第6話「小さな違和感」
6話「小さな違和感」
緋色の前向きな返事を聞いた泉は、今までで1番の満面の笑みを見せてくれた。
それを見た瞬間、この選択は間違ってはいなかったのだと、緋色は思えて心地がいい気分になれた。
その日の、帰り際に泉はとある提案をしてくれた。
「緋色さん、デートに行きませんか?」
「………デート………。」
「はい。結婚前にしておきたいなって思って。………ダメですか?」
すっかりご機嫌になった泉は、楽しそうに微笑んでいる。緋色は少し迷いながらも、泉とのデートに行ってみたいと思った。
デートというもの事態には興味がなかったけれど、泉と1日過ごして、どんな人なのかを知りたいと思った。結婚すれば毎日顔を会わせる人なのだなら、知っておきたいと思うのは当然だろう。
「いえ。よろしくお願いします。楽しみにしています。」
「わかりました!では、いつがいいですか?」
と、日時や時間を決めて、後は泉がプランを決めてくれるようだった。予定が合ったのは1週間後の休みの日。決まり次第連絡をくれる事になったので、緋色は泉と連絡先を交換して、その日は別れることになった。
玄関先まで見送ると、緋色はドアノブに触れた後、何かを思い出したように、振り向いた。
「緋色さん。」
「っっ………はい……。」
予想しなかった事だったため、緋色は思わず声が裏返ってしまった。顔も驚いた表情になってしまっただろう。
「あの、緋色さんの方が年上なので、敬語は止めませんか?それに、結婚してまで敬語と言うのも、何だかよそよそしいですし。俺は、普段通りの緋色さんと仲良くなりたいです。」
「それはいいんですが……。普段通りの話し方というと、このままの事が多いので………。」
「友達と話すときとかはどうしてるんですか?」
「あまり友達もいなくて。昔、事故に遭ったみたいで。少し記憶が曖昧な事があるみたいで………友達の事もあまり覚えてないのです。」
緋色は少し前に事故に遭ったそうだ。
そうだ、というのも緋色はその事をほとんど覚えていなかった。
事故のせいで持っていたスマホも全て壊れてしまった。そのため、連絡先を知ることも出来なかった。緋色が事故に遭って見舞いに来てくれたのは、職場の同僚だけだった。
記憶が曖昧になる前も、一人で生きていたのだと緋色は思うと、妙に納得出来てしまった。それぐらいに、今の生活がしっくりときていたのだ。
仕事をして、大好きな本を読んで、寝る。それの繰り返しだったけれど、十分に満たされている気がしていたのだ。
「そうか………。じゃあ、ゆっくり慣れていけばいいと思います。俺が教えるので、敬語を使わなくてもいいですか?」
「はい。教えてください。」
そんな普通とは少し変わった生活を、泉はすんなりと受け入れてくれた。
それは、嬉しいことだったけれど、疑問が残ってしまう。記憶を失くしている事や、事故にあった事などは珍しいはずだ。それに彼ならば、心配してくれそうな気がしたのだ。
しかし、事故についても記憶をなくした事にも深く聞こうとはしなかったのだ。
彼は遠慮をして話さなかったのかもしれない。それが1番の理由のような気もするが、何故か泉の様子がよそよそしく感じてしまった。
「じゃあ、まずは………名前の呼び方を変えましょうか。俺の事は、泉さんじゃなくて、泉くんとか、泉って呼んでください。あ、緋色さんが考えたあだ名でもいいですよ。」
「え!?名前も………?」
「もちろんです。」
他の事を考えてしまっていた緋色に、泉がハードルが高いことを要求してきたので、頭の中で考えることを1度止めた。
男の人の名前をくん付けや呼び捨てで呼ぶなど、とても緊張することだった。さん付けでしか呼んだことがなかったので、緋色はもちろんあだ名など付けられるはずもない。
「あのあだ名はちょっと………難しいです。」
「では、どんな風に呼んでくれますか?」
「い、泉…………くん。」
呼び捨てなど呼んだこともなかったので、1番呼びやすい呼び名で彼の名前を言葉にした。
たった1文字しか変わっていないのに、どうしてこんなにも恥ずかしい気持ちになってしまうのだろうか。不思議だ。
また、頬を赤くしてしまった緋色を見て、泉はまた嬉しそうに「はい。」と、返事をした。
それだけで、心がくすぐったくなる。
「じゃあ、俺は緋色ちゃんって呼ぶね。あ、もう敬語も禁止で。」
「………はい。頑張ります。」
「緋色ちゃん。うん、頑張る、だよ?」
「うん、頑張る………。」
なかなか使わない言葉に、しどろもどろになってしまうけれど、緋色の言葉を聞いて、泉は満足そうに笑った。
「デートの前に電話でも話そう。その方が俺も嬉しいし。」
「は………うん、わかり………わかった。」
「うん。少しずつ、頑張ろう。じゃあ、そろそろ帰るね。しっかり、戸締まりしてね。」
泉はそう言うと、緋色にゆっくりと近づき、そしてあっという間に額に短いキスをした。
何をされたのか、すぐに理解出来なかった緋色はポカンと彼を見つめた。
「ゆっくり休んでね。俺のお嫁さん。」
ヒラヒラと小さく手を振り、泉はドアを開けて出ていってしまう。
バタンッ。ドアが閉まる音がやけに大きく感じた。そして、彼の背中が見えなくなった瞬間、緋色はずるずると座り込み、そして熱くなった額を触れた。
キスをされたのは初めてだった。
緋色は鼓動が早くなり、一気に恥ずかしさが増した。
結婚するという事は、恋人以上の事をするのだ。緋色だってもう大人だ。その意味がわからないはずもなかった。
「私、本当に結婚なんて出来るのかな…………。」
真っ赤になった顔のまま、緋色はしばらく玄関から動けなくなりただ彼が去ったドアを見つめていたのだった。
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