第6話
十月十七日木曜日
昼休み、自分の席に座って五時間目の準備をしていると、黒板付近で話をしている女子生徒たちの、何気ない会話が耳に入ってきた。
「ねえねえ、聞いた?」
「何、何?」
「明日、龍崎先生の教員室が片付けられる事になったんだって」
龍崎先生というワードに、私は条件反射的に耳を傾けた。
「そうなの? 先生の遺品はどうするんだろう?」
「ご家族の方が引き取りに来るらしいよ」
私は、先日、先生の自宅に伺った時に会った伯母さんの顔を思い浮かべた。
「片付けた後、あの部屋はどうするんだろう?」
「さあ、ほかの先生が使うんじゃないかなあ」
「でもさ、ちょっとヤバくない? 訳あり物件って感じで」
私は、素知らぬふりをして会話を盗み聞きしながら、ある決心をした。
おもむろに椅子から立ち上がると、自分の席にボケーっと座り込んでいた啓太の席にツカツカと歩み寄る。そのまま、啓太の腕を掴んて教室の外に出た。
バランスを崩しそうになりながら、必死についてくる啓太。
「おい、ちょっと。危ないよ。おい」
啓太のSOSをものともせず、私は無言のまま、誰もいない階段の前まで啓太を引っ張っていく。階段の横で腕を放すと、啓太は「何なんだよ」と、戸惑いの表情を見せた。
「さっきの子たちの話、聞いた?」
「何の話だよ」
「明日、龍崎先生の教員室が整理されるんだって」
「だから、何だよ」
啓太の声が、少々苛立ちの色を帯びてくる。
「私は以前から、先生の死に関する手掛かりが教員室に残されてるかもしれないって考えてた。でも明日、先生の教員室が整理されるって事は、今日を逃すと、手掛かりが永遠に見つけられなくなるって話なのよ。だから、今日の放課後、先生の教員室にこっそり入ってみようと思う」
啓太は目を見開き、驚きを素直に表現した。
「マジかよ。そりゃ、ヤバいよ。第一、鍵がかかってるだろ」
「あ、そっか」
その時の私の顔は、さぞ間抜けな表情だったろう。
でも、啓太の言う通りだった。
先生亡き今、先生の教員室には、当然のように鍵が掛けられている。肝心の鍵はと言うと、一階の一般教員室に大切に保管されているはずだ。
私ともあろう者が、そのような重要な事実を忘れているとは。
「はあ……」
自分の間抜けさ加減に、思わず溜め息が出た。
「先生の事件について考えるのもいいけど、もう少し冷静になるんだな」
啓太が、私の頭をポンと叩きながら、豪快に笑った。
昼休み終了五分前のチャイムが鳴った。
*
六時間目が終わったとき、私は机に肘を突きながら、窓の外を眺めていた。
午後の五時間目、六時間目の授業中、授業内容は上の空で、ずっと龍崎先生の部屋に忍び込む方法ばかりを考えていた。
龍崎先生の教員室を、もう一度調べてみたい。そうすれば、先生の死に関する手掛かりが、何か見つかるかもしれない。
しかし、それは叶わぬ望みなのだ。
途方に暮れた私は、今一度溜め息を吐いた。
と、私の前に啓太が近付いてきた。得意げな表情だ。私にはわかる。
「何よ、ご機嫌よさそうな顔をして」
不機嫌さを隠すのも面倒臭くて、嫌味な言葉をストレートに投げつけた私の鼻先に、啓太は何かを差し出した。
鍵だった。
「何の……、って、まさか龍崎先生の?」
啓太は私の言葉を遮るように「しっ」と唇の前に人差し指を当てながら、頷いた。
「鍵は一階の教員室にあって、勝手に持ち出せないでしょ。どうやって?」
「第二レッスン室を練習に使いたいって言って鍵を借りる時、こっそり一緒に持ってきたんだよ」
「でも、鍵がなかったら、すぐにバレるでしょ?」
「代わりに、俺の家の鍵をぶら下げておいた。俺ん家の鍵、この鍵と似てるんだよ。だから、しばらくは大丈夫だよ、きっと」
啓太の大胆さ、と言うかアホさ加減に、私は呆れた。冷めた目線を送ると、啓太は得意げに鼻を膨らませている。
私は、啓太の間抜け面を眺めているのにこれ以上耐えられなくなって、啓太の手を引っ張った。
「龍崎先生の教員室、行くわよ」
でも、ちょっと嬉しかった。
啓太は、龍崎先生の死を殺人事件と半ば決め付けている私の考えに、決して心から賛同してはいないだろう。それはわかっている。
でも、きっと啓太なりに、私を心配してくれているのだ。
*
龍崎先生の教員室の前まで行くと、まず向かいの教員室を注意深く観察した。
向かいの教員室には、誰もいなかった。きっと、先生は全員、レッスンに行ってしまったのだろう。
右、よし。
次に、今しがた歩いてきたばかりの廊下を振り向いて確認する。誰の姿も見えず、足音もしなかった。
後ろ、よし。
私は、目撃者がいない事実を確認すると、素早くドアの鍵穴に鍵を差し込む。ゆっくりと右に回すと、カチャリと音がした。
すかさず鍵を抜き、ドアノブを回しながら、慎重にドアを引く。ドアは、音もなくスーッと開いた。
私は、人一人が通れるぐらいまでドアを開くと、スパイ映画の主人公気取りで身を翻しながら、教員室の中に滑り込んだ。内通者の啓太も続いた。
教員室の内部は、十日前とほとんど変わっていなかった。
「で、何を探すんだ?」
振り向くと、仁王立ちで腕を組んだ啓太が、出動直前の戦闘ロボットのように、私の指令を待っていた。
正直、あまり具体的なイメージはなかった。
「何って、そりゃ、犯人が残した遺留品とか、脅迫状とか。あと、身の危険を感じていた龍崎先生がこっそり残していたメッセージとか……」
啓太は黙って椅子に座ると、棚に収められているファイルや書類の束を一つ一つ確認しはじめた。
脅迫状とか、先生が死の直前にこっそり残したメッセージなんて、どこにあるのか見当もつかなかった。いや、正直に言うと、そんなものが本当にあるとは、到底思えなかった。
私は仕方なく、県大会当日の朝、何気なく手に取った楽譜を、龍崎先生の机の上から再び持ち上げた。
十枚ほど捲ったところで、私は思わず手を止めた。
二曲目の一枚目にあたる楽譜のメインタイトル周りが破り取られている。残っているのは、楽譜が書き込まれた五線譜の部分と、五線譜のすぐ上部に書かれたサブタイトルらしい文字だけだ。
文字は、「ブルネットのいざない」と読めた。
――この間見た時には、破れていなかったはず。
「啓太、これ、県大会の日の朝に見たときには、破れてなかったんだけど……」
啓太は一瞬、驚いた様子で私を見たが、「気のせいじゃないのか」と言うと、すぐに手元の書類に視線を戻した。
二曲目のタイトルは、あの時確かに見た覚えがあるので、気のせいだとは考え難い。
そう考えながら改めて見直すと、何か別の違和感を抱いている自分に気が付いた。
*
あれは、忘れもしないゴールデンウィーク明け初日、五月七日のできごとだった。
私は、放課後の第三校舎二階の廊下を、レッスンがおこなわれる第三レッスン室に向かって歩いていた。
秋のコンクールで弾く曲を、連休明けまでに決めておかなければならない決まりになっていた。そのミッションを見事にクリアしていた私は、周囲の目にはさぞ意気揚々とした姿に映っていただろう。
右手に持ったベージュのトートバッグには、コンクール用に準備したフランツ・リストの「パガニーニによる大練習曲第三番嬰ト短調『ラ・カンパネラ』」の楽譜。この曲こそ、熟慮に熟慮を重ねた末、私がコンクール用として選んだ曲だった。
カンパネラと聞くとまず思い出すのは、岩手県花巻市が生んだ国民的作家、宮沢賢治の代表作『銀河鉄道の夜』に登場するカンパネルラだろう。
主人公ジョバンニの友人だったカンパネルラは、ジョバンニとともに銀河鉄道に乗って夜の空を旅するが、旅を終えたジョバンニが丘の上で目覚めた時には、実は水に落ちて行方不明になっていたという。何とも物哀しい運命を辿る人物だ、
しかし、リストのカンパネラは、宮沢賢治のカンパネルラとは、直接の関係はない。もちろん、宮沢賢治がカンパネラという単語からインスピレーションを受けて、カンパネルラという悲しき少年のイメージをつくり出した可能性はある。が、取り敢えずリストのカンパネラは、カンパネルラ少年ではない。
では、カンパネラとは何か。
などと勿体ぶるほどではないが、カンパネラとはイタリア語で鐘を意味するらしい。インターネットの百科事典で調べたら、そう書いてあった。
恐らく、教会の鐘だろう。
実を言うと、ラ・カンパネラと名が付くリストの曲は、四曲ほど知られている。
一曲目は一八三四年に発表された「パガニーニの『ラ・カンパネラ』の主題による華麗なる大幻想曲」。四曲の中でもっとも古い曲だ。
そのほかに、一八三八年につくられた「パガニーニによる超絶技巧練習曲第三番変イ短調」、一八四五年につくられた「パガニーニの『ラ・カンパネラ』と『ヴェニスの謝肉祭』の主題による大幻想曲」、四十歳になる一八五一年に作曲された「パガニーニによる大練習曲第三番嬰ト短調『ラ・カンパネラ』」がある。
そして今回、私が選んだ大練習曲版のラ・カンパネラは、四曲のラ・カンパネラのなかでも、というより数多いリストの曲のなかでも、特に有名な曲の一つだ。
同時に、これでもかと繰り返される跳躍が演奏者を悩ませる、最高難易度の誉れ高い名曲と言われている。
私のチャレンジングな計画を聞いた啓太は「お前が? これを? マジで?」とバカにしたような顔で苦笑いした。
だが、啓太は重要な点を見落としている。残念なことに、私はこう見えて意外に跳躍が得意だ。人によっては苦手とする人もいるが、私には向いている。そんな確信があった。
軽い足取りで第二レッスン室の前に差し掛かる。私の主戦場となる第三レッスン室は、第二レッスン室のすぐ先だ。
と、第二レッスン室から、聞き慣れないメロディーが流れてきた。
最初は、生徒の誰かだと思った。しかし、ちょっと雰囲気が違う。
上手い下手でいうと、これぐらい上手い人は生徒の中にもいる。例えば高畑先輩とか。
でも、この音は何と言うか、凄く柔らかくて、棘や野心、自己顕示欲といった若さ故の負の要素が感じられない。
わかりやすく言うと、円熟味の上に成り立つ包容力と言ったらいいのだろうか、そんな魅力がある。いや、全然わかりやすくないか。
それはともかく、私はフラフラと吸い寄せられるように、僅かに開いたドアの隙間から、レッスン室の中を覗き込んだ。
「佐伯先生!」
思わず叫びそうになり、慌てて口を押さえた。そのまま、聞き耳を立てる。
佐伯先生の指が、水面を跳ねる小石のように、鍵盤の上をリズミカルに跳ねてゆく。時には滑らかに、そして時には力強く。
それは、楽器と演奏者という関係を超え、一つの生命体となったピアノと佐伯先生が、音という新たな生命を生み出しているようにも見えた。
気が付くと、私は生み出された空気の振動が一体となってつくり出す、甘美な幻想の世界の中心にいた。
世界は、音とともに波紋のように空間に広がり、静止し、収縮したかと思うと、また拡散する。
私は、緊張感を伴った不思議な心地よさを感じながら、時が経つのも忘れて、音の妖精たちが乱舞する世界に身を委ねた。
それから、どれくらいの時が経っただろう。やがて、先生の両手の指先が紡ぎ出す奇跡の世界は、波が引くように緩やかに、そして静かに終わりを告げた。
後には、穏やかな、それでいてどこか寂しくも思える空気だけが漂っていた。私は、息をするのも忘れて、レッスン室の中に満たされている空気の余韻を反芻した。
演奏が終わると、佐伯先生は静かに後ろを振り向いた。視線の先には、背筋を伸ばして上品に椅子に座る高畑先輩がいた。
高畑先輩は、パチパチと小さな拍手をすると、先生に尋ねた。
「素晴らしい曲ですね。この曲も、先生が作曲されたのですか?」
「ああ、これは最近、書き上げたばかりの最新作だ。どうだったかな?」
先生はやや恥ずかしそうに言いながら席を立つと、高畑先輩に歩み寄った。先輩は、佐伯先生の顔を見詰めながら、こう言った気がする。
「素晴らしいと思います。でも……」
高畑先輩の表情が、一瞬曇った気がした。
佐伯先生が上半身を屈め、右手の人差し指を高畑先輩の艶やかな唇の前に立てた。
まるで、これから高畑先輩の口から出てくるであろう言葉を制止するかのように……。
私は、思わずドアの陰に隠れながら、教室に背を向けた。
高畑先輩が、全国レベルのピアノコンクールで活躍できるようになった陰には、佐伯先生の存在があったという。それだけに、佐伯先生と高畑先輩が、通常の先生と生徒という関係を超えた強い信頼関係で結ばれている事実は、学内の誰もが知るところだった。
しかし、そのような二人の関係を考慮しても、見てはいけない場面を見てしまったような気がした。
胸のドキドキが、なかなか収まらなかった。
その日、佐伯先生のレッスンを受けている間、私の胸はずっとドキドキし通しだった。
*
私が今、龍崎先生の教員室で目の前にしている楽譜は、あの時の曲にとても似ている。
いや、あの曲そのものと言ってもよかった。
――佐伯先生がつくった曲が、龍崎先生の未発表曲の中に?
――いったいどうして?
私の頭は混乱した。
その時、教員室の外から、コツコツという足音が聞こえた。
「マズい、誰か来た!」
啓太は、私の耳元でそう囁くと、いきなり私の背中を押した。背中を押された私は、机の陰にしゃがみ込む格好になった。ほぼ同時に、啓太も机の陰に体を滑り込ませる。
啓太の体が、私の背中に密着した。
ドキッとした。
ドキッとした理由は、啓太の体が密着したせいなのか、誰かに見つかりそうになったせいなのか。
恐らく、両方だった。
私は、息を殺しながら、机の陰からそっと顔を出す。ドアの方角を観察すると、曇りガラスの小さな窓越しに、誰かの顔らしき影が見えた。
影はしばらくの間、私たちのいる教員室の中の様子を窺っていたようだったが、やがて煙のように消えた。
コツコツと遠ざかっていく足音が聞こえた。
何事もなかったかのように、静寂が戻ってきた。
「ふう、危ないところだった。この部屋の方向から音が聞こえたから、様子を見に来たってところかな」
啓太が、机の陰から立ち上がり、腰を伸ばした。
レッスンの終了を知らせるチャイムが鳴った。
「そろそろ先生たちが教員室に戻ってくる。タマ、もう行くぞ」
啓太が、書類を慌てて棚に戻しながら言った。片付け終えると、足早にドアに向かう。
「おい、タマも早くしろ」
その声に、私も楽譜を元の場所に置いて、啓太の後に続いた。
耳を澄まし、音がしないのを確認した後、ドアをそっと開ける。
素早く教員室の外に出ると、ドアに再び鍵を掛け、足早にその場を離れた。
*
啓太は、何事もなかったかのように、鍵を一階の教員室に返却した。運のいい事に、怪しまれたり、問い詰められたりはしなかったようだった。
私は、啓太が戻ってくるのを、靴箱の横で待っていた。
啓太が無事に戻ってくると、一緒に自転車置き場に向かう。籠に鞄を入れ、自転車を押しながら、二人並んで学校を出た。
国道へと向かう緩やかな坂道をゆっくりと下りながら、私はグルグルと混乱している頭の中で、必死になって考えた。
佐伯先生がつくった曲が、龍崎先生の未発表曲の中にあったという事実を、啓太に言ったほうがいいのだろうか。
いや、まだそうと決まったわけじゃない。私の勘違いかも知れない。はっきりするまで、言わないほうがいいような気もする。
混乱を整理できないまま、私はもう一つの疑問について啓太に尋ねた。
「ねえ。ブルネットって、いったい誰だろう?」
啓太は、突然の質問に、不思議そうに私の顔を見詰める。夕日が当たった啓太の顔が、オレンジ色に染まって見えた。
「ブルネットって言えば、茶色い髪の毛だろ。なんだよ、突然」
「破れた楽譜に書かれてたのよ。多分、サブタイトルだと思う。『ブルネットのいざない』って書かれてたから、きっと人の名前だよね」
「龍崎先生が、茶色い髪の毛の女性に誘われたって話じゃないのか?」
啓太が、空を見上げながら興味なさげに言った。何かムカつく。私は、啓太の尻を右足で蹴飛ばした。
「痛て、何すんだよ!」
啓太は、左手で尻を押さえながら、情けない声を上げた。
「もう少し協力的になってよ。幼馴染の私が悩んでるんだから」
「そりゃ、協力してもいいけど……、俺に何をしてほしいんだよ」
「アンタん家で、ちょっとパソコン貸して。ブルネットについて調べてみるから」
「そんな内容なら、お前のスマートフォンで調べりゃいいだろ」
「私のスマートフォン、今、通信制限が掛かってるの!」
啓太は足を止め、目を閉じて「はあ」と溜め息をついた。
「わかった。その代わり、余計な行動は厳に慎めよ」
*
私たちは、自転車で国道を十分ほど南に走り、駅に続く道との交差点を、駅とは逆方向に右折した。私が家に帰る時に右折する交差点よりも、数百m手前の交差点だ。
自転車でさらに五分ほど走ると、高級住宅街に入る。
私たちは、高級住宅街の中をさらに進み、二つめの交差点の一角にある一軒家の前で自転車を降りた。
豪奢なつくりの二階建て住宅。
啓太の家だった。
私たちは、自転車を押しながら門をくぐり、敷地内へと入る。
五十坪はあろうかという芝生の庭は奇麗に手入れされ、ガレージにはドイツの高級車がこれ見よがしに居座っていた。
啓太の一族は、この地で代々続く資産家だ。しかも、父親は一流企業で結構な地位にあるらしく、年収は相当なものらしい。
がさつで能天気な普段の啓太を見ていると、とても良家のご子息には見えない。だが、いつもの話ながら、いざ家を目の前にすると、コイツは良家のご子息なんだという事実を認めざるを得ない。
いっぽうの私はというと、母の実家がある程度まとまったお金を用立ててくれなかったら、私立高校で音楽を専攻する夢など、決して叶わなかっただろう。
啓太と自分の家柄の違いを、改めて実感させられる。
「入れよ。汚れてるけどな」
嫌味な謙遜を口にする啓太の背中を見ながら、私はいそいそと玄関のドアをくぐる。靴を脱ぐと、上がり框に足を掛けた。もちろん、靴を揃えるのも忘れなかった。
啓太の家に入るのは、確か小学六年生の時以来だ。
廊下を歩きながら、改めて家の中をキョロキョロと見回す。
ピカピカに磨き上げられた明るい茶色の床板。居間の入り口の柱に刻まれた、啓太の身長を表す刻線。
約五年ぶりだが、思ったほど変わっていない事実に、少し安心した。
二階に上がると、啓太に案内されるまま、部屋に入る。
明るい角部屋だ。
南側と西側にある窓からは、夕方前の柔らかい光が差し込んでいた。右側には勉強机があり、左側の奥には壁に密着するようにベッドが置かれていた。
久しぶりに入る啓太の部屋は、以前より若干狭くなっている気がした。私たちが、あの頃よりも少し大人になったということなのだろうか。
「ほら、これ使っていいから」
啓太は、机の上に置かれているノートパソコンを開くと、起動スイッチを押した。
「お茶でいいか。それとも、コーヒーか」
「お茶でいい」
啓太は「そっか」と言い残すと、部屋を出て行った。トントンと階段を降りる音が聞こえた。
啓太の足音を確かめると、私は椅子に座ったまま、後ろを振り向いた。
啓太も、ああ見えて一応は高校二年生だ。世の人が男子高校生に対して抱いているイメージに違わず、啓太もこの部屋のどこかに、巧妙にエロ本を隠したりしているのだろうか。
隠しているとすれば……。
――いやいや、今はブルネットについて調べる時だ。
思い直した私は、ブラウザを起動させると、キーボートを叩いて「BURUNETTO」とローマ字で入力する。
検索結果が、「ブルネット」とカタカナで画面上に並んだ。
検索結果をスクロールしながら、ふと考えた。
――普段の啓太は、いったいどんなページを見ているんだろう。
気が付くと、検索履歴をクリックしようとしている自分がいた。
いけない。私は啓太の検索履歴を調べるために、この家に来たわけではない。もっと高尚な調べ物をするために来たはずなのだ。
私の中の天使と悪魔が関節技を掛け合っていると、後ろから声がした。
「どうだ。何かわかったか」
私はびっくりして振り向いた。お茶を載せたお盆を両手で持つ、啓太が立っていた。
「まだに決まってるじゃない。見ればわかるでしょ!」
意味もなく怒る私に対して怪訝そうな顔をしながら、啓太は私の肩越しにパソコンを覗き込む。啓太の顔の近さに、不覚にもドキッとした。
「やっぱ、髪の毛に関する内容ばっかりだな」
私の背後から伸ばした手でマウスを握り、画面をスクロールしている啓太が、残念そうに呟いた。次のページも、次のページも、そのまた次のページも、同じ結果だった。
そして、五ページ目に差し掛かった時。
「あ、これ!」
私の耳元で大きな声で叫びながら、啓太が画面を指差した。
「ちょっと、びっくりさせないでよ」
耳を塞ぐ仕草をしながら、私は啓太の人差し指が示している部分を目で追った。
――ブルネット・ラティーノ
すかさずクリックしながら、啓太がまたしても私の耳元で呟く。
「『神曲』に登場する人物だな」
「しんきょくって、誰の新曲?」
「ダンテだよ。ダンテの『神曲』」
啓太の言葉に、私も画面に顔を近付ける。
ダンテの『神曲』。十三世紀から十四世紀にかけて活躍したイタリアの詩人ダンテの代表作だ。ダンテがヴェルギリウスに導かれて地獄の門をくぐり、地獄と煉獄、天国をめぐる物語、とある。
「ヴェルギリウス? 地獄の門?」
言葉を覚えばかりの乳児のように、単語だけを反復する私に呆れたのか、啓太が溜め息を吐きながら解説する。
「ヴェルギリウスってのは、叙事詩『アエネーイス』なんかで有名な古代ローマの詩人だよ。政争に敗れてフィレンツェを追放されたダンテは、絶望の中で『神曲』を著した。そのなかに、自身が尊敬して止まないローマ時代の詩人を、案内人として登場させたんだよ。で、地獄の門というのは、最初に地獄を訪れる時、二人が通った門だ」
さすが、学業成績は学年トップクラスの超大型巨人。使えない雑学知識で啓太の右に出る者は、恐らく我が校にはいない。
キョトンとする私を見て、啓太はなお熱く続ける。
「『考える人』で有名な彫刻家のロダンを知ってるだろ。『考える人』と同じぐらい有名なロダンの作品の一つに『地獄の門』がある。上野にある国立西洋美術館の入り口横にあるから、タマもきっと見た経験があるはずだぞ」
国立西洋美術館には、何度か行った記憶がある。音楽や芸術で身を立てようという無謀な野心を抱いた若者なら、誰もが一度は憧れるという東京芸術大学のすぐ近くだ。だが、美術館の入り口にそんな彫刻があったのかは、正直覚えていない。
「ロダンの『地獄の門』は、まさにダンテの『神曲』に着想を得てつくられた作品だ。『考える人』は、実はこの『地獄の門』の一部でもあるんだよ」
知らなかった。明日、誰かに自慢できそうな雑学知識だ。そんな事を考えている間にも、啓太は次々と新しい単語を検索する。
「ブルネット・ラティーノ。十三世紀に実在したフィレンツェの有力者で、皇帝派に敵対する教皇派の一員として活動した。当時、スペインにあったカスティーリャ王国に支援を求める特使として派遣されていた途中、教皇派が敗北したためにフィレンツェに戻れなくなり、フランスに亡命。その後、フィレンツェに戻って皇帝派と教皇派の調停に尽力し、行政長官となった。同時代をフィレンツェで生きたダンテの師だったという説もある。『神曲』の中では、男色の罪を犯した者などが落とされる地獄界の第七圏、第三の環トロメーアにいる点から、男色の罪で地獄に落とされたと考えられる、だってさ」
「男色って、今でいうBLって話だよね」
確か、妹がその手のマンガを持っていた気がするが、借りた経験もなければ、読んだ記憶もない。もちろん、そういう価値観を否定するわけではないのだが、私は今一つ興味を見出せなかった。
そんな記憶を辿りながら、私は啓太の隙を突いて、気になっていたロダンの「地獄の門」を検索した。
画面をクリックすると、四角い石碑のような彫刻が、液晶画面いっぱいに現れた。周囲にはさまざまな人々の姿が、これでもかというくらい細かく彫刻されている。
解説によると、彫刻の人物たちは『神曲』に登場する人々の姿らしい。さらに、上部中央には私も知っている「考える人」が鎮座している。
解説文によると、『神曲』の中では、この門に碑銘が刻まれているという。
「ええと……」
我を過ぐれば憂ひの都あり、
我を過ぐれば永遠の苦患あり、
我を過ぐれば滅亡の民あり
義は尊きわが造り主を動かし、
聖なる威力、比類なき智慧、
第一の愛我を造れり
永遠の物のほか物として我よりさきに
造られしはなし、しかしてわれ永遠に立つ、
汝等こゝに入るもの一切の望みを棄てよ……
私の頭を電流が走った。
「思い出した!」
驚いて、啓太が私の顔を見た。
「破られた曲のタイトル、この言葉だよ!」
――汝等こゝに入るもの一切の望みを棄てよ
恐らく犯人は、龍崎先生を殺害した後、先生の未発表の曲の中から、この一文を探し出した。
そして、その部分だけを破り取った後、ハサミか何かで奇麗に切り揃えてピアノの上に置き、遺書を偽造したに違いない。
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