第7話 意外と新しい英国貴族
全英国貴族中、筆頭貴族はノーフォーク公爵家です。
イングランド貴族である公爵家であり、同カテゴリー内では最古の公爵家ですが、1483年に、リチャード3世によってジョン・ハワードが叙されたのが最初です。
現存する貴族のうち最古の爵位は、アランデル伯爵位ですが、こちらは1138年の創建です。ただし、アランデル伯位は、女系継承されて、現在はノーフォーク公爵家が従属爵位として所有しています。
そのため、ノーフォーク公爵家の本姓はハワードなのですが、現在はアランデル伯爵家の姓であるフィッツアランを複合姓にして、フィッツアラン=ハワード家を称しています。
ノーフォーク公家は特に歴史が古い家系ですが、それでも応仁の乱以後の創設です。日本の公家、名門武家と比べればわりあい新しいと言えるでしょう。
イギリスは、原則的には庶子への継承を認めません。更には女子女系への継承が極めて例外的にしか認められていません。
そうなると、断絶しやすいのですね。
断絶した後補充されるわけですが、どこから補充されるかと言えば、貴族の周囲には上層平民層がいるわけです。
王の周囲には結構、平民がごろごろいるわけですが、これも不思議な話です。しかしその平民と言うのは、財産で言えば貴族に匹敵するような地主であり、庶民院に議席を持つ政治家でもあります。
それらのうち、論功を立てれば、貴族に叙されるわけです。
エリザベス一世の主要な廷臣であるウィリアム・セシルはバーリー男爵に叙されています。
責任内閣制が成立してからは、政界の有能者が第一大蔵卿(首相職)につくのですが、大体は元は平民で、ウォルポールがオーフォード伯爵に、ペラム=ホールズがニューカッスル公爵に叙されているなど、首相経験者は特に功績があり、当人が望めば高位爵位を与えられています。
これの最後の例としては、一九五七年から約五年間首相職を務めたマクミランが、八十年代になってからストックトン伯爵に叙されたのが、おそらくは最後になるでしょう。
マーガレット・サッチャーは特に功績が(功罪も、ですが)大きかった首相ですが、彼女は一代男爵であるサッチャー男爵に叙されています。但し、彼女の夫のデニスが騎士として準男爵に叙されていて、こちらのサッチャー準男爵家は世襲可なので、現在はサッチャー夫妻の長男のマーク・サッチャーが継いでいます。
ちなみにこの覚書の第一章、Lady の項目で述べたことを参照して言えば、マーガレット・サッチャーは、「サッチャー男爵/サッチャー卿」の意味で、Lady Thatcher でした。同時に「準男爵である騎士デニス・サッチャー夫人」の意味でも、Lady Thatcher でした。彼女はガーター騎士でもありましたので、Dame Margaret すなわち「マーガレット女卿」でもあり、爵位を得てからは、「サッチャー女男爵 Baroness Thatcher」とメディアでは称されることが多かったようです。
フランス革命期に駐仏イギリス大使を務めたゴア伯爵ジョージ・ルーソン=ゴアは、大使期間はスタフォード侯爵の嫡子であり、儀礼称号としてゴア伯爵を称していました。
その後、スタフォード侯爵家を継承した後、その特筆すべき巨大な財産の結果、サザーランド公爵に陞爵しています。年収は二十万ポンドと言われ、ロスチャイルドに次ぐイギリス随一の富豪になったのですが、二十万ポンドがこの時代の貴族の極限の財産であったと言うことを踏まえておいてください。
同時代の上層平民階級、ジェントリーの社交風景を描いたジェーン・オースチンの「高慢と偏見」は、ヒロインのエリザベスと、ヒーローのダーシー氏の交錯する恋愛模様を描いていますが、ダーシー氏は非常な富豪で、上層平民の中でも最上等の部類、その年収が一万ポンドなのです。
ビル・ゲイツの資産の二十分の一でもかなりの富豪ですよね。
ダーシー氏は特別、身代が多い紳士ですが、彼の友人は年収が五千ポンド、ジェントリーとしてはほぼほぼ最下級に近いエリザベスの実家の年収が一千ポンドですから、ビル・ゲイツの資産額が一億ドルを越えていますから、これに当てはめて考えれば、ダーシー氏の資産額は五百万ドル(五億五千万円)、エリザベスの実家の資産が日本円で言えば五千五百万円です。それだけの地代収入があるということです。まあ、「上層平民と言ってもかなりの富豪が多い」と言うことは理解していただけるかと思います。
海運や貿易などで財を成した場合、あるべき紳士階級は、財産を土地に替えて、地代収入を得る、それで生活をするのが本来の貴族、紳士です。資本家階級は、紳士階級ではあっても、貴族に連なる者としては下の下なのです。
英国の場合は、田園と都市(特にロンドン)の双方に邸宅がある、十分な地代収入がある、と言うのが紳士の条件であって、取締役などで会社経営に関わっていてはいけないわけです。
もちろん、邸宅と土地、それらの条件を満たしたうえで財界活動を行う例もありますが、そういう場合は、決して名誉なこととは見なされません。
グラデーションの途中、と見なされるのがせいぜいです。
貴族階級と非貴族階級には厳然たる壁があるわけではなくて、上から下に、下から上にある程度の流動性があります。
明らかに財産家であり、土地や邸宅の条件を満たしていて、数代を経ているような場合は、社交づきあいをしないと言うのも無理がありますから、そうなりますとむしろ積極的に叙爵したいわけです、エスタブリッシュメントの側としては。
ロスチャイルド家は、フランクフルトの本家の他に、オーストリア家、イギリス家、フランス家、ナポリ家に分かれていますが、財閥として現存するのはイギリス家とフランス家のみです。
現在、どちらの当主も男爵ですが、イギリス家の男爵位は連合王国貴族の爵位であり、フランス家の男爵位はオーストリア=ハンガリー帝国の爵位です。
ロスチャイルド家はユダヤ人ですが、十九世紀後半には、あれほどの財閥であればユダヤ人であっても叙爵されて不思議はない、となっていました。
現在のイギリス貴族のうち、有数の富豪として知られるグローヴナー家は、一六二二年に準男爵家に叙されています。その後、グローヴナー男爵、グローヴナー伯爵、ウェストミンスター侯爵と陞爵し、十九世紀になってからウェストミンスター公爵に陞爵しています。
元は平民のうち事業で成功した者が、当人はともかく、その次、あるいは次の次の代で叙爵されることはよくありますが、政治職で功績があった場合と異なり、いきなり伯爵以上に叙せられることは滅多にありません。
グローヴナー家は「成り上がり」としては歴史が古い家系ですが、ウェストミンスター公爵位に達するまでは二百年かかっています。
さて、こうした「貴族と上層平民層の結合」ですが、その人的担保となるのは、何と言っても結婚です。
貴族の娘がこうした上層平民層に嫁ぐ、あるいは、上層平民層の娘が貴族の当主はともかく、その次男三男と結婚すると言うことはよくありました。
財産を持たない次男三男にとって結婚によって財産を得るのは大きなメリットがありますし、上層平民層側も貴族のコネクションが利用できると言うメリットがありました。
貴族社会と言うのは、情報インサイダーの集団なわけで、社交界を牛耳っている以上、利用価値の高い情報を独占しているわけです。
そうしたコネクションにアクセスできると言うことは、財産保全の意味からも大きな意味があることです。
ウィンストン・チャーチルは、モールバラ公爵の孫であり、大蔵大臣であったランドルフ・チャーチル卿の息子ですが、彼の母親も、アメリカ人の富豪の娘で、こうした「爵位と富の結婚」の産物のような人です。
彼はサンドハースト陸軍士官学校を出た後、新聞社で働いていますが、その際の年俸は、当時の売れっ子作家H.G.ウェルズのそれに数倍していました。たかだか、二十代前半の何の実績もない小僧にそれだけの大金を支払ってもペイできると新聞社はふんでいたわけで、それは、言うまでもなくチャーチルがモールバラ公爵家の孫であり、政界の大物の息子だからです。
チャーチルは自分の実績としてその後、超売れっ子の執筆家になりましたので、ライターの実力としてその投資は無駄にはなりませんでしたが、そもそもはそうした実力を期待されたうえでの契約ではなかったのです。
貴族の次男三男、あるいはその子らは、爵位は持っていませんが、そうしたコネクションと言う無形の財産があることは知っておいた方がいいでしょう。
そうしたコネクションによる、上層平民層の防御壁があってこその貴族制度です。ただ、爵位制度がある、というだけではありません。
社会集団として、情報と資本のインサイダー集団がある、ということなのです。
ナーロッパを描く際にもある程度のリアリティを求めるならば、貴族だけではなくその周囲の上層平民層を描くことが重要になってくると思います。
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