花妖精とひつじ
かつて星が雲に閉ざされ、冬と暗黒とが一大勢力を誇っていた頃の事です。
雲がちぎれ、ふよふよと揺れながら大地に降り立ちました。
「めぇ」
灰色なるもの、その名をひつじと言います。
雲にして風なる子、ふわふわ暖かい生き物です。けれどその毛は空を覆う雲と同じ灰色、薄汚れて見えるのが、難点でした。
「お前は次なる世界の支配者である。この大地を我が物とせよ」
「んなこと言われても」
嵐のごとき父の神託のもと降臨したひつじは、ぶるぶると体を震わせました。その思いは「無茶言うな」の一言に尽きます。
でも今更空に戻れるわけでもなかったので、ひつじはめぇと鳴き、歩き出したのでした。
しかし大地は過酷な世界でした。
星々が尾をひいて落ちてきてから幾星霜。
大地はすっかり凍り付き、見渡す限りが雪と雲に覆われ、生き物はどこにも見当たりません。
「こんな大地に降ろして何をしろというのか」
しばらく考えて、ひつじは思いました。
「……もしや、酔っ払った勢いで適当なことを言っただけなのでは」
思えば、空を引き裂くような雷鳴は、父を叱る母の声に似ていたような……。
いや例えそうだったとしても、今更夫婦げんかに首を突っ込みたくありません。気が済むまでは大地を放浪するのが一番安全な気がしてきました。
かくして雪原に降り立ったひつじは、長い長い旅を続けました。
凍り付いた湖を渡り、雪に埋もれた山を越え、氷の壁の中で眠りについた古代生物を眺めました。先史文明の遺産である鋼鉄の建物の中で一休みもしました。世界には珍しいもの、よくわからないものが満ちていて、これはこれで案外楽しいものでした。
ひつじは、機嫌の良いときは鼻歌をこぼすようになりました。
そしてついに、ある凍える森の中で、それと出会いました。
「陽気な歌をつむぐあなた。ふわふわと揺れる雲のごときあなた。あなたは一体なにものなのですか?」
「めえっ!?」
雪の上でごろんごろんしていたひつじは、びっくりして飛び起きました。
その声は昔、まだ空にあった頃、毛を梳いてくれた懐かしい糸紡ぎ達の声によく似ていました。あれはおっかないのです。ごろごろして毛を汚すと、無数の足を振り上げて兎のようにべしべし叩いてきたものです。
しかしきょろきょろ辺りを見回しても見覚えのある姿はありません。木の枝から糸を垂れて現れるかと思ったものの、そんな気配はどこにもないのです。
では今のは空耳だったのか。
「ここです。わたしはここにいます!」
「……とうっ!」
「ひあっ!?」
ひつじは声のする方に顔を突っ込みました。
なんか悲鳴じみた方向に顔を向けると、そこには、黒い土にから茶色い頭を突き出した妖精の姿がありました。
こんな極寒でも生きているものがいたのか。ひつじは自分のことを棚に上げて関心しました。
それはこの大地で見た初めての「まだ生きている何か」でした。
堅くなった皮を鎧のように着込んだ妖精は、がたがた震えながら叫びました。
「寒い寒い寒い!」
「土の中はぬくかったのか?」
「暢気に話してる場合じゃないですよぉっ。あ、もうダメ……」
一瞬びくんと震えた妖精は、そのまま石になったようにころんと土の上に転がってしまいました。
ひつじは「なんだか悪いことをしたみたいではないか」とぶつくさ言いながら、毛の中にそれをしまいこみました。
そのあとしばらく歩いていると、ひつじの体温と毛の暖かさで妖精がふわふわあくびをしながら目を覚ましました。
「どこですかここっ。なんなんですかっ。……ここぬくいですねぇ。もしかして天国では? 楽園はここにあったのだぁ」
「目が覚めたか」
「あっ。ひつじさん! ああなんか暖かくてすごく眠い……」
「死にそうな物言いはよせ」
「土の中よりずっと気持ちいい……。このまま根を張りたいです。いいですか?」
「やめい」
「でもとってもぬくいんです……ふわぁ」
ひつじは危機感を覚えました。放置しておくとこのまま寄生されそうです。根を張るという言葉に何だか嫌な予感しかしません。
この妖精が何なのかはよくわかりませんが、もっと暖かくて雪のない土地を見つけなくては。
仕方が無いのでひつじは決意しました。妖精の住める土地を見つけ出そう、と。
かくしてひつじと妖精は旅に出ました。妖精は気が向いた時はひつじとおしゃべりし、ひつじはわりと必死に土地を探しました。
妖精は別段、旅において頼りになるところは何もありません。たまに寝相悪くひつじからこぼれ落ちてしまい、あまりに長いこと声がかからないひつじがそれに気づいて慌てて探しに戻るくらい、足手まといでした。
でも、旅は格段に楽しくなりました。このほうっておけない友人のために良い土地があればいいのだが、と、ひつじはかなり本気で祈りました。
そして雪原を越え、氷の谷を下り、凍り付いた森を抜け、氷の浮島を渡って、海を越え……。
ついにその場所にたどり着きました。
そここそ始まりの地。嵐のごとき父がめっぽう叱られた果てに逃げ出した雲一つ無い青空と泥濘の大地でした。
その大地は嵐と雷の諍いによってすっかり焼き払われてしまった「見捨てられた土地」です。雪こそないものの、草木の一本もない、暗黒の大地です。
「暖かい場所だがこれではなぁ……」
うなるひつじの声に導かれて、久しぶりに目を覚ました妖精がひょこっと顔を出しました。
すると妖精はこう言いました。
「うわあっ。おいしそう!」
「うおっ。なんだどうした」
すかさず妖精は泥の中に飛び込むと、長く広く根を張りました。黒い泥の平原はみるみる緑に満たされて、新たに芽生えた花の数々から新たな妖精が生まれました。
花妖精は星落ちる日より幾星霜を経て、ついに、新たな大地に根を張ったのです。
ぽかんとしていたひつじの前に、黒い殻を脱ぎ捨てて、花弁のドレスをまとった妖精が現れ、言いました。
「ありがとうひつじさん。わたし達にもう明日はなく、眠りと共に滅びるだけかと思っていました。なのに、再びこうして咲き誇れるだなんて!」
「さよかぁ……」
なんだか感極まってる花妖精とはうらはらにひつじは遠い目をしていました。あのぼんくらな両親の夫婦げんかにも意味はあったのだな、と。
世界とは複雑なものだとひつじは思いました。
「ひつじさんにはお礼をしなければなりませんね!」
「いや別にいらんが」
「そうはいきません! そうだっ。その汚れた毛を洗って差し上げます!」
「めぇー……」
勘弁してくれと叫ぶ代わりにひつじはそう鳴きました。
以来、ひつじは花の種を運び春へと導くものとして、また花に愛される大地の主として、白い毛と共に妖精に慕われるようになったそうです。
ワンダーランドの欠片 黒霧 @kuromu-0966
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