エピソード2・興津 恵零那との出会い①

1.

 夕方の17時半を過ぎると、校舎に残る生徒の数もまばらになっていた。部活以外の生徒は既に下校し、各々の時間を謳歌している頃だろう。まだ学校に残っているのは受験を控えた受験組の3年と部活動に必死に打ち込む生徒、そして一部のおしゃべり好きな女子集団くらいのものだ。

 1クラス40人程の机を並べられた密度高めの教室も、生徒が誰もいなくなるとやけに広く感じて物悲しい気分になる。そんな校舎の廊下を歩いていると、空き教室の中からいくつか楽器の音色が聞こえてくる。チューニングをしているのだろうか、金管楽器の迫力のある音から打楽器の軽快なビート、それぞれの音が相まって校舎全体を包んでいるようだった。


「会長、ここにいるかと思います。」

生徒会長と一緒に廊下を歩くのは中々に気分がいいものであった。放課後だからなのかもしれないが、すれ違う生徒の数は明らかに少なくそこまで緊張もしなかった。

 そうしてたどり着いたのは、ついさっきまで僕がいた場所。『2‐C』と書かれた部屋。つまり自分の教室だった。


「興津(おきつ)さーん、いる?」

ガラガラと立て付けの悪くなってきた音を響かせながら教室のドアを開ける。するとそこには、僕と会長には目もくれず熱心に楽器を吹いている一人の少女の姿があった。毛先が内に向いたショートカットで猫毛の少しキツい目をした彼女は、祥真たちに目もくれず、というよりどうやらまったく気づいていないようで完全に自分の世界に没入し、ただひたすらに何やらカタツムリのような楽器を奏でることに没入してしまっていた。


「興津さん!」

さっきより大きめの声を出してみる。やっと僕達に気づいたのか、楽器の音がピタリと止まり興津さんと目が合った。そして静かに楽器を置いて立ち上がった。


「なんだ、榎野じゃん。それと、富士宮生徒会長ですか?え、なんで、どういうことですか?どうしてこんなところに生徒会長が?もしかして私何か良からぬことを…」

「会長、彼女は吹奏楽部の興津 恵零那おきつ えれなさんです。僕と同じクラスの2年です。とりあえず彼女に話を聞くのがいいかと思いまして…」

興津さんは怪訝な顔をしたまま固まっている。無理もない。興津さんと僕は同じクラスとはいったが、特別仲がいいわけでもない。一応興津さんとは1年の頃から同じクラスなのでそれなりに馴染みはある。だけど友達と呼べるほど親しいわけでもないし、遊びに行くような仲でもない。そんな僕が生徒会長と一緒に急に部活の練習中に押し掛けてきたのだ。心当たりがないにしても何かしら良からぬことをしてしまったのではないだろうかと不安にもなるだろう。


「なるほどね、こんにちは興津さん。生徒会長の富士宮です。そんなフリーズするような堅い話をしに来たわけじゃないから一旦落ち着いて。」

「は、はぁ。」

立ち上がったまま固まっていた興津さんだが、少し緊張が和らいだのか顔のこわばりが解けたようだ。目がキツめだからか緊張するとより恐く見える。けれどもさすがは富士宮会長だ。一言で彼女をリラックスさせると要件を話し始めた。


「実はね、今部活動の査察をしているの。各部活動がちゃんと普段から練習に取り組んでいるのか。大会に出て成果を出してしているのか。生徒会からの活動費が不正に使われていないかどうか。そういうのを見たくてね。」

「なるほど…なんとなくは分かりました。それで、榎野がいるのはどういうわけですか?確か生徒会じゃないはずですけど…」

不思議そうな顔でこちらを見てくる。富士宮会長の話は分かったが、それと僕が一緒に回っていることとはどんな関係が?といった表情だ。


「興津さん、あの、だ、大吾はわかるよね。」

「うちのクラスのサッカー部の?」

「そうそう。そいつの代理なんだよ。この部活動の査察ってのが本当は大吾の仕事だったんだけど、ちょっと事情があってね。僕が代理でその仕事をやることになったんだよ。だけど僕は生徒会でもないし部活にすら入っていないからさ。恥ずかしながら右も左もわからなくて。だからしばらく慣れるまでは、ってことで富士宮会長が同行してくれているんだよ。」

一通りの事情を説明する。どうやらそれとなく理解はしてくれたらしい。


「それで、なんで私の所に来たわけ?」

少し首を傾げながら僕に問いかける。ここの返答ももしかすると案外大事な分岐なのではないだろうか。さて、どう返したものか…


① そりゃあ興津さんのことが好きだからだよ!

② 大吾のほかに話せる人が興津さんくらいしか思い当たらなくて…

③ 初めては興津さんがいいって決めてたんだ。


(①は…ないな。我ながらキモい。確実に引かれることだけは容易に想像できる。そうなると②かな?なんかまともな気がする。③は、いや③もキモいな。普通にキモい。よし。)


「そ、その、恥ずかしいけど僕友達があんまりいなくてさ。大吾のほかに話せそうなのが興津さんくらいしか思い浮かばなかったんだよ。」

②で思い浮かんだ選択肢をほぼそのまま言ってみた。さぁ、どうだ?


「は?何それ?てか別に私と榎野さ、そんな仲良くなくない?」

ごもっともです。


「それは、まぁ確かにそうなんですけどね。なんていうか、全く面識のない人よりだったら興津さんのほうがまだ話せるかなって思って…」

「いやまだ話せるって何よ。今の榎野の話だと、知らない生徒といきなり話すのがムズいから、その辺のだれかよりだったら私のほうがまだましってことだよね。それって普通に失礼じゃない?」

これまたごもっともです。興津さんの態度があからさまに冷たくなる。どうやら②の選択肢はあまりいい印象ではなかったようだ。数秒前のデータをロードさせてほしい。


「ごめん興津さん…そんなつもりじゃ」

謝りたいが声が出ない。やっと出た情けないくらいの声量でとにかく謝った。


「まぁいいや。それで?具体的に何をすればいいわけ?」

許してくれた、わけではないのだろうけどこのままこのやり取りをしていても仕方ないと判断したのだろうか、とりあえずこちらの仕事に協力してくれるようだ。


「と、とりあえず吹奏楽部の今後の予定を教えてもらえれば…具体的には半年後くらいまでの活動予定がわかればありがたいです。」

「富士宮会長、本当にそんなんでいいんですか?」

なぜ会長に再確認するのか。


「えぇ、まぁそのくらいでいいかしら。今回の件は基本的に榎野君に任せてあるからね。興津さんも色々思うことがあるかとは思うけど、とりあえずは榎野君の思うとおりにやってもらおうかな。」

微笑みながらこちらを見てくる。どうやら会長のほうから余計なアドバイスや助力はせずに、僕の成長を見守りたいということのようだ。なんて温かい優しさなんだ…これが母性か。これがバブみってやつなのか…会長の優しさに思わずこちらまで温かい気持ちになった。


「なるほど、会長がそう言うなら…そうね、とりあえず吹奏楽部が今一番焦点を当てているのは10月にある全国大会ね。まぁでもその前に8月末の東海大会があるからそこを目指して練習してるかな。あとはそうね、6月に公民館での定期演奏会と、夏休み中に全国大会に向けた合宿があるかな。そんなところ。」

「わかったよ、ありがとう。ところで興津さんのパートは?何を担当してるの?」

「それ関係ある?まぁいいけど。私はホルン。このカタツムリみたいのがそうよ。自分で言うのもなんだけど、結構重要なポジションね。」

「そ、そうなんだ。」

話が止まる。自分で聞いておきながら話を広げられない。気まずい空気が流れる。そしてそれはわずかひと時の沈黙だったのだろうが永遠のようにも感じられた。


「ほかには?何か聞きたいことあるの?」

少し苛立ったように興津さんが尋ねてくる。


「え、えっと…」

「榎野さぁ、そうやってもじもじとした態度、絶対やめたほうがいいよ。しゃべり方だって小声でぼそぼそと最後のほう聞き取れないし。」

我慢ならなかったようで興津さんからストレートな言葉が飛んでくる。そしてそれは見事に僕の心を殴りつけていった。痛い。


「ご、ごめん。僕、女の人と話すのが…ちょっ」

「知ってる。てか話してて分かった。女子のこと苦手なんだろうけどさ、そんな話し方されていい気がする女子なんているわけないじゃん。苦手とか得意とか関係ないから。話があるならちゃんと話そうよ。」

痛い。でもその通りだ。興津さんの言う通り。こんな風に話しかけられて、気分のいい人間なんて男女関係なくいないだろう。だけどもそう簡単な話じゃない。自分でも変わらなきゃと思ってる。でも変われなくて、どうにもできなくて悩んでるんだ。そう心の中で叫んだ。しかしその叫びは言葉として発せられることはなかった。うまく言葉にできなかった。とにかく悔しかった。

 明らかに面倒そうな顔で話す興津さん。早く切り上げて練習に戻りたいのだろう。これ以上の長居はそれこそ悪印象だ。


「興津さんの言う通りだよ。練習の邪魔してごめんね。定期演奏会見に行くよ。」

「別に見に来なくていいから。さ、用が済んだならもう行った行った。」

そう言って会話が遮断された。そして興津さんは何事もなかったかのように再びホルンを抱え課題曲を奏でる。これ以上ここにいる理由もないので会長と目を合わせ、促されるように教室を出た。


 誰もいなくなった教室には、再び興津 恵零那自身のような力強く、芯のある中低音がずっと響いていた。

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