第3話
十月十一日金曜日
龍崎先生が亡くなってから四日が経った。
事件直後は不快な緊張感に包まれていた学校内も、少しずつではあるが、徐々に日常を取り戻しつつあった。
当初は龍崎先生の死を大々的に報じていたマスコミの報道も、日を追って扱いが小さくなっていった。今はテレビでも新聞でも、龍崎先生の死に関するニュースはほとんど流れなくなっている。
しかし、私の気持ちは、日常に戻るどころではなかった。
先生たちの話や、近くで目撃した生徒たちの断片的な話を繋ぎ合わせると、龍崎先生は自分の教員室にある防音室の中で、首を吊って亡くなっていたという話だった。
死亡推定時刻は、午前七時から午前八時三十分の間。教頭先生が龍崎先生のご遺族に、警察の人の話として説明しているのを耳にした生徒がいたらしい。
私と啓太がこっそり龍崎先生の教員室に忍び込んだ時、先生は防音室の中、外からは死角になっている場所で、既に亡くなっていたかもしれないのだ。
もちろん、啓太のせいでなければ、私のせいでもない。
しかし、あの時もし気付いていれば、防音室の扉を開けていれば、このような悲劇は起こらなかったのではないか。そんな思いが私を酷く苦しめていた。
私は、正直言って龍崎先生があまり好きではなかった。
生徒のいい部分を見つけて伸ばそうとしてくれる佐伯先生と違って、龍崎先生は自分のイメージに生徒を当てはめようとする部分があったからだ。また、性格がかなりキツくて、自分の思い通りにならないと、生徒を怒鳴りつける場合もあったという。
そういえば一年生の時、一度だけ龍崎先生の怒鳴り声を生で聞いた経験がある。
*
私たちの学校は、放課後に生徒が希望する先生のレッスンを受けることができるシステムになっている。もちろん、希望者が多い場合は、抽選になる。
そのため、新入生はゴールデンウィーク前の二週間ほどの間に体験レッスンを受け、申込書に放課後レッスンを受けたい先生の名を記入して提出する事になっていた。
その日の放課後、私は体験レッスンを受けた佐伯先生がレッスン室に忘れたペンを届けるため、誰もいない第三校舎の三階の廊下を歩いていた。
もうすぐ下校の時間だし、大半の生徒や先生はレッスン室がある二階にいるため、教員室がある三階はほぼ無人の状態だった。
と、廊下の奥から、男性の大きな声が聞こえてきた。
無意識に耳を澄ますと、「私に恥をかかせるつもりか!」とか「君は私の言う通りにしていればいいんだ!」といった威圧的な内容が聞き取れた。
龍崎先生の声に違いなかった。恐らく、自分の教員室で、誰かを叱責しているのだろう。
突然の出来事に動揺し、この場を立ち去ったほうがいいのか、教員室に主任の先生を呼びに行ったほうがいいのか迷っている間にも、声は少しずつ大きくなる。最後には、怒鳴り声に変わった。
「○×▽%&は、私のものだ!」
龍崎先生の怒鳴り声が廊下の床と壁、そして天井に反響しながら流れてゆく。なす術もなく立ち竦んでいると、もう一人の人物の声が聞こえた。
「いいえ、彼女は私が責任をもって……」
龍崎先生よりもややボリュームに劣る声。でも、強い決意と覚悟が感じられる声だった。
次の瞬間、ガラスか何かが割れたような、ガシャンという破壊音が廊下に響き渡った。
「ええい、勝手にしろ。だが、このままでは済まさんぞ。覚えておけ!」
私は恐ろしくなり、すぐに階段を降り、三階を後にした。
そんな経験があったから、放課後レッスンの申込書を提出する時、私は希望教員の記入欄に、多くの女子生徒の人気を集める龍崎先生ではなく、佐伯先生の名を記入した。
迷いはなかった。
そして、見事に希望を叶えた。
断っておくが、龍崎先生以外なら誰でもよかったわけではない。私には、敬愛して止まない高畑先輩を指導している佐伯先生以外の選択肢は、端からなかった。
佐伯先生なら、私の我が儘な性格を認めてくれて、いい部分というのがもしあれば、その部分を伸ばしてくれるかもしれない。そんな勝手な思い込みがあったからだ。
*
机に突っ伏しながら、そんな記憶を辿っていると、不意に野太い声が聞こえた。
「どうした。元気出せよ、タマ。もうすぐ、佐伯先生のレッスンだろう」
顔を上げると、啓太がいた。啓太は、前の席の椅子を跨ぐと、後ろ向きにドカリと腰かけた。
私の目線からは、啓太が巨大な石の壁に取り付く超大型巨人にしか見えない。
「先生が亡くなったのは悲しい話だけど、別に俺たちのせいじゃない。あまり気にするなよ。お前らしくないぞ」
私は、むっとして言い返す。
「私だって落ち込む事はあるよ。何か失礼ね。それに、気にするなと言われても……。私がもうちょっと防音室をよく見ていれば、あんな結果にはならなかったかもしれない」
すると啓太が、心配そうに顔を近付けてきた。
「なあ、タマ。お前、俺たちが龍崎先生の教員室に入った時、ガラスの窓越しに防音室の中を見たよな? 俺もちらっとは見たような気がするけど」
「見たよ。それがどうかしたの?」
「ちょっと来い」
啓太は私の制服の腕を掴み、教室の隅に向かってズンズンと歩いていく。教室内に背を向けながら教室の隅に立つと、ポケットからスマートフォンを取り出した。
「何よ」
「ま、これを見てみろよ」
啓太は右手の人差し指でスマートフォンのロックを解除すると、画面を私の顔に近付けた。
画面に写っているのは、龍崎先生の教員室内にある防音室の写真だった。
手前に教員室の床があり、正面に写った半開きの防音室のドアの向こうに、スタインウェイのグランドピアノが見える。
「これって、龍崎先生の教員室の写真でしょ。それがどうかしたの?」
「これ、先生の遺体発見直後の写真なんだよ」
啓太はそう言いながら、画面を右手の人差し指でスワイプした。
次の画面が現れた。今度は、防音室の内部の写真のようだった。
手前にピアノがあり、画面の右隅には……。
「きゃっ!」
私は思わず悲鳴に似た驚きの声を上げながら、両手で口を押さえた。
慌てて左右を見る。大丈夫、誰にも怪しまれてはいないようだった。
右隅に写っているもの、それは、紛れもなく龍崎先生の変わり果てた姿だった。
啓太は、私の狼狽ぶりに驚いたのか、画面をピンチアウトして拡大し、龍崎先生の姿をフレーム外に追い遣った。
「ほら、先生は見えなくなった。それより、ピアノの上を見てみろよ。何か見えるだろ」
私は横見でチラリと画面を睨み、龍崎先生が写っていない事実を確認したうえで、再び画面に目を落とした。
「ピアノの上って……。これ、紙、だよね?」
「ああ、そうだ。なんて書いてあるか、見えるか?」
私は目を凝らす。よく見えないので、画面を今一度ピンチアウトして、紙片をさらに拡大する。
「一切の望みを棄てよ……?」
「そう。いわゆる、遺書ってやつだ」
啓太が、得意げに鼻を膨らませた。
「俺たちが教員室に入った時なんだけど、この紙、あったかどうか覚えてるか?」
あったと言えばあったような気もするし、なかったと言えばなかったような気もする。私は目を閉じて、あの時の記憶を紐解いた。
「なかった……と思う」
啓太が満面の笑みを浮かべながら、頷いた。
「そう、俺の記憶でも、ちらっと見えたピアノの上に、こんな紙はなかったと思う。つまり、あの時、先生はまだ亡くなってなかったんだ。先生が防音室に入って亡くなったのは、俺たちがいなくなった後、午前八時直前から午前八時三十分までの間だったんだよ。だから、お前は一切気に病む必要はない」
啓太の言葉に、私の心は俄かに軽くなった。軽くなると、もっと写真を見てみたくなる。人間の知的好奇心というのは、不思議なものだ。
「ちょっと見せて」と言い終わらないうちに、私は啓太のスマートフォンを奪い取る。画面を拡大したままスクロールし、隅から隅まで観察した。
龍崎先生は足を前に投げ出し、尻を床から十㎝ほど浮かせた状態で息絶えていた。目を見開き、半開きの口からは舌が少しだけ先端を覗かせている。
両腕は力なくダランと垂れ下がり、伸びた指先が紫色に変色している。ズボンには失禁したのだろうか、薄い染みが見えた。
紐はというと、上端は写っていないものの、恐らく室内にあるフックに引っ掛けられていたのだろう。下端は首の後ろの結び目から二股に分かれ、輪となって首に二重に巻かれていた。当然のように、輪の下端は首に深く食い込んでいる。
「この紐の結び目、叶結びだね」
「へえ、よくわかるな」
「まあね」
これでも、小学校の時はガールスカウトで鳴らしたのだ。アウトドア系の知識は、意外に豊富だ。もし今この瞬間、この学校が無人島に漂着したとしても、結構生きていけるに違いないという、根拠のない自信がある。
それはともかく、ここで根本的な疑問が私の心の中で頭をもたげた。
「こんな写真、どこで手に入れたの?」
啓太は左右に目を配りながら、私に顔を一層近づける。
近過ぎる。これ以上近づいたら、蹴っ飛ばす。
私が右足に力を込めた瞬間、啓太はそっと口を開いた。
「E組に山中(やまなか)ってヤツがいるだろ。バイオリンの。あいつ、ちょっと変わっててさ、なんて言うか、グロ系みたいなのが好きなんだよ。第一発見者は、放課後のレッスンを受けに来た三年生の佐井(さい)村(むら)先輩だったんだけど、佐井村先輩が他の先生を呼びに行った時、たまたま現場に駆け付けて、先生たちの目を盗んでスマートフォンで撮ったらしい。で、それを仲間内のSNSのグループ内に上げたってわけだ」
「いくらなんでも、ちょっと趣味が悪すぎない? 今も見れるの?」
「いや。誰かの通報で先生にバレて、削除されたよ。撮影した山中は一週間の自宅謹慎食らって、来週の火曜日まで外出禁止だってさ」
「啓太も、こんなの持ってちゃ、ヤバいじゃん」
「ま、自分で持ってる分には問題ないと思う。何より、タマを安心させようと思って、わざわざ山中から送ってもらったんだぜ」
有り難いような有り難くないような、何とも複雑な気持ちだ。そう思いながら、私はもう一度写真を見直す。
ピアノの足の先端部分に引っ掛かるように、光るガラス片らしきものが見えた。
「これ、何かな。この光ってるもの」
啓太が、再びスマートフォンを覗き込む。
「さあ、プラスチックの欠片かなんかじゃないかな。それがどうした?」
「何でもない、ちょっと何かなって思っただけ。それより、私は遺書が気になるなあ。『一切の望みを棄てよ』なんて、遺書としてはちょっと変わってない?」
「そうかもしれないけど……。まあ、カリスマ性溢れる芸術家先生だから、それぐらいぶっ飛んでるのもありなんだろ、きっと」
「うん、でも……。例えばよ。誰かが先生が首を吊ったように見せ掛けて、遺書を置いたとか」
「それはないな。遺書は、先生の筆跡だったみたいだし。もし他殺だったとして、遺書はどうやって用意するんだよ。それに、朝のわずか三十分の間に、登校してくる生徒や先生の目を盗んで、抵抗する大の男を首吊りさせるなんて、不可能に近い」
「例えば、睡眠薬を使ったとか?」
「そんなもん飲んでたら、警察がすぐに気付くだろ? それにしても、何でそんなに他殺にこだわるんだよ」
ここで、啓太は思い出したように呟いた。
「ああ、お前の場合は、お父さんが……」
途中まで言い掛けると、しまったという顔をして口を押さえた。
啓太が言いたい話の内容はわかっている。私の父の死に関する話だ。
*
私の父は、廃工場の四階から落ちて死んだ。
私が、小学五年生の時のできごとだった。
その日の夕方、父は仕事場を自動車で出たまま、夜中になっても帰ってこなかった。
次の日、職場を無断欠勤し、携帯電話も繋がらない状態になっていたため、母は警察に捜索願を出した。
警察の捜索の結果、父の自動車は町の外れにある廃工場の前で見つかった。ガードレールらしきものに衝突したのか、前の部分が破損していたという。
自動車が発見されてから間もなく、廃工場の建物の裏で、転落死した父の遺体が見つかった。
警察からの連絡で、母と私、そして妹は、すぐに病院に向かった。母が遺体に対面して身元を確認したが、私と妹は会わせてもらえなかった。今にして思うと、それだけ損傷が酷かったのだと思う。
霊安室から漏れ聞こえてきた「あなた!」と叫ぶ母の声。
――人って、こんなにも簡単に死んでしまうものなんだ。
その時に感じた大きな喪失感を、私は今も忘れられない。
その後、父の遺体は警察の手で別の病院に運ばれ、解剖された。遺体が戻ってきたのは、遺体が発見された翌日だったと思う。
解剖の結果や発見時の状況から、事件性はなく、恐らく事故を起こして動揺した父が、発作的に身を投げたのだろうという結論になった。
しかし、当時の父に自殺の理由などはなく、また父が発作的に死を選ぶような人ではない事実は、家族である私たちがもっともよく知っていた。
父が自殺であるという結論に納得しなかった母は、すぐ独自に情報集めをはじめた。
父が自殺ではなく、他殺であるという証拠を集めようとしたのだ。
情報集めといっても、当てがあるわけではない。手づくりのビラをつくって駅で配布したり、市内のあちこちの掲示板に張り出させてもらったりといった具合だ。
とても地道な活動だった。
私と妹も、幼いながら母の横に並んで、駅前でビラ配りを手伝った記憶がある。
父が亡くなった結果、女手一つで二人の子供を育てなければならなくなった母にとって、父の死の真相究明と仕事を両立するのは、想像を超える過酷さだったろうと思う。
同級生の保護者が、ビラ配りを手伝ってくれた時もあった。啓太と彼のご両親は、特に熱心に手伝ってくれた。
いつだったか、横で熱心にビラ配りをしてくれる啓太に尋ねた記憶がある。
「啓太のお父さんとお母さん、何でこんなに一生懸命手伝ってくれるの?」
啓太は一瞬、不思議そうな顔をしたが、すぐにハハハと大きな声で笑った。
「困った時はお互い様だろ。自分たちだけで抱え込む必要はないんだって」
普段の鼻垂れ啓太からは考えられないほど、大人びた言葉だった。私は驚きを隠せずに聞いた。
「誰かが、そう言ってたの?」
「父さんが言ってた」
啓太は、ちょっと恥ずかしそうに視線を逸らしながら白状した。
「やっぱり。そんな話だろうと思った」
私は残念そうな表情をしたが、啓太なりの気遣いが嬉しかった。何気ない一言が、私の心を軽くしてくれた気がした。
肝心の情報集めはというと、最初の数週間は全く手応えがなかった。しかし、二ヶ月、三ヶ月と続けるうちに、少しずつではあるが、断片的な情報が集まるようになった。
父の自動車によく似た乗用車が、他の自動車から、今でいうあおり運転のような迷惑行為を受けているのを見たという情報があった。
また、あおり運転をしていたのと同じ色、同じ車種の自動車が、事件直後にS市の自動車解体業者に持ち込まれていた事実も判明した。
母は支援してくれる人とともに、できる限り多くの証拠を集めて、警察に足繁く通った。
だが、結局はここまでだった。警察が父の死を事件として取り上げてくれることは、決してなかった。
きっと、警察もいろいろと忙しかったのだろう。
そして、事件発生から約半年後、母は犯人捜しを諦めた。
「ごめんね」
母は、私と妹を抱きしめながら、涙を流した。
「仕方ないよ」
私は母の腕の中で、小さく呟いた。
*
そんな特異な経験をしているから、私は人の死に方に人一倍こだわっているのかも知れない。
それは認める。
でも、経験をしているとかしていないとかに関係なく、人の死の原因を曖昧なまま、納得のいかないまま放置してしまうのは、許されない話だと思う。
私は、そんな事を考えながら、ちらりと啓太の顔色を窺った。
ここで一言、軽口でも叩いてくれれば、とても助かる。だが、啓太は気まずそうな表情で口を噤んだままだった。
――本当に気が利かないヤツ。
仕方なく、私から口を開いた。
「そろそろ佐伯先生のレッスンだから、行ってくるね」
十月十二日土曜日
次の日、龍崎先生の自宅の最寄り駅であるT駅近くの斎場で、告別式がおこなわれた。
現地集合ということで、私は式がはじまる一時間ほど前に斎場に到着した。
斎場と聞いて、薄暗い建物と陰鬱な雰囲気を想像していたのだが、まるで美術館のような近代的な建物だったので驚いた。
入り口を入って、ピカソだかゴッホだかの絵が壁一面に飾られていても、きっとごく自然に受け入れてしまうだろう。そう思ってしまうほどに、明るく清潔感溢れる外観だった。
式には、私たちピアノ専攻の生徒全員が出席する予定になっていた。
ピアノ専攻の生徒は、音楽科の生徒の中ではもっとも人数が多く、全学年を合わせると八十人ほどになるだろうか。すでに、大勢の生徒たちが会場に到着し、先生の指示で学年ごとに集まっていた。
私が到着したのとほぼ時を同じくして、先生たちと学年を代表する生徒が、生徒たちの顔と名前を確認しはじめた。
生徒の集合状況を確認した生徒は、全員が揃った事実を確認すると、私たちの列を離れる。そのまま、先生たちと一緒に受付に歩み寄ると、机を挟んで立っている女性に白い封筒を手渡した。恐らく、香典なのだろう。その後、机の上に置かれた芳名帳らしき書類に記帳した彼女は、同じく記帳を終えた先生たちとともに戻ってきた。
香典は先日、教室で集められた。誰が決めたのか知らないが、一人につき二千円以上という決まりに則って徴収された。私は悩んだ挙句、最低金額の二千円を支払った。
生徒代表が記帳を終えて間もなく、私はその他大勢の生徒たちと一緒に、係員の指示に従って会場に入った。
入り口には、親族や知人と思しき人々が整列し、頭を下げていた。
中に入った私は、無意識に周囲を見渡す。
体育館ほどではないが、想像以上に広いホールだった。天井も比較的高く、床から壁、天井までが清潔感のある薄いクリーム色に統一されている。
ある意味、お洒落とも言えるほどに小奇麗な外観に違わず、内部も美しい。まるで、結婚式場ではないかと思ってしまったのは、私が無知なだけではないだろう。
自分たちの席まで静かに進みながら前を見ると、赤や黄色の花々で妙に派手に飾られた祭壇の真ん中に、巨大な龍崎先生の遺影が鎮座していた。
遺影の前には祭壇があり、祭壇の奥にはやはり花に囲まれた、長さ二mほどの白木の箱が置かれている。
――あの中に、龍崎先生の遺体があるのかな。
私は、先日、啓太から見せて貰った写真の中の龍崎先生を思い出しながら、席に着いた。
着席しながら前方の席に目を移すと、一部の人々はすでに整列し、着席していた。隣の席に座っていた女子生徒たちが、「あの人たち、音楽業界の関係者らしいわよ」と囁いているのが聞こえた。
音楽業界の人と聞き、ビジュアル系ロックバンドのボーカルがそのまま年齢を重ねたような派手な人たちを勝手にイメージしたが、こうして告別式で間近に見る限りでは、平日に街中を歩いている普通のサラリーマンと、大して変わりない気がした。
私のイメージが、貧困に過ぎたのかもしれない。
やがて、式場の後方から地位の高そうな僧侶が厳かに入場すると、黒いスーツに身を包んだ葬儀社の担当者らしき人物が、マイクの前で開式を告げる。
会場に、読経の声が木霊した。
読経の途中で、関係者が一人一人マイクの前に立ち、弔辞を読む。
我が校からは、龍崎先生のレッスンを受けていた三年生の中(なか)村(むら)絵(え)里奈(りな)先輩が選ばれ、生徒代表として弔辞を読んだ。
弔辞が終わると、読経が続くなか、最前列の参列者の一人に、葬儀社の担当者が静かに声を掛ける。声を掛けられた人が席を立つと、それを合図に最前列の他の人々も順番に立ち上がり、先頭の人に続いて祭壇に歩み寄った。
焼香のはじまりだ。
焼香台は、全部で四つか五つほど用意されていた。祭壇に歩み寄った人々は、順番に香炉にお香を落とし、数珠を持った手でお祈りをしては、自分の席に戻っていく。
しばらくすると、私たちの列の番になった。私は、緊張しながら隣の女子生徒に続いて焼香台に歩み寄る。見よう見まねで何とか無事に焼香を追えると、そそくさと席に戻った。
参列者の焼香が終わると、ほどなくして読経も終わった。
僧侶の退場と入れ替わりに、龍崎先生のお母さんなのだろうか、親族らしき女性がマイクの前に立ち、挨拶を読み上げた。
その後、先生の棺に花を手向ける花入れ、葬儀社の担当者による閉会の言葉と、式は厳かに進行する。
泣いている女子生徒も多かったが、私は泣く気にはなれなかった。むしろ、式の盛大さに素直に驚き、今更ながら龍崎先生の影響力の大きさに圧倒されていた。
規模の大きさといえば、取材に訪れているマスコミの多さにも驚かされた。腕章を腕に巻いたマスコミ関係者が、落ち着きなく歩き回っている。
腕章に書かれている社名は、誰もが知っているほど有名な、全国区の新聞社や放送局、出版社ばかりだ。彼らの傍らには、常にカメラマンが立ち、悲しみに暮れる私たちの表情を逃すまいとレンズを向けている。
さすがはカリスマ作曲家。明日のスポーツ新聞には、この告別式の様子が、それなりの大きさで掲載されるのだろう。
私はそんな内容を想像しながら、いつ撮影されても問題がないように、悲しそうな表情を精一杯意識する。
やがて、出棺の時が来た。
私たちは斎場の玄関前に整列し、棺を載せた霊柩車がクラクションを鳴らしながら出発する様子を見送った。
生徒の列に混じって霊柩車を見送っていると、傍らに立っている啓太がそっと耳打ちしてきた。
「昨日は、悪かったな」
今日、啓太と会話をするのは、初めてだった。私は、やや不機嫌な声で答えた。
「いいよ。別に気にしてないから」
気にしていないというのは本当だ。しかし、その言葉で啓太が反省の気持ちをすっかり忘れてしまうのは、何となく癪だ。
イヌは三日で恩を忘れるというが、啓太も同じようなものだから、放っておくと忘れてしまいかねない。だから、言葉の抑揚に敢えて棘を混ぜた。
「やっぱり怒ってるじゃん。機嫌直せよ」
啓太が困ったような声を出す。この声、正直いって嫌いではない。私は、ちょっと嬉しくなった。
「だから、怒ってるわけじゃないってば」
私の言葉から棘が消えたと感じたのだろうか。やや元気を取り戻した啓太は、口を半開きにしながら、腹話術師のようにひそひそ話を続ける。
「お前、龍崎先生の死因を、まだ殺人だとか疑ってるんじゃないだろうな。何か気になる点でもあるのか」
「うん。遺書の文面がどうしても……」
啓太が、呆れたように視線をちらりとこちらに向けた。
「それだけかよ。今でも殺人にこだわってるからには、何か気になる点が新しく見つかったのかと思ったよ」
啓太は何か言いたそうだったが、そのまま黙り込んだ。何を言っても無駄だと思ったのだろうか。
私は意を決して、ある計画を打ち明けた。
「近いうちに、龍崎先生のご自宅に伺おうと思うんだけど」
「マジか?」
啓太が再びこちらを向き、目を剥いた。
「あと、龍崎先生が契約してるレコード会社にも行ってみるつもり」
「おい、一体何をする気だよ」
「別に大したことじゃないよ。ちょっと話を聞いてみるだけ。先生に自殺する動機があったのかとか。あと、その……、誰かに恨まれてはいなかったか、とか」
「お前は本当に間抜けだな。そんなストレートな聞き方をしたら、相手が気分を害するに決まってるだろ。下手したら怒鳴られて、そのまま追い出されるぞ」
「だから、啓太に一緒に来て欲しいんだよ」
啓太は、呆れた様子で宙を見上げた。
「お前は昔から、一度走り出したら止まらないヤツだからなあ。仕方ない、付き合うよ」
「仕方ないって何よ。どうせ、放課後にレッスンがない時は、家でゲームでもしながらゴロゴロしてるんでしょ」
そう言いながらも、なんだかんだ言って付き合ってくれる啓太に対して、私は環ポイントを十ポイント追加しておこうと思った。ただし、有効期間三ヶ月の期間限定ポイントだ。
三ヶ月以内に百ポイント貯めると……。
まだ決めていないが、三ヶ月後までには考えておこうと思う。
*
その日の夕方、私は昼間の行事の疲れを引き摺りながら、居間のソファに寝転んでスマートフォンを弄っていた。私の横では、中学三年生の妹が床に座り込んで、テレビを見ている。
突然、妹がやや興奮した様子でテレビの画面を指差した。
「お姉ちゃん、これ!」
「何、テレビがどうしたの?」
「お姉ちゃんの学校の先生の、お葬式の様子が映ってる!」
私は重たい頭をゆっくりと持ち上げ、テレビ画面を見る。
夕方のニュースだった。「作曲家龍崎氏、最後のお別れ」というテロップとともに、龍崎先生の告別式の様子が流れている。先生の代表曲の数々をバックに、私たち生徒が出棺を見送っている場面が放映されていた。
私たちの姿を背景に、レポーターが沈痛な面持ちでレポートを続ける。昼間、至近距離で度々見掛けた女性レポーターだ。
「お姉ちゃん、映ってるかな?」
「嬉しそうに言うんじゃないの。そういうのを不謹慎っていうんだよ」
本当は、お別れもそこそこに、龍崎先生の家族や音楽関係者への電撃訪問を計画していた私と啓太も、かなり不謹慎といえるだろう。だが、それはこの際、心の棚に上げておく。
出棺の場面が終わると、龍崎先生の今までの作品を紹介するミニコーナーがはじまった。
二年前に東日本アカデミー賞を受賞した青春ラブストーリーのテーマ曲、去年の興行成績上位に食い込んだアニメ映画のイメージソング、今年の春に公開されたライトノベル原作のSF学園ラブコメディの挿入歌……。
どの曲も、誰もが知っているほど有名な曲ばかりだった。
しばらくボーッと画面を眺めていると、ニュースが終わり、龍崎先生を追悼する特別番組がはじまった。
難病の子供たちを救うチャリティーコンサートのために、新曲を書き下ろす先生に密着するという内容の、半年ほど前に放送されたドキュメンタリーの再放送だ。
番組は、龍崎先生の日常生活からはじまる。
朝起きて軽い朝食を摂り、学校に行く。教員室でコーヒーを飲み、レコード会社の関係者と打ち合わせをした後、自分のピアノに向かう。
私は龍崎先生の日常生活などあまり詳しく知らないが、恐らくこれが先生にとっての日常なのだろう。
その後、先生の輝かしい経歴が紹介され、次のカットでは薄暗い部屋でピアノを前に苦悩する先生が映し出される。
ピアノの鍵盤を叩いては、何かに憑り付かれたかのような激しい表情で、楽譜に音符を殴り書きしていく龍崎先生。
吊り上がった目と、こめかみを流れ落ちる汗が大写しになる。
と、先生は突然ペンを放り投げ、怒りに満ちた形相で楽譜をビリビリと破り捨てはじめた。
全てを破り終えると、今度は拳の底で、譜面台の横をどんと激しく叩く。
慌てた様子のスタッフが「大丈夫ですか?」とカメラ越しに声を掛ける。
声に振り向いた先生は、苦悶の表情を浮かべながら、スタッフに対して絞り出すような声で呟いた。
「難病に侵されている子供たちの苦しみに比べたら、私の苦しみなど、取るに足らないものだ」
なんだか、一挙手一投足が、妙に芝居がかって見える。
そんな感想を漠然と考えながらテレビの画面を眺めていると、握り締めていたスマートフォンが鳴った。
啓太からのSNS電話だった。私はそっと居間を出て、廊下の奥で電話に出た。
「タマか。今、テレビで龍崎先生の特集、やってるぞ」
「うん、知ってる。丁度見てた」
啓太は私の答に「そっか」と、ちょっと残念そうに呟いた。電話口の向こうで悔しそうにしている啓太の顔が、目に浮かぶ。
「それはそうと、龍崎先生が契約しているレコード会社、調べてみたよ。そしたら、龍崎先生の自宅の最寄駅のT駅から、途中で一回乗り換えて三十分ほどらしい。先生の自宅に行った後、レコード会社に行くって感じで、何とかなるんじゃないかな」
わざわざ調べてくれたらしい。本当に役に立つ幼馴染だ。痒い所に手が届く有り難さは、温泉土産の孫の手レベルと言っていいだろう。
「そこまでしてくれるなんて、本当に有り難うね。でさ……」
私は、啓太の更なる忠誠心を試すべく、新たな提案をする。
「せっかくだから、アポ取ってみてよ。今度の火曜日の放課後とか。啓太の事だから、連絡先ももうわかってるんでしょ」
自分なりに、ちょっと可愛い声を出してみたつもりだ。
「おい、ちょっと待て。何で俺がそこまで……」
不満そうな声を上げる啓太。でも、この声は「あともう一押し」の合図でもある。私にはわかる。
「私には、啓太しか頼れる人がいないの。お願い。そうだ、もしアポ取ってくれたら、お礼に今度、三風堂のラーメンを奢ってあげる。どう?」
スマートフォンの向こうで、「う~ん」と唸っている啓太の声が聞こえた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます