放課後の幻想曲

児島らせつ

第1話

十月二十六日土曜日


 ピンと張り詰めた空気が、会場を支配している。

 壇上の高畑(たかはた)瑞(みず)奈(な)先輩は、聴衆に向かって軽く頭を下げると、ゆっくりと席に着いた。

 落ち着いた様子で椅子の位置を調節した後、ペダルを確認し、鍵盤に視線を移す。

 私は観客席の最後尾で、ただ息を飲んで高畑先輩を見詰めるしかない。

 静寂の中、高畑先輩は左手を静かに鍵盤の上に置く。そのまま、宙を見つめるような姿勢で、一旦静止した。

 全世界の時が止まる。

 次の瞬間。

 突然、命を吹き込まれた魚が水面を高く跳ね上がるかのように、左手が力強く鍵盤を叩きはじめる。


         *


 曲名は、リスト作曲「巡礼の年 第二年『イタリア』『ダンテを読んで-ソナタ風幻想曲』」。

 十九世紀のヨーロッパで名声を欲しいままにし、後にロマン派の巨匠と称されたハンガリー人作曲家フランツ・リストが、一八四九年に完成させたといわれるピアノ曲だ。技巧派作曲家として知られるリストの曲の中でも、飛び抜けて難易度が高い曲の一つと言われている。

 一人の高校生が、ピアノコンクールの地区大会で演奏する自由曲としては、十分過ぎるほどの難易度と言えるだろう。

 この曲のモチーフとなっているのは、十三~十四世紀に活躍した中世イタリアの詩人ダンテ・アリギエリが、十四世紀初頭に著したとされる叙事詩『神曲』だ。

 この叙事詩のなかで、主人公でもあるダンテは、自らが全ての熱情を懸けて尊敬する古代ローマの詩人ヴェルギリウスの案内を得て、地獄から煉獄、そして天国へと旅をする。

 ヴェルギリウスにいざなわれて地獄の門をくぐる冒頭部分から、神の世界に到達するエンディングまで貫かれているテーマは、「愛」と「人間性の復興」と言ってもいい。

 神によってもたらされるであろう、理想の世界を追い求めたダンテ。そんな彼の心の叫びが凝縮されたこの名作は、彼が生きたイタリア・ルネサンスの時代はもとより、後世のさまざまな芸術にも多大なる影響を与えたと言われている。


         *


 曲の冒頭部分。

 まず、半音を含まない増四度音程の下行が繰り返される。

 西洋音楽で古くから、悪魔を象徴する音とされている旋律だ。

 この曲の演奏が成功するかいなかは、この冒頭部分でいかに聴衆の心を惹き付けられるかに掛かっているといっても過言ではない。

 ――高畑先輩は、大丈夫だろうか……?

 私の脳裏を、ふと不吉な予感がよぎる。

 だが、そのような心配が杞憂である事実を、私はすぐに思い知らされた。

 高畑先輩のしなやかな指が、静かに鍵盤に触れる。

 瞬間、張り詰めたピアノ線から、音の結晶が一斉に弾け飛び、キラキラと輝きながら空中で昇華した。

 高畑先輩は軽く目を閉じ、心を研ぎ澄まして、音の結晶を体全体で感じ取る。

 躍動しながら、ピアノという無機質な躯体に、生命を吹き込んでいく十本の指。そして、弾ける感性。

 音の宝石に包まれた高畑先輩は、力強くも柔らかな指使いで、神々しいまでの音を紡ぎ出していく。まるで、音楽の神ミューズが憑依したかのように……。

 今の高畑先輩は紛れもなく、私が敬愛して止まない、いつもの先輩だった。

 情感溢れる表現力と卓越した技術で、地獄を表すおどろおどろしい旋律を、完璧なまでに再現する高畑先輩。

 いや、その演奏は、決して楽譜の再現ではない。

 曲を完璧なまでに理解し、解釈し、消化して吸収し、自分の体の一部として表現しているのだ。

 高畑先輩の意識は、もはやプレッシャーなどという常人の感情とは無縁の、遥か遠い地平に存在している。

 そして聴衆は、ピアノから紡ぎ出される音色の美しさと迫力、存在感に、自分でも気が付かないうちに、少しずつ地獄へといざなわれていく……。

 演奏開始から、約二分十秒。

 三十五小節目からは、一転して嵐のように激しい音のうねりがはじまる。

 私は目を瞑り、全ての音に神経を集中させる。

 この時、楽譜に引き摺られてペダルを踏み過ぎると、音に濁りが生まれて逆効果となる。旋律の流れを損なわない程度に適度なペダリングをおこなうには、高い技術と感覚の鋭敏さが必要とされる。

 しかし、高畑先輩のペダリングには、一点の迷いも、狂いもない。

 これ以上は有り得ないというほどの、完璧なペダリング。

 時には大きく、時には小さく。

 高畑先輩は、渦を巻きながら吹きすさぶ嵐の恐怖を、これでもかと聴衆の心に刻み付ける。

 荒涼とした大地を吹き抜ける風と、それに翻弄されるように舞い散る木の葉。

 人々は今、荒れ狂う嵐の中で、油断をすれば吹き飛ばされそうになる自らの体を、必死の思いで支え続けるしかない。

 そして、演奏開始から三分弱。

 ここで突然、音符が増える。

 が、そのプレッシャーに負けて、テンポを落としてはいけない。ともすればテンポを落としたくなる誘惑に耐え、今までと同じテンポを維持しなければ、曲のゴールを見失いかねないからだ。

 高畑先輩はいつも通り、精密機械のように正確無比な運指で鍵盤を叩き続ける。

 この場合、精密機械のようにという比喩は、必ずしも正しいとは言えないかもしれない。

 高畑先輩の演奏は、ただ正確なだけではない。心臓の鼓動のように、正確なリズムの奥に力強い魂の揺らぎを織り込みながら、一つ一つの音符を丹念に紡いでいく。そんな表現が、むしろ的を射ていると言えるだろう。

 乾き切った風が巻き上げる、黄土色の砂埃。強風になす術もなく、ただ悪戯に枝を揺すり続けるだけの痩せ細った木々……。

 その時、聴衆の心の中にあるのは、絶望に似た恐怖に違いなかった。

 二十五小節後には、再び音符が増える。

 ここも難関だ。だが、高畑先輩は全く苦にする様子はない。

 むしろ、一つ一つの音符に込められた激しい感情を、意のままに干渉させ、増幅させて、さらに大きなうねりを作り出しているようにさえ思える。

 聴衆の心の中に巻き起こった地獄の嵐は、決して止むことなく、激しさを増しながら、人々の心を容赦なく痛め付ける。

 ここまで、演奏開始から六分弱。

 やがて、嵐は引き潮のように静かに終わりを告げる。

 多くの奏者は、ここで安堵し、油断する。

 しかし、続く二十小節ほどの間で、嵐の余韻を残さなければ意味がない。気を抜くと、それこそ、この曲の思う壷だ。

 高畑先輩は、全てを理解している。

 徐々に遠ざかる音の残像を、聴衆の心に丁寧に刻み込ませると同時に、やがて訪れる第一部の終わりまで、静謐で穏やかな精神状態に身を任せる……。

 私は、心地よい緊張感を全身で反芻しながら、ステージ上の高畑先輩に視線を送った。

 恍惚の表情を浮かべながら、音の残像を確かめるように、ピアノの上の宙を見詰める高畑先輩がいる。

 今、高畑先輩の瞳には、この会場を支配している密やかな興奮が、いや、この世界全体が、どのように映っているのだろう。


         *


 余韻に浸る余裕もなく、第二部はすぐにはじまった。

 第二部から第三部、そして第四部へ。

 高畑先輩は、自らの指が生み出す旋律の中に、地獄にある人々の苦しみを余すところなく表現し続ける。

 地獄の番犬ケルベロスに引き裂かれ、ぬかるみにのたうち回る大食家。

 奇怪な形の樹木となり、女面鳥身の怪物ハルピュイアに身をついばまれる自殺者。

 火の雨の中を逃げ惑う男色家。

 十二人の悪鬼マレブランケによって、アスファルト漬けにされる汚職官吏。

 そして、地獄の最下層に半身を埋めている魔王ルシファー。

 彼は、キリストを裏切ったイスカリオテのユダ、そしてカエサルを裏切ったブルータスとカッシウスを口に咥え、怒りの咆哮を上げ続ける。

 地獄中に響き渡るその咆哮に戦慄し、恐怖し、逃げ惑う人々……。

 永遠に尽きることのない地獄での責め苦に、人々は絶望的なまでの叫び声を上げ続けるしかない。

 いつしか高畑先輩は、音を触媒としてピアノと一体化し、新たな一つの有機的な生命体となっていた。

 生命体は、音という禁断の魔薬とともに人々の心の中に入り込み、意識の奥底に混沌とした小宇宙を作り出す。

 そして、私は、確かに見た。

 小宇宙の混沌の向こうに、広漠とした悍ましい地獄の光景が広がっているのを。

 私は思わず身震いし、両腕で自分の上半身を抱き締めた。


         *


 人々の心の中にそれぞれの地獄の光景を思い起こさせながら、怒涛のような十六分間は、静かに終わりを告げた。

 静寂。

 会場を包み込む、静かながらも確かな余韻。

 やがて聴衆は、長い夢から覚めた幼な子のようにはっと我に返ると、一斉に立ち上がる。

 次の瞬間。

 割れんばかりの拍手喝采が会場を包み込んだ。人々は皆、酔いしれた表情で、無心に手を叩き続けていた。

 いまだかつて、これほど熱気に包まれたコンクール会場があっただろうか。そう思わせるほどの熱狂の渦。

 その中心に、私が敬愛して止まない高畑先輩がいた。

 現実のものとは思えないほど感動的な情景を前に、私は思う。

 非の打ち所がない技術力、比類なき表現力、そして何にも負けない鋼のように強靭な精神力……。

 高畑先輩は全てにおいて、私たちのような凡人を凌駕し、圧倒し、遥かなる高みにある。

 その姿は、音楽の神に選ばれし者だけが辿り着ける境地にあった。

 ――きっと真の天才とは、このような人間を言うのだ。

 聴衆と同じく、渾身の力を込めて手を叩き続けている自分がいた。

 気が付くと、目からは涙が止めどなく溢れ、止めることができない。

 傍らを見上げると、涙越しに揺れる景色の中に、佐伯(さえき)先生の姿があった。

 佐伯先生も、泣いていた。



十月七日月曜日


 話は、十九日前に遡る。

 朝。

 天気は快晴!

 青く晴れ渡った秋空のもと、いかにも女子高生といった風情でセーラー服を華麗に着こなした私は、学校に向かって自転車のペダルを力いっぱい漕いでいた。

 十月一日に、衣替えで長袖の合服になった。

 でも、まだちょっと早いと思う。

 十月らしからぬ陽気と、朝っぱらからの激しい無酸素運動のせいで、こめかみから首筋にかけて、珠のような汗が滴り落ちる。

 家の前から駅に向かって続く長い坂道を下り切った私は、今、風を切りながら国道を北上しつつあった。

 道路を挟んで右側には、道に沿って小さな川が流れている。

 川沿いにはサクラの木が植えられていて、春になると一面がピンク色の世界に変わる。その見事さから、この近辺では花見の名所として知られているスポットだ。

 だが今の季節、何といってもコスモスが美しい。サクラよりもやや濃いめのピンク色を纏ったコスモスの花が、土手沿いに咲き乱れている。

 しかし、本音を言うと、そんな景色はどうでもよかった。今の私に、平安貴族の子女のように花を愛でる余裕などはない。

 そもそも私は何故、このように朝早くから汗まみれになりながら、学校への道を急いでいるのか。

 それは、今日が一世一代の晴れ舞台、ピアノコンクールの県大会当日だからに他ならない。

 集合場所は学校。

 集合時間は、午前八時三十分の始業時間よりも一時間早い、午前七時三十分。

 現在位置から学校まで、ゆうに十五分はかかるのだが、何故か現在時刻は午前七時二十五分四十三秒。

 頭の中で、因数分解と微分積分を駆使して何度計算しても、午前七時三十分の集合時間に間に合うという答えは導き出せなかった。

「また、佐伯先生に怒られちゃうよ」

 残念な事にネコ型ロボットを扶養していない私は、自分の運の悪さを嘆きながら、必死にペダルを漕ぎ続けた。

 こんな事態になったのも、あの忌々しい目覚まし時計がだんまりを決め込み、私を夢の異世界から現実世界へと呼び戻すことを拒否したからだ。

 もっとも、時間をセットし忘れた自分に非がないわけでもない。

 世の中、なかなか上手くいかないものだ。


         *


 私の愛車は、二十六インチの真っ赤なシティサイクルだ。

 高校入学時、母と近所の自転車店に買いに行き、可愛い色に一目惚れして、速攻で購入した。変速機なしの、いわゆるママチャリ。

 お気に入りの一台とはいえ、スピード勝負では、変速機付きのクロスバイクや電動アシスト車に敵うべくもない。

 こんな状況になるとわかっていたなら、電動アシスト車とはいわずとも、せめて内装五段ぐらいの中性能マシンにしておけばよかった。

 後の祭りとは、昔の人もよく言ったものだ。この言葉は、何気に真実を突いている。

 折れそうになる心と戦いながら必死に自転車を漕ぎ続けていると、ようやく彼方に学校が見えてきた。

 白亜の三階建て校舎が、遥か遠くにアテネの丘のパルテノン神殿の如く聳え立っている。

 ギリシャに行った経験はないが、あくまでイメージだ。

 ペダルを踏む足に力を入れると、その度に少しずつではあるが、学校が近付いてくる。

 ――頑張れ、私。

 最後の力を振り絞って緩やかな坂を上り、正門手前の自転車用出入り口から校内に滑り込んだ。自転車を自転車置き場へ無造作に放り込むと、そのまま正門を目指して一目散に駆け出す。

 正門の前に止まったマイクロバスの周囲には、私と同じ音楽科でピアノを専攻する生徒たちが、すでに大勢集まっていた。


         *


 うちの学校は、藤(とう)桜(おう)学園高校という。私立高校だ。

 音楽教育に力を入れていて、各学年ごとに設けられているA~F組のうち、A~D組は普通科だが、E、F組は音楽科になっている。

 超一流とはいえないが、それなりに音楽大学への合格者を送り出し、卒業生の中にはそこそこ名の知れた音楽家も、ちらほらだがいる。

 そんな学校だ。

 コンクールの県大会に参加する時、他の多くの学校の生徒は、会場まで個人で行くという現地集合のパターンがほとんどらしい。

 しかし、音楽科がある我が校の場合は、出場者数が多い。そのため、県大会では学校に集合し、バスを利用するのが慣例になっている。

 もっとも、生徒たちの間での噂では、生徒に対するサポートが厚いという点を保護者にアピールしたい、そう考えた理事長の鶴の一声で、数年前からバスになったというのが真相のようだった。

 私は、世界陸上選手権女子百mの選手も顔負けの鋭いダッシュで、マイクロバスに駆け寄る。すると、そんな私をいち早く見つけた一人の男子生徒が、マイクロバスの前から大げさに手を振ってきた。

 同じ二年F組で、これまた同じくピアノを専攻している鷹(たか)水(みず)啓(けい)太(た)だ。

 身長は、本人に聞いた試しがないのでよく知らないが、多分一八〇㎝はあると思う。

 ムキムキの体格はラグビー部員かと勘違いしそうだが、ああ見えて意外と器用で、ピアノもそこそこ上手い。

 無尽蔵のスタミナと、手の大きさにものを言わせたダイナミックな演奏姿は、一部では某アニメに登場する「超大型巨人」と揶揄されているのだが、本人はそれを誉め言葉と勘違いしているから質が悪い。

 実を言うと、啓太と私は小学校からの幼馴染だ。小学三年生の時に同じピアノ教室に通っていた縁で知り合い、いつの間にか話をするようになった。

 それ以来、何故か腐れ縁のような関係で、今は同じ高校の同じクラスで仲睦まじく机を並べている。

「タマ、また遅刻かよ。モーニングコール頼まれたら、してやったのに」

 啓太がニヤニヤしながら、私の頭をポンと叩いた。

「小学生じゃないんだから、気安く頭に触んないでよ。私はお年頃の女子高生なの」

 ムカついた私は、思わずアッカンベーをした。

「だいたい、せっかくの朝を、アンタなんかの声で起こされたくないし」

 因みにタマとは、小学校の時からの私のあだ名だ。鷺沢(さぎさわ)環(たまき)だからタマ。

 この呼ばれ方は、日曜夕方の家族団らん系アニメに出てくるネコみたいで、正直好きではない。しかし、いくらやめてくれと言っても啓太は直そうとしないし、他に私をタマと呼ぶ人はいないので、なし崩しに認めてしまっている。

 と、啓太の肩越しに、バスの乗降口付近で他の女子生徒たちと談笑する美少女が目に入った。私は、啓太の前を素通りし、その美少女に歩み寄る。

 二年前、我が校に彗星の如く現れて以来、全国レベルのピアノコンクールでずば抜けた存在感を示し、今や高校ピアノ界で注目の的となっている三年生の高畑瑞奈先輩だ。ピアノの才能だけでなく、容姿端麗、明眸皓歯にして我が校随一の才媛という、まさに神様の不公平さを体現したような存在でもある。

 朝イチの挨拶を省略しては、罰が当たるというものだ。

 私は、啓太には決して見せない、飛びっ切りの笑顔で「おはようございます、高畑先輩!」とご機嫌な挨拶をする。

 高畑先輩は、私の声に振り向くと「ご機嫌よう」と非の打ち処がない笑顔で答えてくれた。私は、高畑先輩の笑顔に思わず、遅刻した事実と我を忘れる。

 すると、「鷺沢君、また遅刻だね」

 後ろから声がした。

 振り向くと、佐伯先生が立っていた。年齢は三十代半ば、身長は啓太と同じくらいだから、一八〇㎝ほどだろうか。

 ただ、すらりと伸びた手足、風にそよぐ前髪、すっきりと整った顔は、いかにも芸術家と言った気品さえ漂わせていて、啓太とは対極にある。

 爪の垢を煎じて、いつか啓太の飲み掛けコーラに混ぜてやりたいと思っているのは、私だけじゃないだろう。

 佐伯先生は、三年ほど前からこの学校でピアノを指導しているらしく、何でも海外への留学経験もあるらしい。

 確信はないが、先生の上品さは、ひょっとしたらパリのシャンゼリゼ通り辺りで身に付けたのかもしれない。

「鷺沢君、来たばかりでお疲れのところ申し訳ないのだが、本日出場予定の人数分のプログラムが、音楽科の教員室に届いていると思うんだ。鷹水君と一緒に、取って来てくれないかな」

 佐伯先生は、私の顔をにこやかに見つめながら微笑んだ。

 私は、いつもながらの優しさオーラを振り撒く佐伯先生を、ハート型の目で見詰めながら、八十点の笑顔で頷いた。

 マイナス二十点は、今から済ませる用事が、啓太と一緒という点だ。

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