第8話「白碧蒼」
8話「白碧蒼」
緋色のクローゼットの中には、沢山の洋服がは入っていた。
昔の緋色はワンピースやスカートが好きだったようで、綺麗な花柄や鮮やかな色、ベーシックなものなど、沢山の衣服が並べられていた。
思い出せない頃の自分は洋服が好きだったのだろうと、ただ思っていただけだった。着ていく服に困らなくていいというだけで、特に何も思っていなかったけれど、今日はその頃の自分に感謝していた。
デートというからには、少しはおしゃれをしなければ申し訳ないと思ったのだ。
泉と出会った時は鮮やかな着物だった。綺麗にしてもらった姿を彼は見ていたはずだ。
それなら、普段の自分を見て、彼はどう思うのか。それが心配だったのだ。
緋色はかなり早起きをして、クローゼットを眺めていた。
「んー………大人っぽくロングのスカートかな。それともやっぱりワンピースかな。」
緋色は服を体に当てては、鏡で確認していた。
泉はどんな服装の女性が好きなのだろうか。
そんな事を考えては、ハッとするのだ。
もう結婚も決まっている相手。しかも、相手は小説のネタのために結婚。自分はお見合いをしたくないからという、理由つきの結婚だ。
恋愛をしてからの結婚ではないのだ。
「………なら、別に頑張らなくてもいいのかな。」
鏡に映る、自分の顔を見つめる。
泉より5歳も年上の自分。もう31歳になり、若い頃とは少しずつ顔の雰囲気が変わってくる。泉は年齢など関係ないと言ってくれるが、年上である緋色は気にしてしまう。
それに好きになって貰えるように頑張る、とも彼は言ってくれた。けれど、緋色は頑張って好きになるものなのだろうか、と思ってしまうのだ。
「ダメね…………。気持ちが弱ってしまう考え方をしてしまうのは。」
ため息をついて、緋色はまたワンピースを手に取った。紺色の生地に、色鮮やかな糸で刺繍をされている花柄のワンピースだ。
緋色はこのワンピースが気に入っており、大切にしていた。
「自分のために綺麗にするのも大切だよね。自信をもって会うために。…………そして、好きになって貰えて、好きになるために。」
泉の言葉を思い出すと、心が軽くなり表情が明るくなった気がした。
さっそくワンピースに着替えて、メイクや髪型をいつもより丁寧に行った。持ち物もしっかり確認した頃に時計を見ると待ち合わせより少し早い時間になっていた。
「遅れるよりはいいよね。」
もう1度鏡で全身で確認した後に、緋色は部屋を出た。
すると、今日も暑いようで午前中なのに、外に出た瞬間汗をかいてしまいそうな気温になっていた。
けれど、緋色はそんなことを気にならないほど、緊張していた。
エントランスで少し落ち着いてから彼に会おう。そう思っていた。
「あ、緋色ちゃん………!」
「………泉くん………。」
それなのに、すでに泉はエントランスのソファに座っていたのだ。緋色を見つけて、すぐに立ち上がり、駆け寄ってくる。
「少し早く着いたからエントランスで待ってたんだ。」
「私も早く準備が出来たから………。」
予想外の展開に、お互いに驚き、そして微笑みあってしまう。その雰囲気が心地よくて、緋色は少し緊張が解れたような気がした。
「そのワンピース………。」
泉がそう呟きながら、緋色が着ていたワンピースを見つめていた。懐かしそうに遠くを見つめるような、そんな表情だった。
「………もう少し動きやすい服の方がよかったかな………?」
「………いや、何でもない。よく似合ってて素敵だよ。可愛くて見惚れてたんだ。」
「え………。」
彼の表情を見て、少し心配になったけれど、泉はすぐにいつも通り優しく微笑んでくれる。そして、緋色に手を伸ばして手を握った。
温かい手の感触に、1週間前のようにドキッとしてしまう。
「もっとドキドキさせるって言ったでしょ?」
「………そう、だけど………。」
「さぁ、行きましょう。」
優しく手を引き、泉は微笑んだ。
今日はこの人に任せれば、きっと楽しい日にしてくれるのだ。今まで、感じたことのない甘くて刺激的な日になりそうだと、緋色は予感していた。
緋色はキュッと彼の手を握り返して、ヒールを響かせて歩き始めた。
泉が乗ってきた車は、緋色でも知っている有名な高級車だった。黒に近いダークブルーで、中は落ち着いたグレーで統一されていた。「少し遠いから、緋色ちゃんはゆっくりしてね。」と言い、泉はハンドルを握った。彼の運転はとても静かで、車に酔いやすい緋色も、気分が悪くなることはなかった。
運転している彼をちらりと盗み見る。泉は半袖の白シャツに黒のチェックのズボンにスニーカーという軽装だった。それを上手に着こなしており、まるでモデルのようだった。
「どうしたの?もしかして、寒かった?」
緋色の視線に気づいたのか、泉はちらりとこちらを見てそう来ていきた。緋色はすぐに視線を逸らして、「寒くないので、大丈夫だよ。」と返事をした。
「そんなに緊張しなくてもいいよ。ドキドキさせるとは言ったけど、少しはリラックスして、ね?」
「うん、ありがとう………。」
すぐに緊張をなくすのは難しいなと苦笑すると、泉は少し考えた後、また口を開いた。
「白碧蒼の名前は泉鏡花からとったのかって、緋色ちゃんは聞いたよね。あれは、名前を考えてた時にたまたま白碧って言葉が浮かんで、意味を調べたら泉鏡花の話に出てくる言葉だって知ったんだ。名前も同じだし、いいかなって思って決めたんだ。だから、偶然だよ。」
「そうだったんだ………。絶対にそこから取ったんだと思ってたんだけど。」
大好きな本の話しになり、緋色は目を輝かせてその話しを聞いていた。それを見て、泉は嬉しそうに笑いながら、「目的地に着くまで小説の話をしようか?」と言ってくれたので、緋色は「ぜひ!」と、返事をした。
そこからは、話しが盛り上がり長旅というのも忘れてしまうぐらいだった。登場人物の制作秘話や、執筆の様子などを聞けて、緋色はファンとして貴重な時間を過ごしていた。
「すごい!」「そうなんだ。」などと、ハイテンションになっている緋色を見て、泉も嬉しそうに話していた。
そんな時、緋色はどうしても気になっている事があった。彼に聞いても良いものなのか、迷ったけれど、結婚したときに聞くことになるので、先に彼の言葉で聞きたいと思い、思いきって質問してみることにした。
「あの、泉くん。…………どうして、今は本を書いていないの?」
緋色の好きな作家、白碧蒼は数年前から本を出版していない。連載もストップしており、ファン達は悲しいんでるのだ。その中の1人が緋色だ。彼の事情もあるのはわかる。けれど、とても素敵な作品だからこそ、続きを読みたい、終わってほしくないと思う。その気持ちを彼に伝えたかった。
すると、丁度信号が赤になり、車は止まった。
泉は、少し考えた後、緋色の方を向いた。
「今は他にどうしてもやらなきゃいけない事があるんだ。それは、小説よりも何よりも大切な事………それに集中したくて、執筆は止めているんだ。物語を書いているとどうしても夢中になって他の事を考えられなくなっちゃうからね。」
ニッコリと笑い、泉は緋色の頭を優しくポンポンと撫でた。
「でも、いつかは続きを書きたいと思ってるよ。こうやって楽しみにしてくれるファンが近くにいるからね。」
緋色に心配かけないようにという言葉だったけれど、その時の泉の表情は忘れられないものだった。
悲しむわけでもない、微笑むわけでもない。
とても強い意思を感じる、まっすくな瞳がそこにはあった。
その瞳はすぐに逸れてしまい、また泉は運転に戻ってしまう。けれど、緋色はその表情の意味がわからずにいた。
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