第7話
十月十八日金曜日
木々が鬱蒼と生い茂り、ひっそりと静まり返った暗い森の中を、私は一人で歩いていた。
歩を進めるたびに、踏み締める土の音だけが、ザクリザクリと耳の奥に響く。その他に、耳に入る物音は、一つとしてない。
風が吹き付け、ねっとりとした空気が、私の頬や腕に纏わり付いた。
不快な空気だった。
頭の中は、靄が掛かったように白く霞み、思考を邪魔していた。
普段なら、このまま前に進むべきかどうか、考えを巡らせるべき場面だろう。しかし、今の私には、そのような選択肢を思い浮かべることさえ難しかった。
ただ、鉛のように重い足を交互に動かしながら、森の中をゆっくりと前に進んだ。
その時だった。
仄暗い道の先に、人らしき影が見えた。
――ヴェルギリウスだ。
名乗ったわけではない。しかし、霞みの掛かった脳が直感的に答を出した。
しばらくの間、私を凝視していたヴェルギリウスは、私の視線を確認したのか、無言のままゆっくりと身を翻した。そのまま、私の数m先をゆっくりと歩きはじめる。
私は、慌ててヴェルギリウスの後を追う。
間を詰めようと速度を上げると、ヴェルギリウスもまた速度を上げる。私が速度を落とすと、ヴェルギリウスも同じように速度を落とす。まるで、私たちの間に特殊な引力と斥力がはたらいているかのようだった。
しばらく歩くと、不意に明るくなった。
森を抜けたのだ。
目の前には、岩と石ころが一面に転がる、荒涼とした大地が広がっていた。森の中とは異なる乾いた風が、砂埃を運んでいる。
遠くに、四角い構造物が見えた。ヴェルギリウスは、迷う事なく構造物の方向に足を向ける。もちろん、私も後を追う。
ザクリ、ザクリ、ザクリ……。
無心にヴェルギリウスの後を追っていた私は、構造物がいつの間にか目の前に聳え立っている事実に気付き、それを見上げた。
謎の構造物、その正体は門だった。
高さは五mほどだろうか。遠くで見た時にイメージしていたよりも、かなり大きい。
門扉とそれを取り囲む枠には、さまざまなポーズを取る無数の人々が、微細な彫刻で刻まれている。ある人は歓喜のままに天を仰いでいるようであり、ある人は絶望と辛苦に耐え続けているようでもあった。
枠の上部には、見た経験もない不思議な文字が深く刻み込まれていた。
我を過ぐれば憂ひの都あり、
我を過ぐれば永遠の苦患あり、
我を過ぐれば滅亡の民あり
義は尊きわが造り主を動かし、
聖なる威力、比類なき智慧、
第一の愛我を造れり
永遠の物のほか物として我よりさきに
造られしはなし、しかしてわれ永遠に立つ、
汝等こゝに入るもの一切の望みを棄てよ……
見た経験のない文字だったが、何故だか読めた。
むしろ、私はその言葉を、昔から慣れ親しんでいる慣用句であるかのように、ごく自然に口ずさんでいた。
不思議と、恐怖心はなかった。
――これが、地獄の門だ。
ヴェルギリウスが、門扉に手を翳した。ギギギイと金属が軋む音とともに、門が開いた。私は、不思議な力に吸い込まれるように、ヴェルギリウスに続いて門をくぐった。
奥には、漆黒の闇が広がっていた。
私はヴェルギリウスの足音を頼りに、暗闇の中を手探りで進む。
長い暗闇を抜けると、その先には荒れ狂う川が広がっていた。ヴェルギリウスは、振り返りながら右前方を指差す。指が示す方角に目を向けると、岸に一艘の舟があった。
舟には、櫓を手にした屈強な男が一人、乗っている。上半身は裸で、山のように盛り上がる筋肉が、水の飛沫に光っていた。
ヴェルギリウスは、やはり無言のまま、舟に乗り込んだ。
私もヴェルギリウスに続いて、慌てて乗り込む。ほぼ同時に、舟は音もなく岸を離れた。
舟は、荒れ狂う濁流に流される事もなく、横腹に打ち付ける波に飲み込まれる事もなく、滑るように進む。ほどなくして、向かいの岸に到着した。
岸に上がる。と、私は、これから進もうとする道の左右に、巨大な穴があるのに気付いた。穴の奥は、垂直に近い絶壁によって、私たちのいる地上と隔てられている。
私は穴の底を覗こうとして、道の端に寄り、身を乗り出した。しかし、穴の下は、全ての光を吸い込んでいるかのように、暗い闇に包まれているだけだった。
不意に、穴の中から大きな咆哮が鳴り響く。
人間の声だろうか。それは、永遠に尽きる事のない苦痛に悶え苦しんでいるようにも、己の運命の理不尽さを誰にともなく訴えているようにも聞こえた。
咆哮は空全体に響き渡り、地面を震わせる。私は、思わず耳を塞いだ。
私には、はっきりとわかった。この穴の中では、この世にもあの世にも行けない人々が、絶望の咆哮を上げ続けているのだ。
私は、言い知れぬ恐怖を感じ、俯いたままで、その場を離れた。岩に足を取られながら、ヴェルギリウスの後ろ姿を追い、足を速める。
咆哮は、足を進めるほどに少しずつ遠ざかり、気が付くと聞こえなくなっていた。
顔を上げると、私たちの前には、岩場の前にうずくまる無数の人たちがいた。
――彼らは、地獄に呼ばれるのを待っている者たちだ。やがて、地獄の門番が空からやってくる。彼らは、地獄の門番に追い立てられながら、自らの足で茨の道を踏み分け、血まみれになりながら、裁きの場へと向かうのだ。
ヴェルギリウスの言葉が聞こえた。いや、聞こえたのではない。私の心の中に、直接響いてきたのだ。
――見るがいい。
ヴェルギリウスは右手を上げ、蠢く人々の塊の奥にあたる一角を指差した。私は、ヴェルギリウスの指先を追い、塊の一角に視線を向けて、目を凝らす。
一つの生命体のようにグネグネと蠢く人間たちの塊。その一角に目が留まった。二人の男性が、波間に漂う漂流者のように、人間の海の間から顔を上げた。
ともに不精髭を生やし、乱れた髪の毛を振り乱しながら、悲しげな眼で私たちを見詰めている。どこかで見た記憶がある顔だ。
あれは……。
「お父さん!」
「龍崎先生!」
私は叫んだ。
叫びながら、駆け寄ろうとする。しかし、目の前にうずくまる無数の人に遮られて、近付けない。
私が人ごみを掻き分けようとしている間にも、二人の姿は人々の塊に押し流され、少しずつ遠ざかっていく。
やがて、二人の姿は人々の波の間に埋もれていった。
*
目が覚めた。
自分の部屋のベッドの上だった。
カーテンの隙間から、朝の光が針のように細く差し込んでいる。雀の鳴く声が、遠くに聞こえる。
上半身を起こした私は、右手の甲で額を拭った。滝のような汗が、手の甲とパジャマの袖を濡らした。
*
それにしても、嫌な夢を見たもんだ。
怖いとか不快とかではないけれど、異世界感が余りに強すぎて、思考回路が現実世界に戻ってくるまでに、多大なエネルギーを費やした。そんな気がした。
いつものように学校の自転車置き場に自転車を置き、眠い目を擦りながら校舎までの通路を歩いていると、ポンと肩を叩かれた。
振り向くと、何かが頬に刺さった。啓太の人差し指だった。
「やめてよ、小学生みたいな事。私のスベスベお肌がもし傷物になったら、どう責任取ってくれるの」
私は、眠気のせいで半開きになっている目で、啓太を睨み付けた。さぞ、不機嫌そうに見えただろう。
啓太は、多少怯んだ様子だったが、すぐに気持ちを立て直して、私の顔の前に人差し指ではない何かを差し出した。見慣れた、啓太のスマートフォンだった。
私は、至近距離に突き出されたスマートフォンから目を遠ざけながら、画面を見た。いつか啓太に見せてもらった、龍崎先生の最後の姿だった。
「ちょっと、朝っぱらから、生々しい写真を見せないでよ」
込み上げてくる不快感を我慢しながら、私は再び啓太を睨み付けた。
「まだその画像、持ってたの。まさか、皆にそうやって見せびらかしてるわけじゃないでしょうね」
「何言ってんだよ。そんな事、するはずがないだろ。よく見てみろよ。ほら、写真の上のタイトル」
言われるまま、私は写真の上に書かれている、ちょっと大きめの文字に目をやった。
映画音楽界の新星R氏が謎の死
その裏に囁かれる黒い噂の数々
そんな見出しが躍っていた。
どうやら、インターネットの掲示板サイトのようだった。
「例の写真がネット上に流出したらしい。で、掲示板とかいろんなサイトで、この写真と一緒に龍崎先生に関するいろんな情報がバズってるってわけだ。教え子に手を出してるとか、うちの学校に入る時に書類を偽造したとか。なかには、反社会勢力と繋がってるとかいう奴までいて、言いたい放題だ。自殺って話になってるけど、実はヤバい人たちに恨まれて消されたなんて、根も葉もない話まで載ってる」
「何それ。いくらなんでも酷過ぎない? 削除できないの?」
「元ネタは削除されたけど、いろんなサイトに拡散してて、もう手が付けけられない状態だそうだ。先生たちの間でも、昨日からちょっとした騒ぎになってる。このサイトを見たのか、龍崎先生にレッスンを受けてたE組の坂崎(さかざき)佳(か)穂(ほ)さんや、告別式で弔辞を読んだ三年生の中村先輩が、ここ数日は体調不良とかで学校を休んでるらしい」
嫌な時代になったものだ。不愉快極まりない気持ちで靴箱に靴を入れた時、始業五分前を知らせるチャイムが鳴った。
*
その日の昼休み、全校生徒が体育館に集められ、臨時の全校集会が開かれた。
話題は予想通り、龍崎先生のよからぬ噂についてだった。
教頭先生が壇上に立つと、今までザワザワとしていた生徒たちが、一斉に静かになった。教頭先生は、マイクのスイッチを入れると、いつものようにやや早口で喋りはじめる。
「えー、一部の人は知っているかも知れませんが、最近、ネット上で龍崎先生に纏わるよからぬ話が拡散しているようです。しかし、それらは全て、根も葉もないつくり話、フェイクニュースの類です」
驚いている生徒もいたが、とくに驚きもなく、先生の話を平然と受け止めている生徒もいた。恐らく、この話を知っている生徒と知らない生徒は、半々ぐらいなのだろうと思う。
「そもそもネットの世界は、誰もが自由に、しかも匿名でさまざまな情報を発信する行為が可能であるため、無責任な発言や事実ではない情報が、あっという間に広まる危険性を孕んでいます。ある研究では、ネットに流されている情報の数十%が、根拠のない噂や、誇張された話であるという研究結果も出ています」
そういう意味で言うと、教頭先生の言う「ある研究」もかなり怪しい情報である気がするのだが、そこは敢えて聞き流した。
その後も、教頭先生の話は続く。長い話は、最後にこんな言葉で締め括られた。
「皆さんには、このような噂に惑わされないように気を付け、伝統ある我が藤桜学園高校の生徒として恥ずかしくない、節度をもった行動をしていただければと思います」
額の汗を拭きながら、教頭先生は足早に檀を下りた。
続いて、生活指導の先生から、いくつかの注意点や対処法などが具体的に説明された。
怪しいサイトを検索しない、見ない、見つけても友達などに知らせない、速やかに先生に知らせる、といった内容だったと思う。
でも、私たちの世代にとって、インターネットというメディアは、先生たちが考えている以上に身近であり、リアルな世界なのだと私は思う。いわば、空気のようなものと言ってもいいだろう。
空気が汚れているからと言って、息を止めることはできない。それと一緒で、見るなと言われたら、余計見たくなるし、見てしまうに決まっている。
そして、その行動を他人が止める術は、ほとんどない。
案の定、周囲からは「お前、見た?」とか「知ってるなら、アドレス教えてくれよ」と言った囁き声が聞こえた。
「前にもお話したかと思いますが、街で龍崎先生について聞かれても、『私にはよくわかりません』と答えるように心掛けてください。くれぐれも、迂闊な話はしないように注意しましょう」
昼休みに開かれた臨時の全校集会は、生徒たちにとって何よりも貴重な休息時間を無為に費やした後、生活指導の先生の他人事のような言葉によって、終わりを告げた。
*
集会が終わると、生徒たちは列になって、ゾロゾロと教室へと向かった。私も生徒たちの列に混じり、教室に向かって歩いていた。
すると、一人の女子生徒に呼び止められた。
「鷺沢さん、ちょっといいかしら」
振り向くと、三年生の勅使河原(てしがわら)遥(はるか)先輩だった。
鼻筋の通ったすっきりとした顔立ちや、気品溢れる立ち居振る舞いで、高畑先輩ほどではないが、男子生徒の間での人気が高い。ルックスや生活態度で選ばれたわけではないだろうが、龍崎先生のレッスンを受けている数少ない生徒の一人だった。
ただ、左手に巻かれた包帯が痛々しい。
コンクールの県大会を目前にして左手をドアに挟み、中指を骨折したのだという。もちろん、コンクールはエントリーを取り下げた。さぞ悔しかっただろうと思う。
「あなたにお話があるの。申し訳ないけど、ちょっとお時間はいいかしら」
「はい、大丈夫ですけど」
勅使河原先輩は、私の返事を確認すると、無言のままゆっくりと歩きはじめた。私は仕方なく、勅使河原先輩の後ろに付いて歩く。
一体、何の話だろう。感情を押し殺したような勅使河原先輩の言葉が、私の不安を掻き立てた。
勅使河原先輩は、人ごみから離れると、第三校舎の階段を上がった。生徒たちの喧騒も、もうここまでは届かない。
誰もいない階段に、二人の靴音がコツコツと不穏に響く。
二階の踊り場に着くと、勅使河原先輩は突然、立ち止まった。私は、思わず体を石のように硬直させた。
勅使河原先輩は、私を振り返りながら、おもむろに口を開いた。
「あなた、お父様の会社に行って、龍崎先生について担当の方にいろいろ聞いたそうね」
――お父様の会社?
意味を尋ねようとして、やめた。
勅使河原先輩のお父様は、確か龍崎先生が契約していたレコード会社の専務だったか常務だったか、とにかく偉い人だったという事実を思い出したからだ。
啓太の次は、勅使河原先輩。世の中は、本当に狭い。
「はい、先週、龍崎先生のレコード会社に伺って、お話を伺いました」
私は、勅使河原先輩と目を合わせないように、俯き加減で弁解した。
「でも、大した話じゃないんです。先生が何かに悩んでいらっしゃらなかったかとか……。私も、先生が大好きだったので、お気の毒で。だから、何とか自殺の真相を知りたいと思ったんです」
多少、フィクションを混ぜた。でも、気の毒に思っているのは本当だ。
「龍崎先生は、きっと何か思い詰める事があって、ご自分から亡くなられたの。自殺なのよ。それを殺人事件だなんて……。何を企んでいるのか知らないけれど、あちらこちらで変な詮索をするのは、やめてちょうだい」
勅使河原先輩は、私の行動をストレートに糾弾した。きつい口調だった。ちょっと声が震えていた。
「まさかと思うけど、ネットにいろんな話を書き込んでいるの、あなたじゃないわよね」
「私、そんなことはしてません!」
私は、ブルブルと頭を左右に振りながら、恐る恐る顔を上げる。上げながら、そっと先輩の表情を観察する。
先輩は、泣いていた。
「お願い。私たちのことは、そっとしておいて」
頬を伝った涙が、ポタリと一滴、踊り場の床に落ちた。
「約束してちょうだい」
――この人は、龍崎先生が本当に好きだったんだ。
急に、自分がとても悪い事をしているんじゃないかという良心の呵責に苛まれた。
でも、良心の呵責もあるけれど、やはり真実を知りたいという強い気持ちもある。
葛藤に苦しむ私は、黙ったまま、再び俯くしかなかった。
勅使河原先輩は、それ以上は何も語らずに、肩を震わせながら階段を降りていった。
靴音が遠くなり、やがて聞こえなくなるまで、私は俯いたまま、顔を上げることできなかった。
そして、この日以降、学校内では以前にも増して、龍崎先生の話をする行為自体が憚られるようになった。
十月二十一日月曜日
新たな事件が起こった。
大事件だ。
事件の舞台は、放課後の教室だった。
私が、誰もいなくなった教室で日直の日誌を書いていると、同じクラスの土岐(とき)川(がわ)玲(れい)香(か)が教室に入るなり、声を掛けてきた。
玲香は、バイオリンを専攻している生徒の一人だ。身長は私よりもちょっと低い一五〇㎝台後半ぐらいで、キリッと引き締まった顔付きにショートボブがよく似合っている。
誤解を恐れずに言うと、バイオリニストというよりも、ソフトボール部員と言ったほうが信じてもらえそうな雰囲気だ。
性格は、とにかく明るい。笑うと頬に現れるえくぼと、口元から可愛く覗く八重歯が、いつも私の胸をキュンとさせる。
成績も悪くない。特に英語は学年でも上位に入る実力なので、テストの前に啓太が忙しい時には、いつもお世話になっている。
遠くの啓太よりも近くの玲香。そんな固い絆で結ばれている、有り難い友人だ。
「環、ちょっと聞きたいんだけど」
「何?」
私は日誌を書きながら、玲香の次の言葉を待った。しかし、玲香は珍しくもじもじした様子で、なかなか言葉を繋がない。
私は手を止め、玲香の顔を見上げた。
「ひょっとして、言い難いぐらいよくない話?」
頬に米粒がついてるとか、歯に青のりがついてるとか、鼻毛が出てるとか……。
いや、数日前、学校の帰りにゲームセンターでクレーンゲームをしていた場面を見られたのかもしれない。あるいは、啓太と一緒に龍崎先生の教員室に……。
自分の妄想に恐怖した私は、ゴクリと唾を飲み込む。すると、玲香がようやく、おずおずと口を開いた。
「環、鷹水君と仲がいいでしょ。鷹水君については、よく知ってるんだよね?」
何だ、そんな話か。私は安堵した。
「何よ、突然。もちろん、だいたいは知ってるよ。初恋の相手が小学校時代の保健の先生だったとか、右のお尻に毛が生えたほくろがあるとか。今でもピーマンが嫌いとか…。でも、それがどうかしたの」
玲香は、私の例え話に戸惑いながらも、話を続ける。
「環、鷹水君をどう思ってるの?」
「え?」
私はわけがわからず、聞き返した。これが啓太でなく、学年一のイケメンだと誰もが認める花形(はながた)君に関する話だったら、さすがの私も話の内容をすぐに理解しただろう。
しかし、啓太の話だ。玲香の言葉を、すぐに理解できなかったのは無理もない。
口をぽかんと半開きにしている私を前に、玲香は重ねて聞いてきた。
「環、鷹水君と付き合ってるわけじゃないんだよね? 鷹水君、他に付き合ってる女の人、いるのかな?」
「何だ、そんな話か」
私は、笑いながら即答した。
「私が啓太と付き合ってるわけないじゃん。それに、啓太が好きになる女の人なんて、いるわけがない。断言するよ」
即答した後、質問の内容を反芻した私は、まさかと思いながら、真顔で玲香に尋ねる。
「玲香、ひょっとして啓太の事……」
玲香は、こっくりと頷いた。その顔には、乙女の恥じらいが浮かんでいた。
――今年一番の重大事件だ。
「やめときなよ、あんな男。女子の気持ちなんて全然わかんない鈍感野郎だし、気が利かないし、背が高いばっかりの見掛け倒しだし、それに、後は、ええと……」
言い掛けてやめた。いくら事実とはいえ、この場で啓太の悪口を並べ立てるのは啓太にはともかく、玲香に悪い気がした。
「蓼食う虫も好き好き」という、有り難い諺もある。
恋は盲目、なのだ。
それに、啓太がそれほどイイ男ではないという事実は、付き合っていれば遅かれ早かれわかる話だ。それも、玲香の人生にとってはいい勉強になるかもしれないし、何より二人の運命を限定する権利など、私にはない。
私は、満面の笑みを浮かべる玲香を見ながら、自分に対して必死にそう言い聞かせた。
やがて、玲香は「有り難う!」と頭を下げると、どうアドバイスしたらいいものか悩み続ける私を尻目に、足早に教室を出て行った。
教室に一人取り残された私は、日誌の続きを書くのも忘れて、玲香の後ろ姿を見送るしかなかった。
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