ナーロッパを書くための、貴族制度の参考資料
本坊ゆう
第1話 Lady とは何か?
ナーロッパを書く際には、欧州の貴族制度を参考にすることがほとんどだろうと思いますが、国によってかなり制度が違います。
これは、貴族制度が歴史的に形勢されてきたからで、完成形がまとまって作られたわけではないからです。Prince と Herzog はドイツとそれ以外では上下が違っていたり、ドイツ諸侯の場合はウェストファリア条約で、独立君主となったために、本来の家格の爵位と、公称にずれがあったりします。
このエッセイでは主に、英国貴族をベースにして、各種用語を検討してみたいと思います。
さて、今回は Lady と言う「称号」ですが、これは非常に広く使われていて、ご婦人、の意味でも使用されていますし、貴族の称号としてかなり限定的な使い方をする場合もあります。
大雑把に分類すると、
①殿方に対比される婦人、の意味
②爵位を持つ人の夫人
③自身が爵位を持つ女性の略称称号
④爵位を持つ貴族の娘の称号
⑤騎士の夫人の称号
と言う5通りの用法があります。
①は取り敢えず問題ないでしょう。トイレに書いてある Ladies の意味です。
英国の首相のウィンストン・チャーチルが騎士爵 Sir に叙されたときに、夫人のクレメンタインに、女性トイレを指さして、
「これで君もあそこに出入りすることが出来るようになったね」
と言ったのは、⑤の意味と①の意味を敢えて取り違えたジョークです。
②の意味から解説すると、ダービー伯爵 Earl of Derby の夫人はダービー伯爵夫人 Countess of Derby です。英国では、伯爵はゲルマン語系由来の Earl を用いていますが、伯爵夫人/女伯爵は、ラテン語系の Countess を用いています。
英国ではヘンリー2世(映画「冬のライオン」でピーター・オトゥールが演じた老王です)以後の王朝はアンジュー王朝(別名プランタジェネット王朝)になるのですが、このアンジューは、元々はフランスの伯爵で、フランスの伯爵ですから、この場合は、英語でも Earl ではなく Count を用います。
伯爵を英語では Earl と言う、フランス語では Count と言う、のではなくて、イングランドの伯爵を Earl と言い、フランスの伯爵を Count と言うのですね。
但し、女性形については、フランス語系の Countess を用いるんだ、と言うことです。
ちなみにダービー伯爵夫人を Countess of Derby と言う、と言いましたが、配偶者として貴族になった女性は、夫と離縁する、もしくは死別しても、再婚しない限りはその称号を保持します。従って、当代の伯爵の現夫人、当代の伯爵と離婚した先妻、先代の伯爵夫人などがいる場合は、3人の伯爵夫人がいるわけで、当代の、を示すためには、定冠詞の The をつけます。
ダイアナ妃が離婚した後、彼女を Princess of Wales と記載した記事をある人が「間違っている」と主張していましたが、その主張の方が間違っているのです。彼女は結局、再婚していませんから、死ぬまで、The 抜きの Princess of Wales ではありました。
話が脇にそれました。
さて、ダービー伯爵を意味する Earl of Derby ですが、これは略せば Lord Derby つまり「ダービー卿」です。この Lord に相当する女性形が Lady なのであって、ダービー卿夫人は Lady Derby です。
えーと、ここで補足しておいた方がいいと思うんですが、「爵位に伴う固有名詞」、ダービー伯爵の場合は、ダービーですが、これは地名です。英国に限らず、爵位のそもそもの意味合いは、何らかの公職であって、大和守の守に相当するのが爵位である、従って「爵位に伴う固有名詞」は本来は地名である、とまずは大雑把に理解してください。
これは姓ではありません。姓ではありませんが姓として機能する場合もあります。ちょっとややこしい。
この地名は必ずしも領地名ではありません。本来は領地名なんですが、ダービー伯爵家はダービーシャーには所領はほとんどありません。
本来は領地名ではあるけれど後代になるにつれてシンボル化していって実態とずれてきている、とお考えください。
チャーチルが引退するときに、エリザベス2世女王は、その功績を称えて、「あらかじめ辞退するであろうと言う想定のもとでセレモニーとして」、チャーチルにロンドン公爵の爵位を示しました。
これは別にチャーチルにロンドンの領有を認めようとしたというわけではないんですよ。救国の英雄に、首都の名を贈ることでその功績を称えようとしたわけです。
ジョージ6世の頃から、新しく世襲貴族を創設することはしないのがバッキンガム宮殿の方針で、二三の例外はありますが、現女王も基本はこの方針を継続しています。
チャーチルは、ロンドン公爵を提示されても受けないだろうと言う前提で、爵位を提示したわけですが、実際、チャーチルが辞退して、女王はほっとしていたとも言います。
ただ、ロンドン公爵を提示されたと言うこと自体が、チャーチルにとっては名誉なことにはなるわけです。
で、この「爵位に伴う固有名詞」は本来は地名であり、本来は領地名である、と言うことなんですが、時代が下れば、爵位と地名の分離が起きています。
スペンサー伯爵なんかはこれは地名ではなくて姓ですね。
ちなみにダービー伯爵の場合は姓としてはスタンリー家であって、スタンリー男爵と言う従属爵位も持っています。
姓が「爵位に伴う固有名詞」になっている場合は、大雑把に言って、あくまで大雑把ですけど、有力貴族の分家である、宮廷貴族あるいは新貴族としての性格が強い、などの傾向があるように思えます。
ナーロッパを描く時にもその辺を参考にすればいいかも知れませんね。
ドイツの貴族だと、領地名が逆に姓になり、新たな領地を得て、姓が変わる場合もあれば変わらない場合もあります。
ハプスブルク家も本来は地名です。元の姓がなんだったのかは不明ですね。
ヴェッティン家は、領地が移動する、もしくは拡大する度に、知られている姓が変わって行って、エステ家、ブラウンシュヴァイク家、ブラウンシュヴァイク=リューネブルク家、ハノーヴァー家は同一の家系です。
カナダにニューブランズウィック州と言うのがありますね。これは、王家の異称であるブラウンシュヴァイク家に由来しているのです。
プロイセンの王家のホーエンツォレルン家はドイツ諸侯としては、ハプスブルクと同程度に古い家系ですが、ホーエンツォレルンも本来は地名です。この家系はドイツ皇帝家になっていますが、現在はプロイセンを姓にしているようです。
話を戻して、③の「自身が爵位を持つ女性当主の略称としての Lady」ですが、これは②の派生です。ちなみに②と③の用法は、公爵については用いられません。公爵は、ちょっと他の爵位とは格が違うんですね。
公爵は常に、Duke もしくは Duchess と呼ばれて、決して Lord/Lady とは呼ばれません。フィクションではそんなに拘らなくてもいいとは思うんですが、こう言う一見無意味に見えるややこしさが、「貴族制度の礼儀」の本質的な部分ですので、この辺をきちんと描き分けていれば、「この作者は分かっているな」と思われるかもしれないと夢想する自己満足にひたれます。大事ですよ、自己満足。
何の報酬も無いまま書くのですから、書いていていい気分になるのはすごく大事なことです。
英語に限らず、欧州語では、女性当主と当主の配偶者の呼称は同じ、なのですね。君主としての女王も、王妃も、英語ではどちらも Queen です。
ロシアのエカテリーナ2世が皇位を夫から簒奪した時は、この辺を利用していますね。彼女は皇后としてインペラトリーツァであったわけですが、女帝になってもインペラトリーツァであり、名前上は、簒奪が隠蔽されるのですね。
英国は王位継承は最近、方法が変わりましたが、歴史的には、同一の家族、同世代の中では男子を優先しながらも、女性、女系継承を容認していました。
しかしながら貴族に関しては、原則的に、女性の継承、女性を介しての継承は禁止されています。ヨーロッパ大陸では王位を含めて、旧フランク王国の系統の領域では、原則、女子相続、女系継承は認められていません。
二三例外があって、例外であるからこそ戦争になったりしているんですが。
ただし、英国貴族でも極めて少数な例外としては、女子相続、女系相続が認められている貴族もいます。
これはだいたい、モールバラ公爵家が典型例なんですが、初代が国家的英雄であって、国家の側にその貴族家を継続させたいと言う強い動機がある場合ですね。そしてその初代に娘しかいなければあらかじめ断絶するのが分かっているのですから、そういう場合はやむを得ず、女子相続、女系相続を認めているのです。モールバラ公爵家は初代は男性ですが、2代目は女性で、3代目は男性です。
初代、初代の長女、初代の次女の長男、と継承されたのですが、ここで注意しなければならないのは、女性は結婚すれば姓が変わるので、この3人はすべて姓が違うと言うことです。
初代は、チャーチル、2代は結婚してゴドルフィン、3代は父親の姓を名乗ってスペンサーでした。
この家系は現在は複合姓としてスペンサー=チャーチルと名乗っています。ウィンストン・チャーチルもこの家系の出ですね。複合姓ですから本来は彼は、スペンサー=チャーチルと略することなく呼ばれなければなりません。簡単に略する場合はチャーチルと呼ばれているのですが、スペンサーとチャーチルで言えば本姓は父系の姓であるスペンサーなのです。
ダイアナ妃が出たスペンサー伯爵家は3代目のモールバラ公爵の弟の家系ですね。こちらはモールバラ公爵家を継がなかったので、姓はスペンサーのままです。
さあまたしても話が脇道にそれにそれましたよ。
元に戻しましょう。
④の爵位を持つ人物の娘の敬称としての Lady ですが、これは公爵/侯爵/伯爵の娘に限ります。これの男性形は Lord です。
これは個人名に冠せられます。
ダイアナ妃は伯爵令嬢ですから、皇太子と結婚したことによって得た称号のすべてを失ったとしても、Lady Diana と言う敬称/称号は死ぬまで失われません。厳密に言えば、貴族とは爵位保持者とその配偶者に限られるのですが、チャーチルの父のランドルフは、保守党政治家で大蔵大臣を務めましたが、Lord Randolph ランドルフ卿と呼ばれました。
モールバラ公爵の次男だったからです。
「デューン 砂の惑星」と言うSF貴族ロマンがあるのですが、あれは主人公の母親は公爵の側室で、レイディ・ジェシカと呼ばれていました。あれはアメリカ人が書いた小説なので称号的にはやや厳密さに欠けます。
通例では彼女のような立場の女性には、Lady ではなく Madam/Madame を使うと思いますね。
「小公子」と言う19世紀に書かれた児童文学がありますよね。「小公子セディ」としてアニメ化されていましたが、あのアニメ化にはいろいろ面白い改変がありました。
原作ではリンカーンの党である共和党をセドリックは支持しているのですが、彼の民衆びいきと言う性格を強調し、現在の政治構造にあわせて、民主党支持にアニメでは改変されています。
これは南北戦争以後、共和党と民主党の性格と支持基盤、支持地域の逆転が生じたせいでもありますが、セドリックはあの作品では「フォーントルロイ卿」と呼ばれています。
これはどう言う意味なのかと言えば、貴族と言うのは通常、保有している爵位は一個だけではなくて、下位の従属爵位を持っているのが普通です。
フォーントルロイはおそらく子爵で、Viscount of Fauntleroy でしょうか。祖父のドリンコート伯爵は、ドリンコート伯爵であると同時にフォーントルロイ子爵であるのです。しかしこの下位の爵位は実際には名乗りません。伯爵なんですから。子爵は名乗らないのです。
そういう場合は、嫡男に儀礼としてその下位の爵位を名乗らせるのです。
つまり、セドリックはドリンコート伯爵家の嫡男(嫡孫)として、実際にはフォーントルロイ子爵ではないけれど、フォーントルロイ子爵を儀礼として名乗っているのです。で、その子爵は、ここで挙げた③の用法で、セドリックは男性ですから Lady ではなく Lord と略して、Lord Fauntleroy フォーントルロイ卿と呼ばれている、というわけです。
セドリック自身には、そう言う称号がありますけど、セドリックの母親は、何の称号も持っていません。彼女の夫のエロル大尉が生きていれば、その配偶者として称号を得ていたのでしょうが、エロル大尉は兄が存命の間に死んでいますから、儀礼称号ですら名乗る立場ではなかったので、セドリックの母親はあくまでエロル夫人のままです。つまり、Mrs Errol ですが、装飾として貴族性を持たせるために、マダム・エロル、と呼ばれています。ミセスだと使用人であるハウスワイフの敬称になってしまうからです。
⑤の用法ですが、卿と日本語で訳されるのは Lord とSir があります。基本的には Sir の方が身分は下です。
Sir は姓ではなく、個人名に冠せられるのです。シャーロック・ホームズ・シリーズの作者、アーサー・コナン・ドイルは、騎士爵に叙せられているので、Sir で呼ばれますが、ドイル卿ではなく、アーサー卿です。アーサー・コナン・ドイル卿とフルネームで呼ぶことは可能ですが、ドイル卿とすることは不可能です。
英国では事務弁護士と法廷弁護士に資格と階級の違いがあって、前者は中産階級の仕事ですが、後者は上流階級の下、中産階級の上の仕事で、法廷弁護士は騎士爵に叙されることが多かったのです。
ジェーン・オースチンの「高慢と偏見」で女主人公の母方の叔父が、弁護士だからと低く見られるのは、事務弁護士だからですし、アガサ・クリスティの「検察側の証人」で弁護士のウィルフレッド卿が、Sir の称号を得ているのは、法廷弁護士だからです。
この Sir に相当する女性形が Dame ですが、Dame は称号としては珍しく、Sir の配偶者には用いられません。純粋に「女性騎士」に叙せられている人のみに用いられます。
著名人で言えばニュージーランド人の傑出したソプラノ歌手、キリ・テ・カナワがデイムですね。彼女は、デイム・キリ、「キリ卿」と呼ばれます。
Sir の配偶者の称号は Lady なのです。ただしこの用法では、Lady が冠せられるのは個人名ではなく、姓です。Sir の用法とは捻じれがありますね。ここもややこしいです。
英国の名優、ローレンス・オリヴィエは Sir に叙せられていて、「風と共に去りぬ」でスカーレット・オハラを演じたヴィヴィアン・リーと結婚していましたが、その結婚期間中と、離婚後、ヴィヴィアンが再婚するまでは、ヴィヴィアンは正式には、Lady Olivier レィディ・オリヴィエと呼ばれました。
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