終幕 黄金の遊戯盤
誰かに呼ばれた気がして振り返った。
異母兄トールの二人の息子、モージとマグニが相撲に興じている他は、緑濃き草原が広がるばかりだ。気のせいだったろうか。
──いいや、草むらの中に光るものがある。近寄って拾い上げると、それは黄金で出来た遊戯盤だった。
「懐かしいな」
天界に多くの神々がいた頃、よくこの遊戯盤で遊んだものだった。わたしを呼んでいたのは、この遊戯盤に宿る神々の魂だったかもしれない。
「おお〜い」
また誰かが呼んでいる。見ると、一人の男が草原を歩いていた。これまた懐かしい顔だ。
「ヘーニル。よく無事でしたね」
「いや、死ぬかと思ったよ。突然ものすごい火事があってさ……」
ヘーニルは、同盟を結んでいたヴァン神族の元に人質として送られていた。ヴァン神族の国ヴァナヘイムも、巨人の放った炎で焼け落ちたのだろう。
わたしとヘーニルが再会を喜んでいると、二人の甥が駆け寄ってきた。
「ヴァーリ、ヴィーザルが帰ってきたよ」
「あと二人、誰かを連れてるよ」
ヴィーザルは下界の様子を見に行っていた。誰か生き残りを見つけたのか。わたしは二人の指差す方向に目をやり、そして愕然とした。
二人の男が一人の男の手を引いて導いている。先導する二人のうち、一人はヴィーザルだ。もう一人の美丈夫は知らない顔だが、どこか懐かしい雰囲気を纏っている。
「おお〜、バルドル! バルドルじゃないか!」
大きな声を上げたヘーニルが手を振った。
バルドル? そうか、あれがバルドルか。
オーディンと正妻フリッグの唯一の息子。紛うことなき王の後継。光り輝く神。
わたしは、ヴィーザルとバルドルに手を引かれている男から目を離せないでいた。
「ヘズ、どうしてあなたが……」
「その声はヴァーリかい?……久しいね」
盲目のヘズは、わたしがこの手にかけた兄神だ。
わたしの名はヴァーリ。かつての天界では法を司っていた。光の神バルドルを殺したヘズを裁くために、神々によって生み出された司法の神。
「冥界の女王のお許しを得てね。生ある世界に戻ってきたというわけさ」
ヘズは戯けた風に答えてみせた。知らない仕草だ。思えば、わたしはヘズのことをなにも知らないまま裁きの剣を振るったのだった。
神々の嘆きと怒りを受けて、天の総意として彼を裁いた。ロキに騙され、唆されただけの彼を。司法を行使するものとして未熟に過ぎた。
「もう一度、僕を裁くかい?」
ヘズが両手を広げる。
「……まさか。あなたの罪は、すでに裁かれました。罪過が重複するなどあってはならないこと」
「その通りだよ、ヴァーリ。それに、殺された私が彼を許しているんだ」
バルドルがよく通る声でそう言った。草原をぐるりと見渡し、続ける。
「それにしても、私たちが死んでいるうちに天界もずいぶんと様変わりしたね。なにもかもなくなった」
「昔、オーディンが言っていた。生ある者は死に、形ある者は滅すると。それが世の真理なのだと」
ヴィーザルがぼそりと言った。
「なのに、自分は色々と好き勝手やるんだものなあ。神々の滅亡を防ぐのだって言ってさ」
ヘーニルが口にしたことで、みんなが笑った。確かに、主神の我が儘に神々が振り回されていた面はある。
笑いがひとしきり収まると、モージがわたしの手元を指差した。
「ところで、ヴァーリ。さっきから手にしてる、それはなに?」
「ああ、そこの草むらに落ちていたんだ。昔はみんなで遊んだものさ」
手にした黄金の遊戯盤をみなに掲げてみせる。
「へえ、懐かしいな。父には一度も勝てなかったよ」
バルドルが盤面を指でなぞった。
「一局指さないか?」
「いいね」
わたしの誘いを、バルドルが快諾する。
「そういうことなら、場所を変えよう。ギムレーの宮殿が残っているんだ。蜂蜜酒もたっぷりあるよ」
トールの子らしく、宴好きのマグニが発案した。自分が酒を飲みたいだけだとは思うが、悪くない。
「そうだな。久しぶりや初めましての顔ぶれが揃っているんだ。飲みながら語り合おう」
ギムレーに向かう道中は、わたしがヘズの手を引いた。世界を見聞したヴィーザルに、皆が口々に質問を投げかける。
「そういや、いつの間に太陽が甦ったんだ?」
「天狼に飲まれる前に、ソールは娘を生んでいた。今はその娘が太陽を牽いている」
「下界の様子はどうだった? 人間も死に絶えてしまったのか?」
「いいや。ホッドミーミルの森に一組の男女が生き残っていた。彼らの子孫が数を増やしつつある」
ギムレーに着いたわたしたちは七日七晩、眠りもせずに語らった。懐かしい話に花が咲くと、かつての神々の栄光が甦るようだった。善なる面ばかりではなかったが、神々の名は、これからも語り継がれていくことだろう。
財産は滅び、身内は死に絶え、自分もやがて死ぬ。
しかし、決して滅びないのが自ら得た名声である。
──オーディンの箴言より
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