第4話 皇太子か王太子か
現在の日本語では基本的には日嗣の皇子はすべて皇太子です。
これは日本語の話ですから、現地の称号名とは関係が無いのですね。先の項目では、西洋における皇帝は、本来、ローマ皇帝に由来していると言いました。
しかしながら東アジアではもちろん、皇帝と言う称号とローマ皇帝には何の関係もありません。
東アジアにおける皇帝称号の始まりは、言うまでもなく俺様キングダムこと秦の始皇帝からであって、これは君主称号のインフレーションの結果です。
周の衰退期、すなわち春秋戦国時代、初期には諸侯も王室を慮って公を称していましたが、末期には王を称するようになっていました。
それら諸王を併呑して成立したのが秦王朝ですから、王に王たるの意で皇帝と称したのです。
これ以後、王は、皇帝よりは下位の称号、中華の国内あるいは国外にあっても、皇帝に服属する首長の意になりました。
明王朝で言えば、明王朝内部の皇族も王でしたし(燕王などの例)、朝鮮のような属国の首長も王でした。
こう言う中華思想の世界観では、両敬の外交関係と言うのは成り立たないのですね。
しかしまあ、明治維新後、日本が他国と外交をを行うようになって、両敬の関係が表現されなければ非常に困ったことになったわけです。日本の君主は天皇と号し、外国では Emperor と称されています。
外国、例えばイギリスには、King が格下だと言う認識はありませんが、日本側、正確に言えば漢字と漢字文化圏には歴史的にあるものであって、King を王と呼べば、外交的な非礼になる、そう言う感覚が明治日本にはあったのですね。
それでややこしいと言うか面倒くさいので、独立国の君主は一様に皇帝とし、君主制国家は一様に帝国としました。
イギリスだと大英帝国と言ってしまえばそれはたまたま British Empire の訳語でもあるので、分かりづらいのですが、イタリア王国なんかも、当初はイタリア帝国と日本側が日本語の事情として呼んでいました。イタリア国王はイタリア皇帝であり、イタリア王太子はイタリア皇太子ですね。
さあ、見えてきたでしょうか。
この君主を一様に皇帝と称する、のやり方を改めた時期がいつなのか、その契機はなんだったのかは調べ切れていませんが、まあ、明治の終わり頃には、王国は王国になり、国王は国王になっていました。
しかし日嗣の皇子に限っては、皇太子が残存したのですね。
某所で、
「チャールズ皇太子はなぜ皇太子なのですか? 王国なのだから王太子ではないですか?」
と言う質問があったのですが、別にイギリスが、皇太子と称してくれと言っているのではありません。私たちが日本語における訳語として勝手にそう訳しているというだけの話です。
ただしこれは、日本の外交史を踏まえた歴史的な用法であって、純粋に「文字通りの意味」で言えば、王の継承予定者を皇太子と呼ぶのは、間違いと言えば間違いです。
特に、日本の外交史を踏まえて描かれるわけではないフィクションでは、王の相続者は、王太子としておいた方が分かりやすいですね。
日本外交史と関係のない時代、18世紀のフランス王室の話なんかでも、マリー・アントワネットは嫁いだ時にはだいたいは「王太子妃」と表現されていますね。
これは称号の話とは少し違うんですけど、君主位継承順位第一位の人と皇太子と言うのは必ずしも相互には一致しません。皇太子は君主位継承順位第一位ですが、君主位継承順位第一位の人が皇太子とは限りません。
これはそれぞれの国での継承法の事情で、直系が傍系よりは優先される、男子が女子よりは優先されるなどの決まりがあるからです。
つまり今現在の状況ではたまたま継承順位第一位だけども、あとあと、誰かが産まれれば、そちらの継承順位が上になる可能性がある、と言うような場合は、継承順位第一位であっても、皇太子にはなりません。
昭和天皇は四人続けて生まれた子が、内親王でした。昭和元年に即位していますが、昭和八年になるまで、男子はいませんでした。
昭和八年に明仁親王、現在の上皇陛下がお生まれになったのですが、昭和元年以降それまでの期間、皇位継承順位第一位は、昭和天皇のすぐ下の弟宮の秩父宮でした。
しかし秩父宮は昭和天皇から見れば、息子ではなく弟であって、傍系皇族になりますから、傍系皇族は皇太子にはなれないのです。
今現在の皇室もそれと似たような状況ですね。
今の天皇には男子がいないため、皇位継承順位第一位は皇弟の秋篠宮です。ですから秋篠宮は皇太子にはなれません。本来はそのまま秋篠宮、であるのですが、今の皇室は皇室外交の担い手ですから、それではちょっと政府としては都合が悪いのです。
秋篠宮は実態は限りなく皇太子に近いのですが皇太子ではない。海外に派遣すると、相手側は「なんだ、皇太子じゃないのか」と残念に思ってしまう。外交上の箔が必要なのですね。それで皇嗣殿下と言うかりそめの呼称が今回用意されました。これは政府が決めたと言う意味では公式のものではありますが、皇室典範が規定しているものではないと言う意味ではあくまでその場限りの称号です。
さて、欧州各国の皇太子ですが、そのまま素直に皇太子と呼ばれることは実はあんまりありません。
各国の皇太子/王太子には、独自の固有爵位が与えられていることが多くて、そちらで呼ばれることが多いからです。
英国のプリンス・オヴ・ウェールズ、ウェールズ公は有名ですね。
第1話で、爵位に伴う固有名詞は、本来は姓ではなく領地名である、しかし姓として用いられることもある、と言いましたよね。
英国でもそうです。
ナポレオンをワーテルローの戦いで破った英国の将軍、誰だか知っていますか?
たぶん、ウェリントン将軍として知っている人が多いのではないかと思いますが、このウェリントンは、公爵としての領地名です。
本来の姓はウェルズリーですね。
こう言う、領地名を貴族称号に組み込んでいる人を固有名詞で呼ぶ場合は、その領地名で呼ぶのが礼儀なんです。
英国有数の富豪として知られるウェストミンスター公爵家の姓はグローヴナーですが、公爵当人を呼ぶ場合は、グローヴナーと呼ぶのは失礼になります。
ただ、政治家などで引退後に叙爵された場合、政治家としての活動期のことを言及する時に、その時点ではまだ存在していない爵位で呼ぶと言うのはいかにも不自然です。そういう場合は普通は姓で呼びます。
ディズレーリは引退後はビーコンスフィールド伯爵に叙されていますが、引退後の彼をビーコンスフィールドと呼ぶのは良くても、首相としての彼はあくまでディズレーリです。
チャールズ皇太子はウェールズ公ですが、このウェールズも場合によっては姓として用いられて、彼の二人の王子、ウィリアムとヘンリーは、学校では名前を書く機会がたくさんあるじゃないですか、そういう場所では、ウェールズを姓として用いていたようです。
ただ、今のウィリアム王子はケンブリッジ公爵ですから、彼の息子のジョージが同じような場面では、姓はケンブリッジにするでしょうね。まあ、その前に女王が崩御して、ウィリアム王子はウェールズ公に繰り上がるんじゃないかと思いますが。
で、ウェールズ公に相当する、皇太子が使用する固有名詞としての爵位、は欧州各国にあります。
ブルボン王朝フランスではドーファンです。
オランダではオラニエ公で、スペインではアストゥリアス公です。
ナーロッパのフィクションでも、皇太子は皇太子と呼べば、わかりやすいのはわかりやすいのですが、制度に深みを出そうと思えば、この皇太子専用の爵位を用意してみるのも面白いかもしれません。
ちなみに、現在の欧州各国では、男女平等と言うか、弟が継承において姉に優先するということは無くなっています。
オラニエ公の女性形はオラニエ公妃もしくはオラニエ女公だったのですが、継承を男女同権に改めるに際して、オランダ王室ではオラニエ公の女性形は、女性皇太子のみに与えられる、つまりオラニエ公の配偶者には与えられないということにしました。
今のオランダの皇太子は男性で、彼は当然オラニエ公なのですが、その夫人はオラニエ公妃ではありません。
イギリスの場合もチャールズ皇太子の次の世代からは男女同権に王位が継承されることになりましたが、チャールズ皇太子の子はふたりとも男子で、長男であるウィリアム王子の第一子は長男のジョージ王子でしたから、とりあえず、ジョージ王子の代までは、あんまり関係がありません。
で、イギリスはプリンス・オヴ・ウェールズの女性形のプリンセス・オヴ・ウェールズについては、これはあくまで、女性皇太子に与えられる称号ではなく、プリンス・オヴ・ウェールズの配偶者に与えられる称号だと決めています。
今のチャールズ皇太子の配偶者、カミラさんですが、彼女は不倫騒動のせいで国民の反発に配慮して、プリンセス・オヴ・ウェールズを名乗っていません。名乗ってはいませんが、名乗っていないだけで、プリンセス・オヴ・ウェールズであることには違いはありません。
イギリスの皇太子には、プリンス・オヴ・ウェールズ以外に、イングランド貴族としてはコーンウォール公爵位が、スコットランド貴族としてはロスシー公爵位が付随するのですが、カミラさんは、イングランドではコーンウォール公妃(公爵夫人)を、スコットランドではロスシー公妃(公爵夫人)を名乗っています。
彼女がウェールズ公妃を名乗っていないためややこしくなっていて、彼女のための称号としてコーンウォール公妃とロスシー公妃が保全されていて現在はいじれない状況にあるのですが、こちらの方は将来的には、女性皇太子の称号になる可能性はあります。
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