第2話

 私と啓太は、第一校舎を素通りして渡り廊下を進む。そのまま、音楽科の教員室がある第三校舎の建物内に入ると、階段を上がった。

「それにしても、お前の遅刻癖は筋金入りだな」

 啓太が、呆れたような表情で話し掛けてきた。

「今日は、本当にたまたまよ。そんな事を言ってるけど、啓太こそ、何時頃に来たのよ」

「俺か。俺は、七時には着いてたぞ」

 啓太が無意味に胸を張った。しかし、いくらなんでも早過ぎる。どれだけせっかちなんだろう。自慢にもならない。

「よっぽど暇なのね。そんなに早く着いて、何をしてたのよ」

「学校に着く直前、坂のところで佐伯先生と会ってさ。ついでだからって、先生と一緒に駐車場にマイクロバスを取りに行って……。あとは玄関先に止めたマイクロバスの前で、先生と一緒に生徒の出席確認をしてた。そしたら、最後の一人、お前が来たってわけだ」

「ずっと先生と一緒だったの? よっぽど先生が好きなのね」

「タマだって、佐伯先生が好きなんだろ?」

 啓太は、人の弱みを握ったパワハラ上司のような意地の悪い笑顔で、私の顔を覗き込む。

「変な言い方しないでよ。私の先生に対する『好き』は、八割が尊敬で、残りの二割はライクなの! だいたい、大会当日だっていうのに、アンタって緊張感なさ過ぎ!」

「遅刻したお前に言われたくないよ」

 私の慌て方が、よっぽど可笑しかったのだろうか。啓太は目を細め、「フフン」と鼻で笑った。

 音楽科の教員室は、三階の一番奥にある。

 階段を上がっている途中、踊り場のガラス越しに校庭が見えた。早朝練習に勤しむ野球部員たちが、一生懸命に走り回っている姿が遠目に見える。

「朝早くから、ご苦労様」と心の中で呟いている間に、三階に着いた。

 啓太に続いて廊下を左側に進み、突き当りの左側にある教員室に入る。

 教員室には、誰もいなかった。先生たちは午前七時四十五分には学校に来ているはずだし、鍵が開いているということは、全員がたまたま出払っているのだろう。

 右奥には、部屋の一辺を埋めるほどに大きなガラス扉の棚があり、中には楽譜や音楽関係の書籍がずらりと並んでいた。いつもながら、この部屋に足を踏み入れると、棚に並ぶ本一冊一冊の重厚感と、量の膨大さに圧倒されそうになる。

 音楽の道とは、かくも奥深きものなのだ、きっと。

 本の迫力に怯みそうになりながら、ガラス扉の棚の手前に視線を移すと、机が六つ、向かい合うように並んでいる。

 一番手前、特に奇麗に整頓されている机が、佐伯先生の机だ。他の五つの机は、程度の差こそあるものの、佐伯先生の机に比べると、雑然とした印象は否めない。

 私は、啓太と一緒に佐伯先生の机に歩み寄ると、ラックに並べられている本や書類の間に、プログラムを探した。しかし、どこを探してもプログラムは見つからなかった。

 念のため、他の先生の机の上やラックの中を一つ一つ探してみたが、やはりプログラムは見当たらなかった。

「龍(りゅう)崎(ざき)先生の部屋かなあ」

 私が呟きながら教員室を後にすると、「おい、やめとけよ。怒られるぞ」と慌てた様子で啓太が追ってきた。

 龍崎先生は、佐伯先生たちと同じ音楽科の先生だが、他の先生たちとは少々立場が違う。

 映画音楽界で、ちょっとばかり知られた新進気鋭の作曲家で、名声と実績を学内でも認められていることから、教員室は個室となっている。少々意地悪な言い方をすると、学校のいわゆる広告塔的な存在で、破格の待遇というわけだ。

 人混みが好きではないとかいう漠然とした理由で、生徒のコンクールにもほとんど顔を出さない。レッスンも週に数回、とくに成績優秀な一部の生徒に対しておこなうだけで、あとは教員室にいるのかいないのかもよくわからない。

 この学校に来て五~六年ほど経つらしいのだが、私たち多くの生徒にとっては、ある意味、謎の多い先生なのだ。

 ただ、四十代という歳の割には若く見えて、そこそこイケメンである点、マスコミに度々取り上げられている点などから、一部の女子生徒からは非常に人気があった。

 当然のように、龍崎先生のお眼鏡に適うだけの実力を身に付けてレッスンを受ける事は、ピアノ専攻の多くの女子生徒たちの夢となっていた。

 私は、廊下を挟んで教員室の向かいにある、龍崎先生の教員室の扉の前に立つ。左右を確認しながら、ドアノブにそっと手を掛けた。

「どうせ、鍵が掛かってるだろ。あの先生、教員室を出る時はもちろん、いる時にだって鍵をかけるぐらいじゃん。龍崎先生の秘密主義は、なかなか有名だぞ」

「まあね。でも、プログラムなしで戻るわけにはいかないし」

 駄目で元々と思いながら、私はドアノブをゆっくりと回し、手前に引いた。

 予想に反して、ドアは何の抵抗もなく開いた。

 驚いて顔を見合わせながらも、私たちは頷き合って部屋に入った。

 部屋には、龍﨑先生がいつも使っている机と小さな応接セットがあり、左側の奥には先生専用の防音室が設えられている。

 防音室の扉に取り付けられている小さなガラスの窓越しに、黒く大きなグランドピアノが見えた。世界に名だたる名器スタインウェイアンドサンズ、通称スタインウェイだ。

 恐らく、二千万円はくだらないのではないか。生徒たちの間では、そう噂されている。

 もちろん、学校のお金で購入した「学校の備品」扱いだ。しかし、龍崎先生は、他の人に決して触らせようとはしない。

 頭の中で札束を数えながら、振り向く。

 今一度、部屋の中を観察すると、佐伯先生の机に負けず劣らず、部屋全体が奇麗に整理整頓されている。机の上には、音楽関係の資料と手書きの譜面が、きちんと揃えられた状態で山積みになっていた。

 啓太が恐る恐る机に近付いてプログラムを探す横で、私は興味に身を任せて譜面を手に取ると、そのまま捲った。

 どうやら、未発表の新作の譜面らしい。

「おい、タマ、やめとけよ」

 小心者の啓太の声がどこか遠くから聞こえる気がするが、私の知的好奇心は、そのような腰砕けの忠告にはびくともしない。構わず、捲り続ける。

 上から十枚目ぐらいだろうか、二曲目の一枚目まで辿り着いた時、先ほどよりもちょっとイラついた様子の啓太の声が、すぐ後ろに聞こえた。

「おい、プログラムがあったぞ。もうすぐ七時五十五分だ。みんなが待ってるから急ごう」

 その声に、さすがの私も譜面を置く。

「プログラムは、きっと龍崎先生が内容チェックか何かのために、自分の部屋に持ってこさせたんだろうな」

 ミッション終了。

 私は、プログラムを抱えた啓太と一緒に、そっと部屋を後にした。


         *


 私と啓太が、無事に使命を終えてバスに戻ったのは、出発予定の午前八時直前だった。

 先ほどまでバスの周囲にたむろしていた生徒たちは、すでにバスに乗り込んでいた。

 私と啓太が「遅くなってすみません」と恐縮しながらバスに乗り込むと、一番後ろの席に座っていた高畑先輩が、不思議そうな表情で言った。

「あら、あなた方、佐伯先生にお会いしませんでした? あなた方が遅いからって、数分前に探しに行かれたわよ」

 私と啓太は、思わず顔を見合わせた。

「いえ、会いませんでしたけど」

 ひょっとしたら、龍崎先生の教員室にいる間にすれ違ったのかもしれない。しかし、龍崎先生の部屋を物色していたと告白するのは、何となくはばかられた。

 私は啓太に目配せすると、「プログラムは、ありましたよ」と、啓太が抱えた束を指差した。ほぼ同時に、声がした。

「あ、先生、来ました!」

 私たちは、声が聞こえた方向に顔を向けた。

 前から二番目の席に座っている一人の生徒が、窓の外を指差している。一年E組の佐(さ)倉(くら)希(のぞ)美(み)だった。

 身長は一五〇㎝台前半。短めの癖っ毛に真ん丸いクリクリお目目の愛らしいルックスは、まるで西洋人形のようにキュートだ。加えて、見た目を裏切らない天然ぶりが、なお可愛い。

 が、そんな外見に騙されてはいけない。希美はいわゆる、ピアノを前にすると性格が豹変するタイプだからだ。

 一旦演奏が始まると、こんなパワーがどこに隠れていたのかと思わせる力強さと情感豊かな演奏で、聴衆をギャップ萌えの深淵へと突き落とす。

 ポスト高畑の呼び声も高い、我が校期待の新人だ。

 そんな希美が指差す窓の外に視線を移すと、校舎を出てこちらに向かってくる佐伯先生の姿が見えた。

「君たち、戻っていたのか。どうやらすれ違いだったようだね」

 佐伯先生は、微笑みながらバスに乗り込むと、助手席の上に置かれた出席表を取り上げ、「鷺沢環」と「鷹水啓太」のチェック欄に印を記入した。

「じゃ、出発だ」

 先生の声を合図に、バスは滑るように走り出す。

 時刻は午前八時ジャスト。

 行き先は、もちろんコンクール会場。

 そしてその先にある、私たちの輝ける未来だ。


         *


 私たちが輝かしい未来へと勇ましく出発した約七時間後、つまりコンクールからの帰り道。バスの中は、会場に向かった時とは打って変わって、重苦しい雰囲気に包まれていた。

 理由は、推して知るべし。

 戦前の予想は見事までに覆され、我が校の結果がすこぶる不本意なものに終わったからに他ならない。

 三年生で地区大会の出場権を得たのは、高畑先輩ただ一人。我々二年生は全敗。一年生は希美だけが勝ち進んだ。

 なかでも私の演奏は、啓太の表現を借りると、近年稀に見るほど惨憺を極めたできだったそうだ。

 心当たりはある。跳躍で、何度も躓いた。

 跳躍とはその名の通り、低音から高音、高音から低音へと、手を跳躍するように忙しく移動させながら弾く演奏法だ。人によって、やや向き不向きはあるものの、本来、私は跳躍が得意であるという自負があった。

 だが、序盤の右手の跳躍で、思わぬミスをした。一度演奏のリズムを崩してしまうと、短時間で立て直すことは非常に困難だ。

 鍵盤が、いつになく重く感じた。滑るような感覚もあった。

 ――鍵盤って、こんなに滑ったっけ?

 心の迷いがミスを呼び、ミスがまた心の迷いを呼ぶ。悪循環だ。

 結局、私は序盤のミスを最後まで挽回できないまま、演奏を終えた。

 ――自信があったはずなのに。

 同じミスを、何度も繰り返した自分が情けなかった。もしここに布団があったら、今すぐに潜り込んで、お気に入りの抱き枕を涙で濡らしたい気分だ。

 ちなみに、お気に入りの抱き枕とは、青いオーバーオールを纏った黄色い一つ目小僧だ。

 思えば、目覚まし時計をセットし忘れていた時点で、私は運の神様から見放されていたのかもしれない。

「長くやっていれば、こういう事もある。大切なのは、失敗から何かを学ぶ姿勢だ」

 ことさら明るさを装った佐伯先生の声が、せめてもの救いだった。

 踏切を越え、人通りの多い繁華街を通り抜けたバスは、国道を右折する。しばらく進むと、高台にふんぞり返って上から目線で私を見下ろす、我が校の校舎が見えた。

 徐行運転で正門を通過すると、バスは校舎の表玄関前にゆっくりと止まった。

「さ、着いたぞ。お疲れ様」という佐伯先生の声に、生徒たちは足取り重くバスを降り、校舎に向かって歩きはじめる。私も続いた。

 玄関横には、我が校の創設者らしい、背広姿のお爺さんの銅像が立っている。緑色に変色した姿で私を見下ろすお爺さんは、私の成績に落胆しているようにも、不甲斐なさを叱責しているようにも見えた。

 時間は、すでに午後三時を回っていた。

 上履きに履き替え、校舎の中に足を踏み入れる。

 部活がない生徒は家路につく時間だが、何故だか下校する生徒の姿が見当たらない。

 おまけに、校内が妙に騒々しかった。

 多くの先生や生徒が、渡り廊下を第三校舎に向かって走っていく。

「何だろう」

 遅まきながら、只ならぬ雰囲気に気付いた啓太が、不思議そうに呟く。

 私たちも生徒たちの流れに合わせ、取り敢えず第三校舎に向かった。

「自殺らしいぞ!」

 私たちを追い抜きざま、一人の男子生徒が隣の男子生徒に向かって話し掛けているのが聞こえた。

「じさつ?」

 私と啓太は、単語の意味を上手く汲み取ることができず、同時に呟いた。

 胸騒ぎがした。

 私たちは足を速めながら校舎の三階まで駆け上がる。音楽科の教員室付近に、生徒と先生の人だかりが見えた。

 人ごみの後ろに取り付き、背伸びをしてみた。が、人数があまりに多いせいで、教員室の様子はまるで見えない。

 人ごみの中から、囁き声が聞こえた。

「龍崎先生が、教員室で首を吊ったらしい」

 ほぼ同時に、奥のほうから男性の大きな声が耳に飛び込んできた。

「近付かないで、教室に戻りなさい!」

 聞き覚えのある声だった。恐らく、教頭先生だろう。緊張感を伴った、叫び声にも似た声だった。


         *


 最初に駆け付けた警察官が、現場周辺に手早く黄色いテープを張った。当たり前ではあるが、実に手慣れた手付きだ。

 テープには黒い文字で「KEEP OUT」「立ち入り禁止」と書かれていた。

 その後、救急車や何台ものパトカーがサイレンを鳴らしながら次々と駆け付けた。

 学校内は、先ほどにも増して騒然とした雰囲気になった。

 先生の誘導で第三校舎から追い出された私たちは、第一校舎の二階にある教室前の廊下から、校舎の表玄関付近を見下ろした。周囲では多くの生徒たちが、非日常を肌で感じながら、私以上に興味深げに警察車両や救急車を眺めている。

 龍崎先生らしき人物を乗せたストレッチャーが、ブルーシートを持った人々に囲まれながら、救急車に吸い込まれていく。先生の姿は、ブルーシートに隠れて見えなかった。

 先生を収納し終えて後部のドアを閉めた救急車は、再びサイレンを鳴らしながら、慌ただしく正門を出て行った。

 救急車が出て行ってしばらくすると、校内放送が流れた。

「只今から、臨時の全校集会をおこないます。全校生徒は、すぐに体育館に集合してください」

 放送が終わるか終わらないかのうちに、体育の先生が教室にやって来た。

「全員、今すぐ体育館に行くように」

 校内の要所要所に立つ先生たちに誘導されるまま、私と啓太は他の生徒とともに体育館に入った。

 クラスや学年に関係なく、入った順に床に座るよう指示された。私たちは、先生に指示されるまま、体育館の床の上に腰を下ろした。

 改めて、周囲を見回す。同じバスで帰ってきたピアノ専攻の生徒たちの姿も、ちらほらと見受けられた。

 一部の生徒は、すでに家路についてしまったようだった。学校内に残っている生徒のほぼ全員が体育館に入ったことが確認されると、教頭先生が登壇し、緊張した面持ちでマイクのスイッチを入れた。

「えー、先ほど病院から連絡がありましたが、龍崎先生がお亡くなりになられました。まだ詳しい内容はわかっていませんが、事件ではなく、恐らく自殺されたのではないかと思います」

 生徒たちが、一斉にざわめいた。

 教頭先生も、思い掛けないできごとに動揺しているのだろう。白いハンカチでしきりに顔の汗を拭きながら、やや早口で説明を続ける。

 話の内容は、マスコミの取材で何か聞かれても迂闊に話をしない事、できるだけ友達と一緒に帰る事、改めて保護者向けに説明会を開く予定である事、説明会の予定は学校のホームページに上げるので、注意しておく事などだった。

 話の間中、体育館の中には今まで感じた経験がないほど重々しい、得体の知れない空気が立ち込めていた。

 それはそうだ。先生が、校内で亡くなったのだ。それも、首吊り自殺という凄惨な方法で……。

 なかには、すすり泣いている女子生徒もいた。友人らしい女子生徒が、泣いている女子生徒の背中を心配にさすっている。

 その後、私たちは帰宅を促された。もちろん、部活動も中止になった。

 学校の外にマスコミが大挙して集まっているのではないかとちょっとドキドキしていたが、その心配は杞憂に終わった。

 事件が起こってまだ時間がたっていないせいか、校門付近にはマスコミらしき人物の姿は見られなかった。

 ただ、俯き加減の生徒たちの行列が、坂の下の国道まで続いているだけだった。

 私は、ほっとしながらも、肩透かしを食らったような喪失感とともに、学校を後にし、自転車で坂を下った。

 あとで聞いた話では、現場となった第三校舎では、夜遅くまで警察による現場検証が続いていたようだった。

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