山村丹後等の切腹
江戸に所在しているとはいえ屋敷の敷地内は藩の領土なのであって、如何に町方奉行が江戸の治安に責任を持つ者であるとはいえこれにみだりに立ち入ることなど許されない性質の場所であった。しかしさすがは町方の役人、かかる逃げ口上に対処するノウハウを持たないものではなかった。
「何もないというのであれば見せていただくことも出来るでしょう」
要するに藩領とはいえ管理者の同意さえあれば立ち入ることも可能という理屈である。この橋詰惣次郎の求めは渋る山村にとっては殺し文句も同然であり、町方の与力より重ねて求められては、まさか敷地内に女の死体を隠しているなどと白状することもできず
「左様、なにもございません」
とこたえるよりほかにない。
「しかし上屋敷に人を立ち入らせてしまっては国許の叱責を免れません。伺いを立ててからでよろしいでしょうか」
と、その場での回答を何とか引き延ばそうとする山村丹後。近国とはいえ江戸から藩まで一両日の距離があった。国許に許可を得ている間に遺体を処理してしまう魂胆である。橋詰惣次郎は一旦引き下がったかのように
「なるほど、お互い
と言い、続けて山村丹後を心配するかのように
「しかし伺いなど立てられて、もし屋敷内に女の遺体などあれば勝次公に責任をなすりつけることになりはしませんか。それがしが心配するのはそのことです」
と言って立ち去ろうとした。
「ま、待たれよ……!」
ここにきて山村は、あれほど立ち去って欲しいと願っていた与力を引き止めた。国許に人を派遣して裁量を仰ぐというのは一見尤もな言い訳であったが、伺いを立てられた藩としては了承せざるを得なくなる。そうなれば藩が関与しなかった遺体隠しの責任の一端を藩に押し付けることになってしまうのである。
遺体を隠してしまうにしても、安易に焼却などすれば辺りに立ち込める独特の臭気で露顕するであろうし床下の土を掘って埋めたとしても、あらかじめそういった行為に及ぶことを予想している与力にとっては無策に等しい愚行と言わざるを得ない。山村はそのことに思い至ったのであった。
山村は諦めたように
「実は、隠してござる」
と今朝からの出来事について洗いざらいぶちまけた。遺書についても橋詰惣次郎に示した。何もかも諦めた山村丹後は国許に使者を派遣してことの顛末を報告し、簡単に聞き取りだけをして結局屋敷内に立ち入らなかった与力橋詰惣次郎を番所に見送ったあと、上屋敷の庭園において切腹した。佐藤十左衛門夫人の遺体を最初に発見した遠山甚大夫もこれに従い屠腹した。
江戸上屋敷から火急の使者を得た藩首脳部の混乱は甚だしいものがあった。佐藤十左衛門は検地に際して切腹者を多数出したことに責任を感じ、自ら腹を切って果てたというのが藩から幕府に対して報告した公式の見解だったからである。幕府は佐藤十左衛門が侍の作法に則り自ら腹を切って果てたと信じたからこそ、多田藩首脳部の求めに応じて佐藤家の存続を認めたのだ。たが十左衛門が殺されて、その弟により家督が簒奪されたというのであれば、たとえ多田家家臣たる佐藤家に対してでも、幕府がこれを取り潰すことは必至であった。佐藤十左衛門夫人の遺書は、多田藩が幕府に報告した内容を真っ向から否定するものであった。
「如何致そうか」
かかる事態に際会し、藩主多田勝次他藩首脳部の脳裡に最悪の事態がよぎる。すなわち佐藤家存続の申請に際し虚偽の申告があったことをとらえられて改易の沙汰を言い渡されるという事態である。
「まったく予想できませなんだ」
佐藤十左衛門夫人の自害をさして言った家老横井伊豆のこの言葉が、藩首脳部の偽らざる心境だっただろう。十左衛門が自ら切腹して果てたということにさえしておけば、佐藤家は皆満足すると藩首脳部は考えていた。それこそ佐藤家の人々が自ら選択した道だったからである。しかしよくよく考えてみれば、夫十左衛門との間に子がなかった十左衛門夫人にとっては佐藤家がどうなろうと知った話ではなかったに違いない。もし十左衛門が切腹して果てたというだけであれば、夫人は佐藤家を出てよその家に嫁ぐことも可能だっただろうが、悪いことに青木善右衛門夫人が夫のあとを追って喉を突いたことは広く世に知られた事件であった。十左衛門夫人はことあるごとに善右衛門夫人と比較され自死することを世間から期待された。佐藤家を出ることも許されず、かといって佐藤家に居場所もなく、十左衛門夫人は人知れず追い詰められていったに違いないのである。追い詰められた先には自害しかなかった。
藩首脳部は目の前の出来事を処理するのに精一杯で、女の処遇にまで気が回らなかったのである。藩首脳部の危機管理能力の、これが限界であった。
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