松下七兵衛等の切腹
ともあれ虚偽の申告は幕府に露顕したのだ。こうなってしまっては彼等の考える最悪の処分を回避するためにも自主的に責任者を処分するより他に助かる途はなかった。処分の方法は既に切腹と決まっている。あとは誰が腹を切るかである。
「松下七兵衛は責を免れまい」
藩主勝次は苦渋に満ちた表情を示しながら言った。松下七兵衛は自ら佐藤家に出向きその目で十左衛門の遺体及び邸宅を検分し、しかも藩主に対し十左衛門が自死ではなく他殺であると断言したのだ。しかも十左衛門が殺されたということに確信を抱いておきながら、佐藤家の人々が押し並べて望んだ死なのだから自死したことにせよとして、その旨を幕府に注進するよう仕向けた主導者だったのである。松下七兵衛には佐藤家の処遇をめぐって判断を誤ったという責任が確かにあった。
その場にあって切腹を申し渡されたも同然の松下七兵衛は青い顔をしながら
「しばし中座をお許し下さい。持病の癪が……」
と席を立った。七兵衛に持病があるなどとついぞ聞かなかった藩主勝次及び横井伊豆であったが、かかる重大な会議の席で突如中座を言いだした七兵衛の存念を理解しないものではない。二人は何も言わず七兵衛が退出するのを見送った。しばらくして陣屋詰の侍が藩主のもとにやってきて静かに言った。
「松下七兵衛殿、御切腹」
藩主と家老との間に流れる張り詰めた空気が、そのひと言で緩んだ。
「やがて御公儀から大目付が派遣されてくるであろうが、これで申し開きが出来るというもの」
勝次はそう言って横井伊豆の賛同の言葉を待ったが、家老は警句を発した。
「まだ足りません」
「なぜだ」
「十左衛門を生害した上島八郎右衛門他、これに合力した者、それに佐藤家の家督を簒奪した久兵衛は罪科を免れません」
横井伊豆は冷酷にもそう言い放ったのであった。
勝次は幕府より大目付多治見兵部少輔が派遣されてくるその日に、上島八郎右衛門及び佐藤久兵衛の切腹を執行することとした。なお八郎右衛門に命じられて十左衛門生害に加わった佐藤家の小者、次郎右衛門と源助には打ち首という処断が科された。
かの同心衆八名の切腹が執行されたのと同じ寺で、上島八郎右衛門と佐藤久兵衛切腹の儀は執行された。幕府大目付眼前での切腹の儀とあって、介錯人には特に腕の立つ者が選ばれた。介錯人は見事、切腹人の首を抱き首に打ち落としてその任を遂げた。大目付と共に両名の切腹を見届けた藩主勝次は無駄な犠牲者を増やさなかったことに安堵した。勝次は一瞬弛んだ表情を再度固めて青ざめながら
「御公儀の仕置に不満などあろうはずもございませんが町方の与力が、当藩の屋敷に立入を求める無礼の発言があったと聞き及んでおります。お役目とはいえ一与力が藩の上屋敷に立入を求めるなど無礼でありましょう」
と、抗議の意を示した。
勝次がいったとおり、たとえ江戸の治安に責任を有する町方の役人とはいえ、一与力にすぎない橋詰惣次郎の如き小身の侍が多田藩江戸留守居役山村丹後を詰問してその邸内に立入を求めたやり方は強引に過ぎるものであった。
「当藩にやましいことがあったのは確かですがその責は山村丹後と遠山甚大夫が負いました。御公儀としては然るべきお立場の方を差し越されるべきでありましたものを」
要するに勝次は、佐藤十左衛門夫人の遺体を隠した多田藩の非は非として認めるにやぶさかではないが、多田藩の家格に相応しい立場の者によって立入の要求がおこなわれるべきであった、橋詰の如き微禄の侍にそういったことを求められては多田家の面子が立たないと言いたかったのである。大目付多治見兵部少輔はしかし、その抗議に対して眉ひとつ動かすことなく言ってのけた。
「あれは、確かに少し強引でしたな。したがって橋詰には即日切腹を申し渡しました」
勝次は絶句した。橋詰惣次郎の行為は確かに強引であった。しかしそれは多田藩上屋敷側に粗相があったからだ。上屋敷の対応に誤りがなければ橋詰もあのような強引な物言いで上屋敷に立入を求める必要などなかったはずである。しかも橋詰惣次郎は山村丹後からの自供を得ただけで結局上屋敷には立ち入ることをしなかった。多田藩領を侵犯する重大性を鑑みたうえでの処置だったのだろう。勝次はそうと知ってなお、藩の面子を守るために大目付多治見兵部少輔に口頭で抗議したに過ぎない。それがまさか、橋詰惣次郎は切腹を命じられていたとは……。
唖然とする勝次に多治見は言った。
「ところで三人目は」
「三人目……?」
「左様。あと一人、腹を切ってござらん」
「何の話でしょう御公儀にはあらかじめ、上島八郎右衛門と佐藤久兵衛切腹の儀を執行するとお伝え申し上げていたはず……」
勝次は困惑を隠さずに言った。多治見はこたえた。
「佐藤久兵衛への家督相続に関与した者があと一人、貴藩におりましょう」
家老横井伊豆のことであった。
多治見の言うとおり、松下七兵衛が佐藤十左衛門の死を他殺と復命したその席に家老横井伊豆も同席していた。松下七兵衛は佐藤十左衛門の死が他殺であることを確信しておりながらなお、佐藤久兵衛への家督相続を藩首脳部に進言したのだ。横井伊豆には、その進言に乗って佐藤久兵衛による家督簒奪に加担した罪があった。松下七兵衛は既に藩主勝次の命により切腹して果てている。誤った意思決定をした「最後の大物」は確かに、家老横井伊豆と自分以外にはいなかった。如何に幕府大目付とはいえ、藩主たる自分に切腹を命じることは、橋詰惣次郎の例ではないがそれこそ家格を無視した無礼の作法と言うべきものであろう。しかし幕府大目付から藩の家老格に対して、というのであれば話は別だ。
藩主は不問に付する。代わりに家老の命をもらう。
多治見は言外にそう言っているのである。勝次は首筋が冷たくなる思いであった。
「その儀、承りました。明日にでも執行致しましょう」
勝次はそうこたえるよりほかに言葉がなかった。
翌日、家老横井伊豆の切腹は前日に引き続き同じ寺で執行された。家老の切腹はその価格に見合った見事なものであった。大目付多治見兵部少輔は横井伊豆が見せた勇壮の作法を賞賛し、上機嫌で江戸への帰路に就いた。
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