第92話 出陣

 コムギたちが研究所でやる気になっていた頃……皇帝カイザーゼンメルは焦っていた。


 彼が1日の大半を過ごす執務室には、おびただしい量の書類が山のように積み重なり、足の踏み場も無くなっていた。その書類の内容のほとんどは食糧難に起因するものだ。


 重厚感と機能性に優れた自慢の机にガリガリと頭を掻きつつ突っ伏している今の彼は、傑物としての姿は見る影もなく、焦燥感に駈られた年相応の若者だった。


「一刻も早くなんとかしなければ……。

だがどうしたらよいというのだ……?」


 未収穫の大量の食糧がある北部の穀倉地帯の危機を何とかすれば、とわかってはいるのだが、問題は未知なる巨大魔物の討伐だ。

 

 もし進軍して上手くいかない場合のリスクまで考えると、どうしても二の足を踏むこの状況が歯がゆくて堪らない。


 自国内での供給がダメならば、外国からの輸入に頼るという手立ても検討しているが、冬前という皆が貯蓄するこの時期が悪い。

 破格とも言える損得度外視の条件提示にも関わらず、供給を快諾してくれる国は現在皆無であり、万策尽きたとはまさにこの状況を言うのだろう。


 飢餓による国土全体を巻き込んだ悲劇の幕開けがすぐそこまで迫ってきているのだ。山のような書類の中には、すでに一部地域での食糧の略奪による治安悪化の報告まで出てきている。


「……かくなる上は背水の陣で北へ向かうか」


 こんな博打のようなことはしたくはないが、これしかない。重責による確固たる決意を胸に、ゆっくりと呼び鈴に手を伸ばす。


――チリンチリン……‼


「お呼びでございますか?」


 控え室にいる側控えのメイド長が恭しく頭を下げ執務室に入室する。ベテランの彼女からすれば、それは奇妙な光景だった。――同時にイヤな予感がした。


 思わず僭越と分かっていながらも、心配の声を皇帝に掛けようとしたほど、皇帝の顔色には決死の覚悟が感じられたからだ。

――これ程、鬼気迫る彼は見たことがない。

幼少期から見てきた傑物と呼ばれながらも慢心せず、本物の『上に立つ者』として君臨してきた皇帝の姿にしては、今の彼はあまりにも儚げに見える。


 どれだけ悩み、苦しんだ決断をこれから下すのか。そう予見し、『重い決断』を受け止めるべく、ぐっと腹に力を入れメイド長は命令を待った。彼女なりの慕情を表情に出さず、ただ彼の言葉を。


 しばしの静寂による、ピン……と張り詰めた緊張感が事の重大さをさらに際立たせる。張り詰めた糸を少しずつでなく、一気に両断するかの様な、単刀直入な言葉が2人だけの空間を鋭く裂いた。


「我が帝国が誇り、精鋭たる軍に通達せよ。

これより速やかに支度をし、巨大な魔物の討伐と未収穫食糧の確保のため、北部山間部の穀倉地帯へ出陣する。


――この出陣が帝国最後の戦いになるかもしれん、死力を尽くそうと皆に呼び掛けてくれ」


「……かしこまりました」


 メイド長は皇帝の前で動揺を出さないよう恭しく頭を下げ、足早に執務室を後にし方々へ連絡のため奔走した。


「……あとは行動するのみ、か」


 はたしてこの決断が正しかったのか。

ゆっくりと椅子に掛け、未練がましく悩む。

今の彼に出来る事は、ただただ無事上手くいくよう願うだけだった。


◇◇◇


 準備が整ったのは3日後。

 中庭に設営された壇上から見た、想定以上の軍の規模に驚愕する。


(なぜこれ程の人数が……⁇)


 どうやら正規軍に加え、自ら志願して討伐に加わろうとする志願兵達が三個師団ほどもいるらしい。予想だにしていない報告に皇帝は感謝していた。何しろ未知の魔物が相手なのだ、人手が多いに越した事はない。

 

 志願兵達には退役軍人や老若男女問わず農民が多い。彼等は一様に食糧もろくに確保出来ない状況だからこそ、自らの手で勝ち取りたいという本能的な食い意地を含む強い意思を目に宿していた。

――そう、正に餓えた獣と化しているのだ、ここからは獣と獣の喰らい合い。

 

 人が勝つか、魔物が勝つか……。

――いや、我々が勝たねばならない!

 

 生きるために‼‼


 皇帝は集合している兵たちに号令を出すべく、壇上から叫ぶ。


「皆、よく集まってくれた!

……帝国は危機に瀕している。


 だがこれだけの人が、想いがこの場に集結している。我は本当に嬉しく、頼もしく思っている……ありがとう……。


 今こそ我等のチカラを1つにすれば恐れる物は何も無い!

 この困窮した日々から脱却し、輝かしい未来をこの手に勝ち取ろうではないかっ!


ゆくぞ………――いざ、出陣っ‼‼」



「「「「「「ぅおおおおおっっっ‼‼‼‼‼」」」」」」



 後に『国家総動員の大遠征』と帝国史に名を刻む、覇気に満ち溢れた大軍勢が北部、穀倉地帯を目指し行軍が始まった。

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