恋は雷のように~カンナカムイとチキサニ姫の結婚~

コタンカラカムイがモシリに様々なものと人間とを作ってしばらくした後の事です。

カムイモシリでは、皆がとある問題に頭を悩ませていました。


「どうしてあんな事になったんだかなー」


問題解決のために皆が知恵を絞っている中、コタンカラカムイは他人事のように呟きました。それを耳聡く聞いていたのは、清らかな湧水、ワッカカムイです。


「君が仕事をしている最中にタバコを吸ったり、遊んだりしていたせいじゃないのか」

「まさかそれだけのことでああなるとは思わないだろう」


鋭い物言いに、コタンカラカムイはそれでも悪びれることなく言います。

もしかしてこいつ、この状況を面白がってるんじゃないのか?ワッカカムイは思いました。


カムイ達を悩ましているのは、他でもないモシリの事です。

コタンカラカムイによって生み出された人間達は、あれから順調にモシリの中で少しずつ増えています。


しかし、大変大きな問題が起きていました。

その人間を食べてしまう魔物達も、順調にモシリの中で育ち、人間を食べてしまっているのです。


これはよろしくない、という事でカントカムイ達が呼ばれて会議になったのですが、その一番の元凶であるコタンカラカムイは全く真面目に話に参加しようとしていないのです。

恐らくは、その怪物を作った発端だというのに、です。


「道具をそのままほったらかしにしてたのも悪いぞ」


やかましいカラスの声で、パスィクルカムイもコタンカラカムイを非難します。


コタンカラカムイがモシリを作り、人間を住まわせて満足して帰って来た時。

出かけて行った時には持っていた道具を、めんどうくさがって全部モシリに置いてきてしまったのです。

そのまま土に帰ってしまえば、何の問題もありませんでした。しかし、コタンカラカムイに使われたそれらは、神力を得てしまっていたのです。モシリの大地で魔物と化すまで、時間はかかりませんでした。


その魔物の中には、コタンカラカムイがモシリで造ってみたはいいものの、失敗作として終わってしまった動植物も含まれていました。

そういった怪物がモシリにはびこり、人間を食べてしまっているのです。残念な事に、魔物にとっては動植物よりも人間が口に合うようなのでした。


「とにかく、どうにかして頂けませんと私達もモシリで遊べなくなってしまいます」


言うのは、狼を代表して談判しにやってきたホロケウカムイです。

綺麗な顔を怒らせて、コタンカラカムイに厳しい顔をしています。真面目なホロケウカムイは、モシリで遊ぶことよりも、本当は人間を気に掛けています。ですが、照れ臭くてそう素直に言えなかったのでした。


「じゃあ、君が行って魔神退治してきてよ。私はもう疲れてしまったので行けそうにありませんのでね」


明らかに楽をしたいのだろうと判る言い訳をするコタンカラカムイに、ついに雷が落ちました。カントカムイの中でも位の高い神、カンナカムイが精悍なその顔に、怒りをあらわにしています。


「いい加減にしないか、コタンカラカムイよ!貴様の仕事が不十分だったために皆に迷惑をかけているのだぞ!?」


怒られても、コタンカラカムイは全く気にしません。それも神々の頭痛の素でした。

皆がどうしたものか、とまた額をつきあわせて考えている時です。元凶が口を開きました。


「そうだ、そんなら私の娘を魔神退治に行かせようじゃないか」


コタンカラカムイの言葉に、皆がぴたりと静かになります。コタンカラカムイはにやにや笑いました。


「我が麗しの娘、チキサニを向かわせよう。彼女なら無事仕事を済ませてくれるだろう。…ああ、でも娘だけでは心配だなあ。誰か一緒に行ってくれやしないだろうか。ああ、そうだ。もう一つ良い事を思いついた」


芝居掛かった仕草で、ポン、と手を叩くコタンカラカムイ。いっそ確信犯じみた笑顔を浮かべています。


「チキサニと夫婦になって、人間に色んな事を教えてやれる子供を作ってもらうのも良いかもしれないな。さて、あの大変なモシリで一体誰が我が娘と人間を守ってくれるのか…」


チキサニ姫と夫婦。


その一言に、男のカムイ達は、憧れのチキサニ姫を思い浮かべました。優しく美しく聡明な姫の笑顔を思い浮かべました。つがいになって子供を授かることを想像しました。


事の発端であるコタンカラカムイの娘である事、この騒動を引き起こしておいて何をいうのか、という事を差し引いても。チキサニ姫という神は、大変魅力的な女神だったのです。


男神達は早速誰が行くかの相談を始めます。やれ俺の方が良い。いや、俺だって、などと浮ついたはしゃぎ声まで聞こえてくるではありませんか。


女のカムイ達は、チキサニの美貌は頷けるがこの男神達はどうしようもないな。と白い目をしていました。

コタンカラカムイに至っては、顔を覆って泣いているふりをして笑いを堪えています。


なんともどうしようもない会議場内です。

唯一、まともな思考を持っているであろうカムイは、男神の体たらくに、いっそ顔中に青筋をこさえていたのですが、誰も気づきません。


そうしてその場の空気は、彼の猛々しい声でふるえました。


「静まれぃ!!」


ぴたっと、その会議場内の空気が固まりました。皆、その声のした方を見ます。声の主は雷のカムイ、カンナカムイその人です。


「判った。チキサニ姫に護衛を付けて、怪物退治をお願いしよう」


至極真面目な声で、彼は誰の意見も認めないと言わんばかりに言い放ちます。

皆、カンナカムイもチキサニ姫を好いているのは知っていました。なので、自分がついていくと言うのではないか?と疑わしそうな目を向けます。

コタンカラカムイも、にゅっと目を細めて楽しそうです。


「護衛には、我が弟。ポニウネカムイを護衛につけよう。ただし、夫婦の契りはさせん」


カンナカムイの一言に、男神たちはおや、と思いました。


強く、位も高くて見目も良いカントカムイなら、太刀打ちができないと思っていたのです。しかし、その弟である雲を司るポニウネカムイになら、まだどうにかできるかもしれません。その上、チキサニ姫の事を考えてか、他の男神の事を考えてか、夫婦の契りはさせない、とまで言うのです。


男神たちは、その提案を認めます。コタンカラカムイも、にやにやしていますが、それで良いと頷きました。

カントカムイは上手くその場をまとまらせたのでした。



かくして、地上にはコタンカラカムイの娘であり、ハルニレの木の護り神であるチキサニ姫と、雲を司る神のポニウネカムイとが降ろされたのでした。

それから、自分だけではあまりに心細いと言うチキサニ姫のために、女友達であるアツニ姫も一緒に付いて行きました。とは言っても、チキサニ姫の強さは皆が知っていたので、単に話し相手が欲しいからだったのでしょう。


最初、憧れのチキサニ姫とあわよくば良い仲になれるかもしれない。と地上に降ろされたポニウネカムイはうきうきしていましたが、それは次第にしぼんでいってしまいました。


地上にはわけのわからない魔物がうようよいて、それらから人間と姫を守るために毎日闘わなければなりません。

その上、天上からはわけのわからない神々が、毎日のようにチキサニ姫に会いにやってくるからです。


(カムイモシリに居た頃は、チキサニ姫の傍に行くのはそう簡単な事ではありませんでした。何故なら、彼女の父親であるコタンカラカムイの嫌がらせや悪戯がうんざりする程あったからです。

モシリに降りたチキサニ姫は、その加護から解き放たれ、傍に近寄りやすくなっているのでした。)


魔物を退治している間に姫を誰かに取られては大変と、ポニウネカムイはいつもチキサニ姫を連れて過ごしていました。むしろ、ポニウネカムイの方がチキサニ姫に助けられる事が多かったのですが、それは都合よく頭の中で書き換えられています。


そうして、魔物とカムイ達の来ない隙をねらっては、隣の家のアツニ姫が作ったご飯を手づかみで素早く腹の中に落とす。という毎日を可哀想なポニウネカムイは過ごしていました。


アツニ姫はそんな生活をしていたら疲れてしまいますよ、と事あるごとにポニウネカムイを心配しました。

しかし、必死のポニウネカムイには全く聞こえていませんでした。チキサニ姫に関しては、アツニ姫に食事を分けてもらう事の感謝の代わりに、魔物との戦いを面白おかしく話して聞かせるくらいです。


さすがあのカムイの娘、というべきなのでしょうか。魔神が来ようとどんなカムイが来ようと、いつも面白そうに笑っているのです。

もしかしたら、それは傍らに自分を守ってくれている存在がいる、という安心感からなのかもしれない…と、夫候補は期待することもありました。

けれども、チキサニ姫は父によく似た笑顔でそれをばっさりと否定するのでした。


「だって、楽しいんだもの」


明らかにこの状況を楽しんでいるその言葉でも、極上の笑顔と共に言われてしまえば、ポニウネカムイもなじることもできません。

ただ、弱いんだもの。と言われなくて良かった、と隣で聞いていたアツニ姫は心の中だけで慰めました。


そんな豪放磊落を絵に描いたようなチキサニ姫でしたが。たまに天上のカムイモシリを見上げては、哀しそうな、寂しそうな顔をすることがありました。

どうしてそんな顔をするのか、と忙しい時間の合間に、ポニウネカムイは問いました。けれど、チキサニ姫は問われる度に決まって、それは父が恋しいからだと言うのです。

それにはさすがのポニウネカムイも、それ以上の言葉をかける事は出てきませんでした。




そんなモシリの毎日を、カムイモシリからコタンカラカムイが面白そうに眺めていました。

最初は一緒になってチキサニ姫の応援をしていた男神たちもいましたが、彼女の父親譲りな面を見ていくにつれ、観覧者は減っていきました。

そうして、今はカムイモシリを除く池のふちに、コタンカラカムイがだらしなく寝そべっているだけなのです。


彼にとっては、面白ければなんでもいいのではないだろうか。どのカムイ達もそう思いましたが、誰もコタンカラカムイに意見しようとするものはいませんでした。ただ、一人をのぞいては。


「コタンカラ!いつまでこの茶番を続けるつもりか?」


モシリを覗くことのできる小池、カムイトーの傍らに佇んでいるコタンカラカムイの背後から声を上げたのはカンナカムイです。


びっくりすることもなく、コタンカラカムイは背後を見返りました。それはまるで、いつかカンナカムイに問いかけられるのを待っているかのようでした。


「茶番?私はいたって真面目にモシリの行く末を案じているのだけれどなあ」


気分屋で自分本位のそのカムイはくすくす楽しそうに笑います。彼の覗いていたカムイトーのすぐ下には、チキサニ姫とアツニ姫の家が並んで見えました。


「それなら何故こうなると判っていて、あえて魔神どもをモシリに置いてきた?先を考えることの得意な貴方なら、こうなることなど、判っていたことだろう」


いつぞやの会議の時とは違い、落ち着いた話し方のカンナカムイ。さすがのコタンカラカムイも、ふぬけた顔を真剣なものにしました。


「魔神と言われるのは心外だな。彼らもれっきとした私の子供だ。いうなれば、これは子供同士の喧嘩だろう。なれば、だ」


普段のおちゃらけた雰囲気とは打って変わったコタンカラカムイの物言いです。

さすがのカンナカムイもたじろぐか、と思われましたが、さすがの雷神は顔色一つ変えません。


「同じ立場にある子供を遣わせるのが道理だろう。違うのか?」

「それならば、貴方がその子供の喧嘩を仲裁する立場の者も、自らの手で置いてくるのも道理だろう」


きっぱりと言うカンナカムイに、コタンカラカムイは判っちゃいない、とばかりに肩を竦めました。


「それは、私の求めていることではないのだよ、カンナカムイ」


どんなものでも、あのモシリに私が産んだものは愛おしいのだ。カムイトーからモシリを見るその横顔は、そう語っているようでした。


「モシリに産まれた我が子同士が互いの利害の不一致のためにそうなるのなら、私のとやかくいう範囲ではない。けれど、私が直々に自分の子供を始末するための子供を作ってしまえば、あのモシリの中の均衡はいとも簡単に崩れてしまう。私は、それを良しとするような場所を作ったつもりはない」


つまりは、自分が自分で産みだしたものの為に何かをまた新たに産むのは嫌だ。が、すでに産まれているモノ同士が結果的に敵対することになるのは仕方のないこと。だと、コタンカラカムイは言います。カンナカムイは焦れて声を乱しました。


「貴方の考えは判ったが、それではこのままかのモシリは崩れてしまうだろう」


言って、カンナカムイもカムイトーの下をちら、と見ます。自分が言ってしまった事とは言え、弟を厄介の渦に突き落とした事に多少、カンナカムイは罪悪感を抱いています。

そこでは、悪い魔神も、チキサニにちょっかいを出しにきたカムイモシリの善神も、ごっちゃになってポニウネカムイに向かっているところでした。


すでに、ポニウネカムイには限界が来ているようでした。

ずっとチキサニ姫をかばいながら、多方面と闘っていたのですから、それも当たり前のことでしょう。そのポニウネカムイの疲労が、隙を産みました。


チキサニ姫に、あと少しで怪物の手が襲いかかろうとしています。それはポニウネカムイの背後から狙っているので、全面の数多の敵と対しているポニウネカムイは全く気付く気配がありません。普段なら応戦するチキサニ姫ですが、ポニウネカムイを支えてやるので力を使っている状態です。このままでは、チキサニ姫が魔神の爪にひきさかれてしまうのも、すぐのことでしょう。


「チキサニ姫!!」


想いを寄せる女神の機器。カンナカムイは思わず、叫びました。けれど、その声はカムイトーの下、モシリには届きません。


必死な形相のカンナカムイに、コタンカラカムイはいつものような、にたっとした笑いを浮かべています。


「さっき、茶番がどうのと言われたが、カンナカムイよ。貴方こそ、いつまでこの茶番を続けるつもりなんだい?」


どういう意味だ。カンナカムイがコタンカラカムイに向き直ろうとしたその時です。彼の足は、カムイモシリの大地から離れていました。


どん、とコタンカラカムイがその体をモシリに落としたのです。


「なんだかんだと言っている暇があるのなら、男を見せたまえ、男を!」


カムイモシリから落ちるカンナカムイがせめて見ることができたのは、聞く事ができたのは。にたにた笑うコタンカラカムイの顔と、激励するその言葉だけでした。



切っても切っても襲いかかってくる魔神達に、自分の味方をするでもなくただチキサニ姫を寄越せと言ってくるカムイ達。ポニウネカムイは、さすがに自分の体に疲労がたまって来ているのを感じていました。このままでは、あと少しもかからない内に体が言うことを聞かなくなってしまいそうです。

むしろ、ポニウネカムイ自身も、自分がここに何をしに来たのか分からなくなってきています。


朦朧として来る思考の中、背中に守ったチキサニ姫の悲鳴が聞こました。


「きゃー!」


ハッとして振りかえった先の空にいたのは、翼を持った魔神です。姫を食ってやろうと、大きな口を開けて真っ直ぐにこちらに飛びこんで来ていました。

すぐに振りかえって応戦したいところでしたが、目の前の敵の為に太刀は塞がれてしまっています。どうすることもできません。


このまま、姫を助けるために太刀を翻して身を散らせるか。全面の敵にそのまま切り付けるか、けれどその瞬間に姫は食べられてしまうでしょう。


どうすればいい。


逡巡するポニウネカムイの頭上に声が降ってきたのは、まさにその時でした。


「チキサニ姫!!」


その声は同時に、鋭い雷を伴って来ました。

ピシャン、ガシャン。


激しい音を立てて、青白い雷光がポニウネカムイとチキサニ姫の周りに落ちます。

ポニウネカムイが眩しさのあまり閉じていた目を開いたその先には、勇敢なるカンナカムイが肩をいからせて立っていました。手には、稲光の走る太刀を下げています。


カンナカムイが雷と共に降り立ったおかげで三人の周りには、雷から発生した火の壁ができていました。


「魔神ども、とくと聞け!」


カンナカムイが厳しい声で言います。


「これ以上悪さをするつもりならば、私が自らこの太刀で叩き斬ってくれよう!それが嫌ならば即刻立ち去るが良い!モシリの果てまで行って、二度とその姿を見せるな!!」


言いながら、同時に雷を発するそのカムイの恐ろしい事といったらありません。さすがの魔神達もすっかり恐ろしくなってしまって、我先にその場から居なくなりました。


残ったカムイ達にも、カンナカムイは厳しい目を向けています。


「貴様らも貴様らだ!チキサニ姫を助けるかと思っていたが、ポニウネカムイを追い込むばかりとは…」


そこまで言って、カンナカムイは言葉を止めました。言うのを止めた、というよりも息を溜めているようです。

群がっていたカムイ達は、血の気の引いた顔でカムイモシリに逃げようとしました。が、すでに時遅く。


「恥を知れぃい!!」


広範囲の激しい雷が落ちました。ほとんどのカムイがその雷に打たれ、辺りには情けない悲鳴が響きました。


魔神は逃げ去り、カムイは声もなく地に伏し。その場がようやく落ち着いたところで、カンナカムイは弟と姫を見返りました。


「全く、情けない姿だ。兄として恥ずかしい限りだ」

「…申し訳ありません、兄上…」


叱責を受け、うなだれるポニウネカムイです。けれど、弟も精一杯頑張っていたことを見て知っていたカンナカムイは、その肩に手を置いて労わるように優しく撫でました。


「次は、しっかりすることだな」


弟に彼なりの励ましの言葉を与えたカンナカムイは、自分を落ち着かせるように軽く咳払いをしました。

そうして、自分より背も低くて、小柄な可愛らしいチキサニ姫にようやく向き合いました。チキサニ姫は、じっとカンナカムイを見上げています。


あまりにも真っ過ぐに見詰めてくるので、思わずカンナカムイはその綺麗な瞳から目をそむけてしまいました。


「…お怪我は、ありませんか?」

「ええ。ポニウネカムイ様が護っていて下さいましたから」


にこり、と笑顔を浮かべるチキサニ姫です。

弟を褒めるその言葉に誇らしいものを感じましたが、やはり少しだけ嫉妬をしてしまう自分にカンナカムイは気付きました。

それでも、それを抑え込んで平静を装います。ポニウネカムイは、チキサニ姫の言葉が聞こえていたのでしょう。うつむいていた顔がパッと前を向きます。


「そうですか。それなら良かった。…それでは、私はこれにて失礼いたします」


後は弟とチキサニ姫に任せよう。

これ以上チキサニ姫の傍にいるのは胸が辛いカンナカムイです。それを弟にも姫にも気づかれたくはありません。

早々にカムイモシリに帰ろうと踵を返しました。けれど、着ているアトゥシの裾が何かに引っ張られるのを感じて、足を止めました。

見れば、麗しのチキサニ姫が、ぎゅっとカンナカムイの衣服の裾を掴んでいるではありませんか。


「カンナカムイ様」


チキサニ姫が自分の名前を呼んだのに、カンナカムイはすぐに反応ができませんでした。あまりにも、それは彼にとって衝撃的だったからです。


チキサニ姫の柔らかなそれ、その唇が、いかつい雷神の唇に触れていたのですから。


傍にいてその光景を目にしてしまったポニウネカムイも、地に伏してはいるものの、顔だけはこちらに向けていたカムイ達も同様のようで、皆口をあんぐり開けてはいるものの、声が出ていません。


「ずっとずっと、降りてこられるのをお待ちしておりました」


カンナカムイの見下ろしているチキサニ姫の美貌は、今までこらえてきた恐怖を一気に表に出したように、歪んでいました。そうして、微かな嗚咽混じりに泣きだしてしまったのです。


「ち、チキサニ姫…!?」


さしもの雷神も、好意を寄せている相手からの不意打ちには声も裏返るようです。

一体何がどうなっているのか。こういった事になれていないカンナカムイは、うろたえましたが、チキサニ姫が遠ざかるのを許しませんでした。


ぎゅっと、カンナカムイの広い胸板に飛び込んだのです。


乙女にしっかりと抱きしめらた、勇猛な兄の顔が次第に赤くなっていく。その様子が、ポニウネカムイにはよく見えました。


「ずっとお待ちしておりましたのにーっ!」


そうして、カンナカムイの胸に顔をおしつけてチキサニ姫が泣きだしてしまったのです。地に伏しして息を殺していたカムイの誰もが、カンナカムイと交代して欲しいと願いました。


当のカンナカムイは何かを考えるどころではありません。目も口も体も、全く動く気配がありません。思考も停まってしまっているようです。


あまりの衝撃に身動きが取れなかったのもポニウネカムイも同じでしたが、姫の啜り泣く声を聞いて、ようやく判りました。


姫は、本当は泣きたかったのに泣けなかったのです。強くても、女神なのです。

だから、笑って自分を奮うしかなかったのでしょう。カムイモシリからカンナカムイが助けに来てくれるのを願って。


いじらしい姫の想いに気付いたポニウネカムイは、深い溜息を一つ吐きました。

これでは、自分が姫と一緒にモシリに降ろされた意味がありません。最初から、姫は自分と勤めを果たすつもりはなかったのだと言われてしまったも同じです。


兄よりはいくらか恋愛経験のある弟は、兄の肩を強く叩きました。それには多少の妬みも含まれているのでしょう。

そのこぶしに、ようやく我に返る兄の顔は、弟が今まで見た事の無い顔をしていました。


「私はお役御免ということで、兄上、チキサニ姫の事。よろしく頼みましたよ」


あーあ。

もう一度溜息を吐いて、ポニウネカムイは、地に伏すカムイに声をかけました。


「ほら、いつまでそうやって寝ているつもりですか。さっさとカムイモシリにお帰り下さい」


ポニウネカムイに言われては仕方ありません。

こっそりとカンナカムイとチキサニ姫の様子を伺っていたカムイ達はようやく立ち上がると、それぞれカムイモシリに帰って行きました。


ポニウネカムイも立ち去ろうとしましたが。

何かを思い出したらしく、すぐに口元に苦笑いに似たものを浮かべて、カムイモシリではなく、モシリのある場所目指して足を向けて歩いて行きました。


二人だけが残されたその場所で、ようやくカンナカムイは愛しいチキサニ姫の細い体を優しく抱きしめ返したのでした。




その後。


モシリには二人の神の子が産まれました。

雷神カンナカムイを父に持ち、ハルニレの女神チキサニ姫を母に持つ、名はオイナカムイ。


もう一人は、雲司神ポニウネカムイとオヒョウの女神アツニ姫との間に産まれ、その名をサマイクルと言いました。


それからというもの、モシリの人間はこの二人の兄弟のような文化神に道具の使い方を初め、カムイへの礼拝の方法など、諸々の事を教わったといいます。


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つれづれカムイ話 結佳 @yuka0515

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