第2話 クリエンテスとパトロヌスの関係
少数民族と言うのはマフィア化し易いんですよ。
これは別に偏見の話では無くて、家族にも頼らない、俺は好き勝手に生きるぜ! が通用するのは、相対的に富裕層の家だけです。
貧しい人たちと言うのは助け合わないと生きていけないのです。
ジモト主義と言いますか、低学歴層がやたら地元に拘る風潮や、例えが古いですけど「ハイティーンブギ」的な、「愛」に拘る生き方、そう言うのが見られるのも、貧困層的なコミュニタリアズムの表れです。
田舎から都会に出てきた、「金の卵」のような若年労働者たちに戦後、某新興宗教が爆発的に流行したと言うのもこの「貧困故のコミュニタリアズム」の結果ですし、彼らが組織した政党が、共産党と票を食い合っていると言うのもそう言うことから来ています。
で、少数民族や移民と言うものはエスニシティ的に、弱者になってしまうわけで、それをはねのけようと思えば団結するしか無くて、それが民族的秘密結社、圧力団体のようなものになってゆくわけです。
マフィアもそう言うものの派生形と捉えればいいかと思います。
マジョリティの側はですね、結束する理由が無いから、そうしたエスニック圧力団体と対峙した時には、かえって少数対多数に追い込まれて、無力化するのですね。それが恒常化する、あるいはそう言うものがあるとマジョリティ側の不満が鬱積すると、更にマジョリティの側が偏見を強めて行って攻撃的になる、と言うことがあります。
ヒトラーは「わが闘争」の中でまさしくそう言うことを書いていますね。
ユダヤ人の音楽家たちは、ユダヤ人の批評家たちに過分に評価されていて、相互に影響と保護を及ぼしあっていて、ギルドみたいになっている。ずるい、と言うようなことです。
これが本当かどうかは知りませんけど、クラシックの世界はホモとユダヤ人ばっかりだなんて言う話は以前からあります。
ナーロッパでは獣人やエルフがしばしば被差別クラスターとして描かれますが、被差別に置かれた場合の、集団としての行動がしっかりと描けているかどうか、それはそもそも現実のマイノリティのことをきちんと見ているのかが問われてくるでしょうね。
弱ければ団結する、保護と引き換えに御恩と奉公をする、と言うのは、まあ、鎌倉武士団とか、それ以前の、摂関家に土地を寄進して、摂関家にいくらか上納する代わりに、摂関家による保護を得ると言う荘園制と同じですね。
そこに主従関係があるか。あると言えばあるし、無いと言えば無い。
清和源氏は伝統的に摂関家と結びついて大きくなっています。桓武平氏は院政とつながっています。
だからと言って主従関係がそこにあるかどうか。党派と保護・被保護の関係はあるでしょうね。ただ、主従関係がある、と言えるのは、正統性が一方的に与えられている場合のみでしょうね。
権力、その組織内の権力と言うのは、組織外の権威によって担保されるものです。
難しい言い方をしてしまいましたけど。
例えば、某大名の支配下にあるとして、あなたがどうしてその大名をお殿様と認識するのか、何を根拠にそう思うのかと言えば、お殿様が将軍によって叙任されているからですね。
大名家〇〇家にとっては将軍は外部です。
ではその将軍は何を根拠に将軍なのかと言えば天皇によって叙任されているからです。
ではその天皇はなぜ ― と突き詰めていくと、権力を担保する権威の根源は、だいたい歴史上、以下のように分類できるかと思います。
①神、もしくは天
②教皇などの神の代理人
③皇帝などの超越的な世俗君主
④圧倒的な国力を持つ外国の君主
⑤天意の表れとしての人民
これはつまり、国家宗教において多神教がなぜ一神教化していくのかの理由でもあります。多神教でも、神の間で優劣がある、つまり神意の優劣が生じてゆくのはよくあることです。エジプトでのアテン神信仰や、ギリシャでのゼウス神信仰、日本でのアマテラス信仰(もしくは皇祖神信仰やその一種としての八幡神信仰)はその例です。
権威の源泉は一つは無ければなりませんが、統一国家においては二つ以上では多すぎるからです。徳川家と豊臣家が両立できなかった根本の理由でもありますね。
最終的な主従関係とは、この権威の源泉の究極的上位者との間でしか成立しません。
平重盛が、父である清盛と後白河院との間の争いに悩んで、
「孝と忠、どちらが優先されるべきなのか」
と悩んだ、と言うのも、この辺と関係がある話です。
ヨーロッパの貴族制度においては、爵位を与えることが出来るのは君主だけであって、逆に言えば、爵位を与えることが出来る者は君主化する、と言うことです。
普通はパトロヌス(保護者)とクリエンテス(被保護者)の関係はありますね。
〇〇男爵家は〇〇公爵家に代々仕えている、というようなことはあり得ます。
党派的な関係性として。
しかしそれは主従関係ではないのです。あくまで党派です。
党派のボスは、こいつには褒美として爵位を得られるよう、宮廷に働きかけてやろう、と言うことはあると思います。しかし叙任権は持っていません。
叙任権を持った時点で初めてそこで主従関係が生じるのです。
後白河院が頼朝の意向に構わずに、義経を勝手に叙任した、義経がそれを受けた言うのが、兄弟の亀裂を生んだのは、これが主従関係の構築に関係してくる話だからです。
貴族である〇〇公爵が、家の子郎党に褒美として男爵位を与える、なんてことになればそれはもう君主です。
ウェストファリア条約後のドイツ諸侯と同じですね。彼らは君主、と言う意味で Prince と呼ばれます。
ブルゴーニュ公などはフランス王国の貴族に端を発して、君主化していった例ですね。オラニエ公もそのブルゴーニュ公家に対して君主化していった例です。
ナーロッパで群雄割拠的な状況を描く際に、上位の貴族が下位の貴族に対して叙任権を持っていると言うような場合は、前述のようなことを踏まえて、設定を練る必要があります。
考えてもみましょう。
爵位を与えることが「褒美」になり、その「褒美」が群雄の間で勝手に与えられているならば、爵位のインフレーションが発生しますよね。
貴族制度自体が危うくなってくると言うことです。
どこかで制限をかける必要があって、じゃあ誰がその制限をかけるんだ、と言うことです。
ひとつの案としては、王や皇帝なりに対して、貴族がその爵位に応じて叙任推薦権の枠を持っている、というようなシステムですね。
あるいはその推薦権によって生じた爵位は剥奪権も持っていると言うようなケースです。この場合は、限定的な数の範囲内においては上位貴族と下位貴族の間で叙任関係が生じますから、主従関係がある、家の子郎党的な関係にある貴族同士の関係は成立します。
そう言うのを描きたいのであれば、逆に言えばそう言う設定が必要なんだと言うことをお忘れなく。
臣下が勝手に爵位を与えているのを黙認するような君主はいません。そういうのがいたら、それはもう君主ではあり得ません。君主と言う者は、権力者であると言う以上に、権威の根源であると言うことにその本質があるわけですから、その本質の部分をないがしろにするはずがありません。
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