エピソード8 家が金持ちで別荘を持っているクラスメートなんて実際そうはいない・後編
「じゃあ私、お風呂に入ってくるから。」
帰ってくるころにはすでに夕方になっていた。
別荘に着くなり先輩はテントに目もくれず別荘の中へと入っていく。
「ちょ、ちょっと先輩!どこ行くんですか」
「どこってお風呂だって言っているじゃない。話聞いていたの?」
「え、だってキャンプですよね。家の目の前にわざわざテントまで張っているのに、わざわざ家に戻って風呂に入るんですか?」
「そうよ。せっかく箱根に来てるんだから、温泉に入りたいじゃない。」
「じゃあどこか温泉に行きましょうよ。」
「うるさいわね、そんな無駄なことはしないの。いいからあなたも来なさい。」
そういって僕の手を引くと豪邸の中へと招き入れる。上がり
やたらと長い廊下を先輩に連れられて渡っていくと、奥に『ゆ』と書かれた暖簾を見つけた。
「開けなさい。」
しばらく呆気に取られていたが、先輩に言われるがまま暖簾をくぐり、扉を開ける。するとそこには、本当に温泉に来たのではないかと見間違えるほどの岩風呂が設置されていて、さらに奥には露天風呂さえも備わっていた。もちろん源泉だ。
「・・・嘘だろ。すげえや。」
あまりの衝撃に言葉が出ない。別荘とはいえ、家の中に温泉があるのだ。しかも旅館顔負けの。
「私の言った意味、理解してもらえたかしら。」
「は、はい・・・ってそうじゃないでしょ!」
「何が?」
「いや確かにすごすぎて一瞬言葉を失ってしまいましたけど、よく考えたら僕達キャンプをしているんですよね?」
「えぇ、そうね。」
「だったらこんな、優雅に温泉なんて入ってる場合じゃないですよ。キャンプってのはもっとこう、不自由の中でこそ自然との対話を楽しんだり、日常から脱却してゆったりとした時間の中で自分の内側を見つめ直したりするってのが醍醐味なんじゃないですか?」
「あなたがそう思うならそうすればいいじゃない。価値感を押し付けるのはモテない男のすることよ。それに、私外臭いの嫌いなの。」
さすが片浜先輩。キャンプをしておきながら、アウトドアを真っ向から否定してきた。
「元も子もないですね。」
「あなたも入れば?」
「はぁ・・・え?」
「一緒に入るかって聞いているの。」
「はいぃ?!」
唐突な提案に言葉を失い、ただ呆然とする。そうだ、何か返さないと。
① お言葉に甘える
② やめておく
・・・
「折角ですがやめておきますよ。」
「へえ、他に誰もいないのに。案外ジェントルマンなのね。それとも童貞だから怖気づいただけかしら。」
悪戯に先輩が笑う。妖艶にも見えるその顔は、弄んでいるようにも楽しんでいるようにも、そしてどこか少し残念そうにも見えた。
「まあいいわ。でもこれでせっかくのチャンスを失ったのだから、寝るときに後悔なさい。」
そう言ってそそくさと湯浴みの準備をする片浜先輩。
流石にここにいるわけにもいかないので一度テントに戻り、片浜先輩が用意しておいてくれたコットとシュラフをテントに敷いておくことにした。
八月も終わり間近。箱根の山を通る夜風は少し肌寒かったが、高揚した体を覚ますには程よく心地よかった。
やることもなくなったので別荘の中に戻り、浴場の前で呆けていると、暫くして湯浴みを終えた片浜先輩が戻ってきた。
「上がったからよければあなたも入りなさい。汗臭いまま同じテントで寝るのは嫌でしょ。ドライヤーとかは適当に使っていいから。」
「はい、分かりました。ありがとうございます。」
「私が入った後のお湯、飲まないでね。」
「そんなことしませんよ!」
「どうだか。」
一体この人には僕がどのように映っているのだろうか。
片浜先輩のお言葉に甘えて、老舗旅館レベルの大浴場を一人で堪能させてもらった。誰もいないことがわかっていると、つい童心に帰って燥いでしまった。こんな、個人の所有物としては規格外の風呂を借りて、勝手に満喫してもいいのだろうかと思ったが、あまりの解放感から思う存分天然温泉を堪能した。
「先輩、上がりましたよ。」
長い風呂から上がると、家の前には専門の研究施設にしか置いていないような大きさの望遠鏡を無心で弄る片浜先輩の姿があった。
「ずいぶんと長いお風呂ね。何か良からぬことでもしてきたのかしら。」
どこから手に入れたのか、懐かしい瓶のコーヒー牛乳を飲みながら片浜先輩が話しかけてきた。
と言っても僕と目を合わせるわけでもなく、コーヒー牛乳を飲んでは、しきりに望遠鏡の接眼レンズを覗き込んでは横のダイヤルを調整している。
「何もしてませんよ。ただこんなすげえ温泉を一人で楽しめる機会なんてもうないでしょうからつい燥いでしまっていただけです。」
「へえ、随分子供らしいところもあるじゃない。」
「男なんてそんなもんです。それより先輩、何やってるんですか?」
「何って、みればわかるでしょう。天体観測よ。」
「星に興味あるんですね。なんか、もっとリアリストなのかと思っていました。」
「あら、星に興味があるとイデアリストって言いたいの?それは浅薄じゃないかしら。星から分かることは数学的にも天文学的にも物理学的にも、理論にあふれたことばかりよ。むしろ星に興味を持つ連中こそリアリストだと思うのだけれど。」
思い付きで言葉を発したのが間違いだった。僕の問いかけに対する先輩の返答はいつも正当なものに思えてしまう。
「じゃあ、僕にも見せてください。」
「いいけど、榎野君星なんか見て何かわかるの?」
「わかりませんよ。でも、分からなくても見たいんです。僕はイデアリストなので。」
なんとなく反発してしまった。目線だけ片浜先輩に移したが顔色に一切の変化はなかった。
「じゃあ、適当に何か見やすい星にピントを合わせてあげる。」
そう言って鏡筒を動かし何かを捉えると、またダイヤルを回し始めた。
「ほら、いいわよ。見てみなさい。」
「えっ、いいんですか?」
片浜先輩と入れ替わりで望遠鏡の前に立ち、接眼レンズを覗き込む。
「うわあ・・・」
あまりの鮮明さと迫力に言葉を失った。覗き込んだレンズからは、その星の表面にある凹凸や陰影まではっきりわかる。写真で見たことのあるその星は、思っていたよりも遙かに神々しく、そして眩い光を放っていた。
「きれいですね・・・」
「そうね。」
「これ、なんて星ですか?」
「・・・」
先輩の堪えるような笑い声が聞こえる。何か見当違いな質問をしたのだろうか。
「先輩?」
「・・・っははは、ご、ごめんね榎野君。私、笑いが、っ笑いが堪えられなくて・・・ごめんなさい。」
これでもかというほど笑い続ける片浜先輩。そんなに笑われると正直あまりいい気がしない。
「何がおかしいんですか?」
「だっ、だって榎野君。あなたが見てるのって、それ・・・」
「なんですか?」
「それ月よ?」
「え?」
一気に恥ずかしさがこみ上げてきて、それと同時に自分でもおかしくなってくる。
「なんだ・・・てっきり僕、珍しい星なんだとばかり。」
「月だって立派な衛星よ。それに私、月が好きなの。」
「そっか・・・そうですよね。でも、それにしたって綺麗でした。」
「そうね。ここは空気もきれいだもの。」
そうして片浜先輩と暫く月を眺めた後、僕らはテントへと戻った。
男女二人が同じテントで一夜を過ごす。そんな状況下で何も起こらないはずがなく・・・
と言いたいところだがなかった。笑ってくれ。なにもなかった。自分でも情けないが、昼間の散策による疲労感と温泉での高揚から、テントに戻るとすぐに意識が遠のいていった。そして気が付いた頃にはすでに日が大分昇っていた。
・・・
そうこうして、二泊三日の合宿(という名のただのキャンプ)が終わり、また例の超高級外車で駅まで片浜先輩が送ってくれた。
結局彼女がこの合宿でいったい何をしたかったのか、なぜ僕と二人でキャンプをしたのか、どうやってあの別荘を手に入れたのか、謎が深まっていくばかりだった。彼女のことを少し知ると、その何倍も分からないことが増えていく。
二十分ほど車に揺られると、僕が拉致された・・・もとい、片浜先輩と待ち合わせをした『箱根湯本駅』へと到着した。
運転手さんへ深々とお辞儀をして、駅の構内へと足を踏み入れる。静岡・浜松方面への電車が来るまでにはまだ時間があったのでベンチへ座ると、当然かのように隣りに片浜先輩も腰を下ろした。
「先輩、色々とありがとうござ」
「榎野君、私ね。思い出が欲しかったの。」
「え?」
唐突の事で何のことか頭が回らない。
「高校生としての時間に、思い出が欲しかったの。」
「はあ。」
「・・・卒業したらね、アメリカに行くの。実は既にアメリカの大学から推薦が来ていてね。だから日本にいるのも残り半年くらいなの。」
「っ!そんな、聞いてないですよ!」
そんな話、本人から直接どころか、噂ですら聞いたことがなかった。
「ふふっ、当然じゃない。誰にも言っていないもの。」
「そんな・・・このことを知っているのは?」
「そうね、今の所あなただけよ。」
「どうして・・・なんで、僕には。」
動揺してうまく言葉が出ない。片浜先輩は3年だ。こんな時間も長くは続かず、いつか終わりが来ることは理解しているつもりだった。けれど、まさかアメリカなんて、追いかけることも会いに行くこともできない距離まで遠くに行ってしまうことなど一度も考えていなかった。
「だから言ったじゃない。思い出が欲しかったのよ。これでも華の女子高生なのよ?それが何の思い出もなく終わって、はい、さようなら。ってのも妙味に乏しいじゃない。」
あぁ、この人も僕と同じなのかもしれない。きっと人生で一番青春できるであろうこの時間を、このまま何もなく過ごして何もなく終わっていくことに耐えられないんだ。
「なんてね。冗談よ。じゃ、榎野君また学校で会いましょう。」
「けど!」
「それ以上も以下もないわ。さ、話していたらそろそろ電車の時間よ。」
「わかりました・・・。」
何が分かったというのだろうか。目の前が急に暗闇に閉ざされたような感覚に陥り、何も考えられない。ただ、喪失感と焦燥感だけが胸の真ん中を支配して、思考がうまく働かない。
「先輩。本当にありがとうございました。」
ありきたりな言葉しか出てこない。こんな時何を言えばいいのか、どうすればいいのか全く思い浮かばない。
別れ際に笑った彼女の顔はどこか切なく、哀愁を帯びていた。
改札を抜けて帰りの電車に乗り込む。まだ出かけるには早い時間だからか、乗客はまばらですんなりと座席に座ることができた。
すぐに電車は動き出し、一定のリズムを刻みながら走り出す。そんな中考えていたのは片浜先輩の事だけだった。
彼女のために、僕にできることは何だろう。残された時間で、何を残してあげられるのだろう。
答えがでないまま自問自答を延々と繰り返し、気づいた時には既に自宅の最寄り駅まで到着していた。
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