を冷ましていく。

 気が付くと陽は完全に落ち、辺りは闇夜に包まれ、何となく見上げた空には星が砂のように散らばっていた。


「・・・」

まだ会話はない。けど別にいい。不思議と図書館の時のように気まずくはない。聞きたいことは確かにある。でもそれは維織ちゃんが、僕になら話してもいいと思ってくれて、維織ちゃんのほうから話してくれないと意味がない気がした。別に維持を張ったわけではない。ただ、傲慢かもしれないけれど、詭弁かもしれないけれど、それが維織ちゃんから必要とされている証明だと思える気がした。頼られている実感が欲しかっただけなのかもしれない。それでも僕は、彼女が自分から話してくれることをただ待つことを選んだ。


・・・


 何分経ったのだろう。時計はつけない主義なのでどれくらいの時間が経ったのかわからない。スマホを見ればいいだけの話なのだが、こうして二人でいるときにスマホをチラチラ見るのはなんだか失礼な気がしてできない。

 身体の熱はとっくに冷め、逆に肌寒ささえ感じてきた。流石にそろそろ帰ろうかと声をかけようとしていると、その瞬間は突然にやってきた。


「わたし、部活の中で浮いているみたいなんです。」

「・・・え?」

消え入るような小さなつぶやきだった。もしかしたら僕にじゃなくて、漏れ出てしまった独り言だったのかもしれない。けれどそれは、確かに小さなつぶやきだったその言葉は、僕の耳元で、脳内で、全身で警鐘のように大きく響き渡った。


「水泳部で、浮いているというか。嫌われているというか。私の事、よく思っていない人、いるみたいで・・・」

俯いたまま静かに一言一言を確かめるように話し出す。その声のトーンは普段の維織ちゃんからは想像もつかない程重く暗い。

 ゆっくりと話し続ける彼女に対して、僕は何もできずにただずっと彼女の胸の叫びを聞いていた。以前千珠葉から聞いていた通り、維織ちゃんは中々にモテるらしい。男子から好意を寄せられることが少なくなく、そのため様々な誘いを受けることもあるようだ。しかし、それをよく思わない人間が出てくるのは必然で、どうやら部内の女子生徒複数人から嫌がらせを受けていたようだ。

 例えば意図的に無視をされたり、さらには水着を隠されたり破られたりと、隣りでただ聞いている僕でさえ気分が悪くなるような仕打ちを度々受けていたらしい。


「維織ちゃん、それっていつから・・・」

「・・・多分、二ヶ月くらい前です。」

そんな・・・全く気が付かなかった。それほど前から彼女がずっと嫌がらせに耐えていたのかと想像するだけで、心臓を握りつぶされるような感覚に襲われ自然と苦悶の表情が浮かぶ。何か声をかけようにも焼けるように熱くなった喉からは声が出ない。


「最初は2~3人から無視されるだけでした。もちろん悲しかったですけど、やっぱりどうしても合わない人っているだろうし。悲しいけど相手の子にとってのそれが私だったのかなって思ってました。でも、段々と私に対する扱いがひどくなってきて、意地悪をしてくる人も回数も増えて、ああ、やっぱりみんな私の事嫌いなんだって思っt」

「維織ちゃん!」

気が付くと咄嗟に彼女の肩を掴んでいた。わなわなと震え今にも壊れてしまいそうな小さなその肩を。これ以上聞いていられなかった。ただ悔しかった。いじめは少なくとも二ヶ月も前から行われていて、それは常態化していたというのに僕は彼女からその事実を今こうして聞かされるまで全く気付くこともなかった。不甲斐なくて、情けなくて、どうして守ってあげられなかったのか、どうしたら彼女を救えるのかと考えた。けれどすぐには思いつかない。


「先輩、私どうしたら・・・」

我慢していた維織ちゃんの瞼はついに限界をむかえ、幾つもの涙が頬を伝っては行き場を求めて流れ落ちる。


「このことは千珠葉や珠璃亞には?」

「言ってないです。」

「そんな・・・相談してくれれb」

「言えるわけないじゃないですか!そんなこと・・・言えるわけ・・・」

普段の維織ちゃんからは想像もつかないほどの叫びが僕に襲い掛かってきた。悲鳴にも近いように吐き出されたその嗚咽交じりの叫びは、維織ちゃんが我慢していた感情そのものだった。

 どうすれば、どうすれば彼女の力になれるのだろう。いくら考えても彼女の状況を改善する具体的な答えが出ない。


「僕に何かできるか分からないけど、今もこうして考えていてもすぐには思いつかないけど、でも頼ってほしかったな。頼りなくて申し訳ないんだけどさ。」

「違うんです。先輩が頼りないとかそういうことじゃないんです。でも、先輩に頼っちゃ、駄目なんですよ。」

低く冷え切ったトーンで呟いたその言葉は、決して現状への諦めのようなものではなく、確かな意思が伝わってきた。


「そうやって困ったらすぐ男の人を頼っているんだって思われたくなかったから。そうしたら逆効果じゃないですか。だから先輩に相談して例え解決できたとしても、それはきっと一時的なものに過ぎなくて、絶対的なことは何も変わらないと思うんです。そうやって肝心な時には男の人に頼ってって思われたくないんです。」

「そっか・・・確かに維織ちゃんの言っている通りかもしれない。」

僕が思っている以上に彼女の傷は深く、目を背けることができない程だった。けれど、同時に彼女は強かった。僕が知っている内気で少し臆病で、はっきりと自分の意思表示をすることのない彼女の姿は今ここにはない。つらい現状に、逃れたい毎日に必死に立ち向かおうとしている彼女の姿があった。


「維織ちゃん、少し変わったね。」

「え?そ、そうですか?」

「うん、変わったよ。なんていうか、強くなった。僕も変わろうと思ってあれこれやってはいるんだけど、空回りばっかりでさ。維織ちゃんを見習いたいよ。」

自分で言っておきながら恥ずかしくなって彼女のほうを見られずに空を眺める。もうすっかり星が浮かび辺り、辺りは闇に包まれていた。


「それは違いますよ。もし変わったって思ってもらえているなら、それは先輩のおかげですし、そもそも先輩だって変わったと思います。」

力強い目で見つめてくる維織ちゃん。よく見ると瞳に溜まっていた涙は乾いたようだ。頬の濡れた後が街灯に照らされキラキラと輝いている。


「僕が?そうかな。自分だとわかんないや。」

「先輩は、なんで変わろうと思ったんですか?」

「なんで?そうだな・・・端的に言えばモテたかったんだけど、今思えば青春したかっただけなんだと思う。僕、女の人が苦手でさ。家族以外の女の人とうまく話せなかったんだよ。まあ男ともうまく話せないだろって言われれば返す言葉もないんだけど・・・でもさ、ふと気づいたら高校生活も半分ぐらい消費しちゃってて。このままでいいのかな、このまま誰とも仲良くなることもなく、彩のない高校生活として終わっていって将来後悔しないのかな、って。そう考えたら自分から変わらなきゃって思って。ってなにマジな話してるんだろうね。恥ずかしくなってきた。」

自分の事をこれほど真剣に誰かに話したのはいつ以来だろう。維織ちゃんの悩みを聞くつもりが、いつの間にか寒い自分語りをしてしまっていたような気がする。


「そうやって変わろうと思って何か行動した時点で、先輩はもう変わり始めているんですよ。それってすごいことなんです。自分を変えるのって本当に難しくて、ダメな自分から変わりたいって思う気持ちと、でもこのままでいいっていう気持ち両方があって、結局多くの人は変われないんです。そのほうが楽だから。楽なことに慣れちゃっているから。だから空回りしても、失敗しても先輩はもう前に進んでいるんですよ。自分で自分を否定しないでください。自分だけは自分のことをちゃんと見てあげてください。先輩が先輩を嫌になっても、私は先輩のことをずっと見ていますから!」

彼女の瞳から目を逸らすことができなかった。彼女のその真剣な表情と言葉で自身の鼓動が高鳴っていくのが分かる。自分のやってきたことに意味があったんだと、無駄じゃなかったんだと誰かに認めてもらえることがこんなにも嬉しくて、救われたような気分になれることを初めて知ることができた。


「維織ちゃん、ありがとう。まさか僕のほうが励まされるなんて、お恥ずかしい限りです。」

「そんなことないですよ。私も今日先輩に話せて、少し気持ちが楽になりました。ありがとうございました。」

「そっか、ならよかったよ。そろそろ暗くなってきたし帰ろっか。送っていくよ。」

「そうですね。ありがとうございます。じゃ、じゃあお言葉に甘えて・・・」

こうして僕と維織ちゃんは秋葉山公園を後にした。すっかり暗くなった夜道を維織ちゃんと並んで歩き家まで送ったあと、足早に自宅へ帰ると既に21時を過ぎていた。


「さて・・・」

適当に夕飯を済ませて湯船に入る。考えるのはもちろん維織ちゃんの事だ。熱めのお湯に半身だけ浸かると、疲弊した頭に血液が流れ込み、活気が戻ってくるような感覚がしてくる。

 維織ちゃんのことを何とかしてあげたい。けれど維織ちゃんが言うように、僕が直接的に関与しては余計に彼女の立場を不利なものにしかねない。


「八方塞がりだな。僕にできることって何なんだろうな。」

何かしてあげたい気持ちと、しかし何も思いつかない不甲斐なさに混沌とした感情が頭の中で入り混じる。

 結局何も思い浮かばないままこの日は眠りにつくこととなった。

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