第12話 イギリス貴族の強大さと脆弱さ
ロスチャイルド家の5兄弟はヨーロッパの大国にそれぞれ拠点を置き、それぞれに大財閥を築き上げました。
長男のアムシェルはフランクフルトの宗家を継ぎ、次男のザロモンはウィーン家を、三男のネイサンはロンドン家を、四男のカールはナポリ家を、五男のヤーコプ(ジェイムズ)はパリ家をそれぞれ創設しました。
現在残っているのはロンドン家とパリ家の系統です。フランスのマクロン大統領が勤務していた投資銀行のロスチャイルド&Co銀行は、ロンドン家とパリ家の金融部門が合併した会社です。有名なワインの銘柄、シャトー・ラフィット・ロートシルトはパリ家の事業ですね。
5兄弟のうち次男のザロモンは一番人当たりが良いので、難関のウィーンを任されました。ハプスブルク帝国の本拠地ですので、がりがりの保守的な風土で、ユダヤ人は土地所有すら認められていませんでした。
そう言う中で徐徐に皇帝と宰相メッテルニヒの信頼を得て、ザロモンはついに、1822年にオーストリア帝国の男爵に叙されています。
ここが大陸諸国に非常に特徴的なところなのですが、この際、5兄弟全員が男爵に叙されています。オーストリアの貴族なので、フォン・ロートシルト男爵ですね。ロンドン家のネイサンのみは、専制君主のオーストリア皇帝から叙爵されることが、ロンドンでの活動に支障が出ると考え、公には男爵の称号を用いませんでした。更には、ドイツ臭を消すべく、フォン・ロートシルトではなくフランス風に de を用いて、更には Rothschild は英語読みで、ド・ロスチャイルド男爵と、男爵位を用いなければならない時はそう署名しています。
大陸諸国と言うか、フランク族のサリカ法典の影響下にある国、フランス圏とドイツ圏、北イタリア圏では、女系継承、女子相続を認めません(一部、例外があります)。
オーストリアのマリア・テレジアは本来はオーストリア大公位も相続出来なかったのですが、ハプスブルク家の男系がスペイン・ハプスブルク家も含めて悉く絶えてしまったと言う事情もあり、彼女の父親が根回しして、オーストリア大公位とハンガリー女王位は相続できるようにしていました。
しかしいざ、マリア・テレジアの父の皇帝カール6世が崩御すると、周辺諸国が襲いかかり(オーストリア継承戦争)、それに勝ち抜かなければ彼女は君主の地位を確実なものとは出来なかったのです。
彼女は女帝マリア・テレジアと言われますが、彼女自身は女性なので皇位は継げませんでした。皇位はロートリンゲン家のフランツ1世が継承し、彼と結婚することでマリア・テレジアは皇后になったに過ぎませんでした。
フランスの歴史、ドイツの歴史、1人も女帝や女王は出ていません。
なおハプスブルク家の男系子孫はまったくいないかと言えば、そうではなくて、皇帝カール5世(スペイン王カルロス1世)の庶子で、スペイン史上最高の軍事的英雄として知られるドン・フアン・デ・アウストリアの子孫は続いています。ただし庶子の家系ですから王位継承権はありません。
サリカ法典のもうひとつの特徴は所領や財産、爵位は兄弟で相続される、と言うものです。つまり、これがザロモン・フォン・ロートシルトが男爵に叙されれば、その兄弟が自動的に、オーストリアの男爵に叙された理由です。
ヨーロッパでは非常に爵位が軽い。
フランス皇后となるジョゼフィーヌは、最初はボアルネ子爵と結婚していましたが、子爵と言ったら、イギリスならば大富豪です。カリブ海から来た、どこの馬の骨とも知れぬ女なんて正妻に迎え入れません。
しかしフランスやドイツでは爵位は兄弟全員が継承しますし、財産は分割されますので、その辺のアパートに住んでいる貴族なんてごろごろいるわけです。財産も大して無い。
イギリスの爵位はまったく別物です。
たったひとりしか継承できません。
思いもかけずオーストリアの男爵になったネイサン・”ド”・ロスチャイルドですが、彼の孫の代で、この家系は連合王国の男爵に叙されています。イギリス貴族としてのロスチャイルド男爵家です(他にこの家系は準男爵家を出しています)。
このロスチャイルド男爵家は当然一子相伝です。
他の一族は、イギリスのロスチャイルド男爵を名乗れません。名乗っているとすれば、それはオーストリアの男爵位であるわけです。
イギリスの爵位は、モールバラ公爵家のような特殊な例外措置を受けていない場合は基本的には男系男子が継承します。
しかもただ1人だけが継承します。
爵位に伴う限嗣相続の規定があり、限嗣相続に指定された財産は、通常の相続法の縛りを受けずにただ1人だけ、爵位継承者が相続します。そのため悲喜こもごもがあるわけです。
この限嗣相続規定のため、イギリス貴族の財産は散逸せずに、大富豪のままであり続けています。
もちろん、20世紀初頭の、いわゆる人民予算の影響で、イギリス貴族の財産は大打撃を受けました。いわゆる相続税の強化であり、限嗣相続規定は財産の散逸は防げますが非課税と言う訳ではないので、相続税を強化されたがために、大邸宅を手放した貴族は多いですが、今でもナショナルトラストなどに頼らずに、大資産を維持している貴族も思いのほか、多いのです。
まあ、爵位を継承する側、長男にとっては限嗣相続はありがたい制度ではあるでしょう。ただし、次男三男には徒手空拳で世間の荒波に放り出されることを意味します。
イギリス貴族は、法的な特権は無いに等しいのです。それは今に始まったことではありません。フランス革命時、駐仏英国大使だったドーセット侯爵は、バスチーユ襲撃の報せを受けて、本国に以下のように報告しています。
「我々が知る限り、これほど大規模で、これほど被害の少ない革命は過去に類例がない。この瞬間から、我々はフランスを自由な国、王権が制限された国、貴族が他の国民と同等の国になったと見なすことが出来る」
フランス貴族には、特権がありました。免税されていたり、領民を勝手に裁いたり、私用で労役を課したりする権利がありました。
対してイギリス貴族には特権はありませんでした。基本的にはイギリス貴族の特権性は「富で殴る」と言うものです。
非常に巧妙なのは、社会的な特権を貴族階級で独占するに際して、アマチュアリズムを利用していたことです。
要は公職にサラリーを出さない、むしろ持ち出しにする、と言うことです。給料が出ないだけでなく、活動費や諸々は持ち出しになるわけですから、お金持ち以外は、公職にはつけません。
政治家だけではなく、軍人、聖職者、法官、ことごとくこのアマチュアリズムで成り立っていました。
フランス貴族は特権として裁判権を独占して、そこからサラリーを貰うなどをして甘い汁を吸ったわけです。
イギリス貴族にはそう言う特権はない。ないのですが、事実上、お金持ちしか公職につけないわけです。結果として貴族や一握りの富裕層が公職を独占することになります。
例えば貴族であれば、領地では裁判官をだいたい兼務していますが、裁判所は自分の屋敷を提供しているんですね。
司法を壟断していると言う点では、フランス貴族もイギリス貴族も同じですが、フランス貴族は特権を国家からむしり取っているのに対して、イギリス貴族は「やってあげている」わけです。そこが非常に巧妙なんですね。良くも悪くもそこがさすがにイギリス人らしいところです。
イギリス貴族は特権ではなく富によって、支配階級を形成していたわけであって、逆に言えば貧しい貴族は貴族ではありません。イギリス貴族は質素な振りをするのは好きですが、貧乏な貴族よりはむしろ成り上がりの方が好ましいのです。
このあたりは19世紀から20世紀にかけて、アメリカの大富豪の令嬢たちが続々とイギリス貴族と結婚したことにつながります。それにはアメリカにはアメリカ側の事情がありました。
ニューヨークのルーズヴェルト家のようなオランダ系の富豪や、アスター家のような19世紀前半に富を築いたような家が、「アメリカの貴族」の形成を目指して、ニュヨーク社交界を牛耳りました。
後から富豪になったカーネギー家やロックフェラー家、ヴァンダービルド家はこの「アスター家の社交界」から弾き飛ばされたんですね。
それで彼らはヨーロッパに「社交的亡命」し、イギリス貴族とも親交を結びました。イギリス貴族と結婚したアメリカ人富豪令嬢たちは、アメリカの歴史的富裕層としてはアスター家から排除された二線級の家系の人たちがほとんどですが、イギリス貴族に、アメリカ人を受け入れることへの抵抗感がそこまでなかった、と言うことでもあります。
アメリカ人かイギリス人か、と言うことよりも金持ちかどうかの方が大事だったからです。
イギリス貴族のこの金持ち主義は社会的流動性を上手く体制内に取り込み、新陳代謝を促すことにつながりました。
上流階級のすぐ下、アッパーミドルクラスは、上から下に降りてくる人たちと下から上に上がって来る人たちの融合になり、ここが新貴族の人材バンクとして機能したのです。
会社経営やら土地経営で成り上がった人が、貴族の次男三男も婿にとったりして、その家系が3代くらい続けば男爵になるわけです。
イギリス貴族の次男三男は、当人一代は実家から年金が出ますから、下院議員の多くはこの階層の出でした。そして金持ちの娘と結婚して資産状況を安定させるわけです。
その意味でもアメリカの金持ち令嬢は望ましい相手でした。
と言うのは、アメリカと言う国でははやくから女子の相続権が保証されていたので、男兄弟とまったく同じではないにしろかなりまとまった金額が遺産として分与されたからです。イギリス貴族の娘ではこうはいきません。
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