第10話 国家の継続性について

 アルジェリアは、地中海を挟んでフランスの反対側にあるわけで、フランスにとっては、戦略的にも文化的にも歴史的にも重要な植民地でした。1954年から8年間に及んで続いたアルジェリア戦争は、単なる独立戦争と言うだけではなく、すでに100年を超える歴史を持っていたフランス人入植者とフランス本国人の争い、フランス政府とフランス軍部の抗争、フランス軍内部での本国軍と現地軍の戦いなど、フランスに複雑な内戦状況をもたらしました。

 当時の混乱したフランスの状況については、フレデリック・フォーサイスの代表作「ジャッカルの日」にも描かれています。


 この時期、フランス本国から行政官としてアルジェに派遣されたポール・デュシャンは、刑務所を視察して、収監されているアルジェリア人たちが拷問を受けていることを見抜き、アルジェリア植民地政府を激しく非難しています。

 刑務所側は当然、拷問の事実を隠していたのですが、ポール・デュシャンは第二次大戦中はレジスタンス活動に従事し、ナチスに捉えられて自身が激しい拷問を受けた経験があったことから、「見るべきポイント」を熟知していたため、刑務所側は隠しきることが出来なかったのです。

 デュシャンの告発などを機に、フランス本国ではアルジェリア植民地での非人道的な政府の態度が激しい批判が沸き起こりましたが、それがまた現地のフランス人入植者からは「現実を知らないフランス本国人の太平楽」だと反発を招きました。


 フランス軍は分裂し、植民地軍は実際に本国軍に対して武装蜂起を行い、フランスは文字通りの内戦状態に陥り、フランス第4共和国は瓦解しました。

 この時、唯一、国論を統一できる人物として擁立されたのが、第2次大戦の救国の英雄、シャルル・ドゴールでした。

 ドゴールは、実戦派と言うよりは軍事理論家であり、ペタン将軍の子飼いでしたが、敗色を強める対独戦の状況の中、対独宥和派のペタンとは袂をわかち、徹底抗戦を主張した人物です。

 当時のフランスは第3共和政でしたが、ドゴールは同じく徹底抗戦派のポール・レイノー首相と結託し、副首相になっていたペタン将軍を牽制していましたが、ついにはドイツ軍がフランスに侵攻し、パリが占拠される中で、ペタンが首相職を掌握、対独降伏を決断し、徹底抗戦派のドゴールに逮捕命令が下されました。

 ドゴールは英国の要人を見送るべく空港に赴いていたのですが、その要人を乗せたセスナが動き出す直前に自らもセスナに乗り込みフランスを脱出したのです。

 フランスに残留したレイノー元首相は、その後、拘禁されドイツに引き渡され収容所に送られています。


 ロンドンにおいてチャーチルの支援の下、自由フランス運動(レジスタンス)を開始したドゴールは、もちろんその活動によって救国の英雄とされたのですが、彼の行動の本当に重要な点は、一亡命者に過ぎない彼が「フランス第3共和政府の正当後継者」であることを主張したことです。つまり、Je suis la France 余のみがフランスである、と言うことです。

 ドゴールのこの態度は、いかにもドゴールらしい誇大妄想な態度だと揶揄されることも多いのですが、そう言う人は国際法を理解していません。

 形式的には、フランス第3共和政府はペタン首相の下で、対独降伏し、その後、連合国に宣戦を布告していますから、ペタン政府(ヴィシー政府)が正当政府と言うことになれば、フランスは対独戦でも対連合国戦でも二重の敗戦国となる可能性がありました。

 ドゴールが正当政府と言うことになれば、フランスは連合国になりますから、連合国から敗戦国と扱われずに済むのです。

 ドゴールは、チャーチルやルーズヴェルトからうるさがられながらも、余がフランスである、との態度と原則を守り続け、結局はそれを了承させました。

 ドゴールがなした功績がいかに巨大であるか、政治面での彼のこの頑張りひとつのおかげで、フランスは敗戦国から戦勝国になったのです。救国の英雄と呼ばれる人は多々いますが、ドゴールほど巨大な功績を挙げた人は類例がありません。


 ドゴールは末子の娘が障碍者だったのですが、その子を溺愛し、戦後は公的生活からきっぱりと引退して、娘ひとりを相手にする生活を送っていました。フランスは、内容的には第3共和政とほぼ同じような第4共和政体制に戦後は移行していましたが、ドゴールは政治からは距離を置いていました。

 ちょうどアルジェリア戦争の頃に、その娘が亡くなり、第4共和政がいよいよ崩壊し、超党派的にドゴールが首相に擁立されました。


 ナポレオン3世が普仏戦争で失脚した結果、成立したフランス第3共和政とそれをなぞった第二次世界大戦後のフランス第4共和政では、極端な多党制で、政権が安定しておらず、内閣の平均任期期間は一年に満たないもので、しかも政権を形作る与党の枠組みはめまぐるしく変わっていました。

 

「フランス人が3人いれば5つの党派ができる」


 との揶揄の通りに、フランスは既に60余年に及んで、政府のコントロール能力が著しく弱体化した半無政府状態が常態化していました。これは第一次大戦と第二次大戦で、フランスがドイツにしてやられた遠因です。

 アルジェリア戦争で国軍が分裂して、実際に内戦が生じる大混乱状態では、通常の首相ではそもそも事態をコントロールできません。

 首相に就任したドゴールは、体制内クーデターを起こし、フランス大統領にありとあらゆる権力を集中し、しかも大統領の任期は7年と言う、異例に長い新憲法を制定し、自らその初代大統領に就任しました。

 これが現在も続く第五共和制です。


 日本人のかなりの人が、大統領制になれば、強大なリーダーシップの下、国が安定すると誤解している人が多いのですが、実はそうではありません。わりあい上手く行っているのはアメリカくらいで、基本的には大統領制の国は議院内閣制の国よりも安定しがたいです。

 と言うのは、大統領制では三権分立において、議会に対するリーダーシップを発揮する権限が大統領には無いからです。行政府の長と議会の主流派が分かれた時、二元代表制の下では、行政府の長はほとんど何もできません。日本の知事や市長はまさしく二元代表制なので、知事が革新系で議会が自民党が多数というような場合には、わりあい起こりがちなことです。

 しかしフランスの場合は、大統領が首相を任免出来たり、議会解散権を持っていたりと、非常に強い権限を持っています。おそらく民主主義国家の中で、フランス大統領は、政治権能的には最も強力な政治職です。

 フランスの大統領制は、普通の大統領制とはかなり違うので半大統領制といいますが、言葉の印象と違って、フランスの大統領は、普通の大統領制の大統領よりもはるかに強力な存在です。


 それくらい強い権限がなければ、ドゴールとてもアルジェリア戦争をまとめきれなかった、と言うことです。

 この体制内クーデターを行うに際して、ドゴールは敢えて軍服を着用して、国民に訴えています。


「私が今夜、軍服を着用しているのは、私がフランス首相というだけではなく、ドゴール将軍であると言うことを諸君に思い起こして貰うためだ」


 つまり、そもそも自由フランスを率いて、フランス第4共和政を戦勝国として生み出したのは自分であると言うことです。その生みの親が、再び第5共和政を生もうとしている。ドゴール将軍と言う属人的な権威によって、その国家の継続性と正当性が担保されるのだ、と言っているわけです。


 1789年のフランス革命以後、フランスは第一王政、第一共和政、第一帝政、第二王政、第三王政、第二共和政、第二帝政、第三共和政とめまぐるしく政治体制を変えてきました。

 革命と戦争の非常時によって、順当な政府の継続がその都度、断絶して来たと言うことです。

 このことは、正当政府の捉え方が、各人で異なると言うことをもたらします。それは先の項目の「君主の代数」にも表れています。


 ルイ16世は処刑されて、王党派の考え方では、その時点で即座にルイ16世の息子がルイ17世として即位したと言うことになっています。

 王政を廃止したフランス共和国の立場としては、当然、ルイ17世は即位していないのですが、第一帝政崩壊後に復権したブルボン王朝下では、国王はルイ18世を名乗っています。革命期の共和政の正当性をまるごと否定したわけですね。

 同様に、第二帝政下のナポレオン3世と言う呼称も、ナポレオン1世退位後に短期間フランス皇帝として擁立されたライヒシュタット公(ナポレオンの息子)を2世とみなす態度であり、その後に生じた復古ブルボン王朝や七月王政を否定する立場を示しています。


 

 

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