佐藤十左衛門夫人の自害
間を置かずして江戸に置かれた多田藩の上屋敷門前にて女の遺体が発見された。遺体は切腹して果てた(建前上そのような扱いになっている)佐藤十左衛門夫人であった。夫人は青木善右衛門夫人がそうしたように、喉元に刃をあてがって突っ伏したものであった。善右衛門夫人と異なっていたのは、遺書を残していたことであった。江戸詰の多田藩士遠山甚大夫はまず女の遺体を見て驚愕し、次いでその付近に置かれていた遺書の内容に目を通して更に驚いた。遺書には
「夫佐藤十左衛門はその叔父、上島八郎右衛門他に殺害されたもので切腹などではない。また自分はことあるごとに青木善右衛門夫人と比較されて離縁も出来ず苦しんできた。亡夫との間に子もなく、義弟が佐藤の家を嗣ぐと決まった上は、生きていても仕方ないのでこのようにした」
というようなことが記されていた。
遺書の内容は遠山甚大夫の如き江戸詰の侍にとって驚愕の事実であった。本国においてはいままさに検地が実施されており、その奉行だった佐藤十左衛門が腹を切った事件は江戸にも聞こえていたからであった。
遠山甚大夫は迷った。とるものもとりあえず女の遺体を門内に収容してしまうか、屋敷内の者にまずこのことを知らせるべきかを迷ったのである。 幕臣たる町奉行に届け出るという選択肢は端からなかった。ひとしきり迷った結果、甚大夫は女の遺体を門内に引き摺り入れることを選んだ。硬直が始まっている遺体を一人で引き摺り入れるのは骨の折れる仕事であった。
「これはどうしたことか」
血の跡を地面に残しながらずりずりと女の死体を上屋敷敷地内に引き摺り込もうとしている甚大夫に対し、山村丹後は問うた。困惑を隠さない多田藩江戸留守居番山村丹後に対し、遠山甚大夫は遺体の発見状況を簡単に報告した後、遺書を山村に示した。一読した山村の顔が見る見るうちに青ざめていく。
「そなた、遺体を門内に引き摺り込むのを誰にも見られてはいないだろうな」
山村丹後は恐い眼をしながら甚大夫に問うたが、遺体処理に手一杯だった甚大夫にその確信はない。自信なさげな甚大夫を前に、山村は町奉行関係者が何らかの情報を得てやってきたとしても、多田藩上屋敷たるを前面に押し出して屋敷内に町方奉行の役人を断じて立ち入らせないことを決意した。山村は屋敷詰の侍に命じて十左衛門夫人の血で汚れた門前の路上を掃き清めさせ、更に盛大に打ち水をしてその痕跡を消そうと躍起になった。しばらくすると町奉行より役人が派遣されてきた。
「早朝、貴藩の屋敷門前に女の遺体があったと番所に注進する者がありました。これは本当でしょうか」
町方の与力橋詰惣次郎からそう問われた山村丹後は
「さてなんのことでしょう」
と惚けてみせたがその程度の弁明ですごすご引っ込む橋詰でもない。
「ふうむ……」
橋詰惣次郎はどんな微細な痕跡も見逃すまいといやらしい目をして辺りをゆっくり、舐めるように見渡した。
「さほどの暑気でもありませんのに随分と盛大に打ち水をなさったのですね」
足許の泥濘を指差して橋詰は言った。路上に残った血痕を隠すための打ち水であることを、与力はすぐさま嗅ぎ取った様子であった。山村の額に汗が浮かぶ。自分の額に浮かぶ汗を自覚しする山村はこれを指差しながら
「貴殿はそうかもしれませんがそれがしは暑くて暑くて仕方がなく、こうさせました。ほれご覧下さいこの汗」
となおも必死の弁明である。
「では番所に届け出た町人が誣告したということになる。その者を斬首しなければならんな」
橋詰惣次郎は独り言のように言って立ち去ろうとした。ほっとひと息ついた山村に対し、振り返った橋詰はこう求めた。
「念のため屋敷内を改めさせてはいただけませんか。このままなにもせず立ち去ったと知られれば私も上司から叱責されるより他にありませんので」
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