終章 パールホワイトカーネーション
「本当に大丈夫?」
「ゴホッゴホッ…大丈夫……ただの風邪」
19歳の夏の日。
不甲斐無くも僕は風邪を引いた。
姉さんが僕のベッドの傍に座り、心配そうに僕を見ている。
「でも」
「姉さん、部屋から出た方がいい。風邪、うつるといけないし」
「私にうつして。ゆきなら知ってるでしょ。私は風邪を引かないよ?」
「……知ってる。けどだめ」
「どうして?」
「……姉さんが例え病気にならないとしても、嫌な物は嫌だ」
「ねぇ……私の事好きなの?」
姉さんは僕の頬を指先でツンツンと突きながら言う。
その指を遮るかのように僕は胴体を起こした。
「そうだよ。姉さんの事が好きだよ。大事なんだよ」
「お、おぉ……めっちゃストレートだね。彼女がいる男の発言じゃないぞ」
「
「じゃあ私は2番?」
「バーカ。同じ土俵にいるわけないだろ。姉さんだって1番だよ」
「もうっ! 馬鹿言ってないでちゃんと養生しなさい!」
「いって!」
白いワンピース姿の姉さんは、頬を赤くして僕の背中を叩いた。
「僕が寝るまで、手繋いでてくれる?」
「いいよ。まだお姉ちゃん離れができないのね」
「してほしい?」
「ううん。それは寂しい。ゆきがお姉ちゃん離れしちゃうと私は一人になっちゃう」
そう言った姉さんの目にはうっすらと涙が浮かんでいた。
僕は姉さんの手を強く握った。
いつかのしなやかな指はそのままで、あの日よりも冷たいその手を。
「姉さん。泣いてるの?」
「泣いてない」
「でも、目に涙が……」
「泣いてない」
「じゃあ。そんな悲しそうな目をしないで」
姉さんは僕が握っている手と逆の手、右手で目元の涙を拭った。
「姉さん」
「……いいよ。私を抱きしめても」
「……姉さん?」
「……いいよ。キスしても」
「あっ……」
返す言葉が見つからなかった。
だから僕は握った姉さんの左手を手繰り寄せ、姉さんを抱きしめた。
そして、姉さんの額に僕の額を軽く当てた。
鼻先が当たり、お互いの息がかかるほどに顔が近い。
「なによ、キスしてくれないの?」
「これでも彼女持ちだから」
「ばか」
そう言って姉さんは小さく泣き始めた。
「泣かないで」
「だったら…私から離れないって約束してよ……ずっと好きって囁いてよ!」
姉さんの髪を右手で撫でる。
繋いで手は繋いだままで。
「ずっと離れないから。ずっと好きだよ、姉さん」
「う…うん……わたしも…ゆきのこと好き、だよ」
お互いの気持ちを。
行動では表せても言葉に表すのは難しくて、今まで避けてきていた。
「好きだ」
たったその3文字を。
「ゆき、痛いよ?」
「ごめん。でも、もう少しだけこのままで」
「甘えん坊さんね」
「嫌?」
「ゆきだからいい」
「ありがと、姉さん」
姉さんのやわらかい胸に顔を埋めていた僕は、その時の姉さんの
けれど、姉さんの心臓の音がやけに小さかったのだけは感じることが出来た。
僕は姉さんの胸の中で微笑む。
姉さんが落ち着いていることが何故か僕は嬉しかったのだ。
◆◇◆
「ゆき君? ゆき君? 大丈夫?」
「……ん…? 時雨?」
「うん、時雨だよ。風邪引いて寝込んでるって聞いたから、前に貰った合い鍵で入っちゃった。ご飯作ったんだけど食べれる?」
「あぁ、食べるよ」
「じゃあここに持ってこようか」
「テーブルに行くよ」
「そう? じゃあ行こっか」
差し伸べられた時雨の手に、僕は左手を重ねた。
姉さんとつないでいたはずの左手を。
「あ、あれ? 姉さんは……?」
「……知らない。向こうにいるんじゃない?」
時雨が素っ気ない。
姉さんの事になるといつもそうだ。
付き合いたての頃と全く変わらない。
僕と時雨はゆっくりとダイニングテーブルに歩いた。
廊下にも食欲をそそるいい匂いが満ちている。
テーブルには白いワンピースの姉さんが座っていた。
「なんだ、姉さんここにいたんだ」
「おはよう、ゆき。体調はどう?」
「だいぶ楽になったよ」
僕が姉さんの真向かいに腰を下ろすと、時雨は姉さんの方を一度見て、悲しそうな顔をして台所に消えていった。
(なんで、そんな顔するんだよ)
考えたところで答えは見つからない。
「はい、おかゆ。うどんの方がいいかなって思ったんだけど、もし起きなかったら伸びちゃうから」
「ありがとう。頂きます」
時雨は僕の隣の席に座った。
姉さんの方を横目に見ながら、「おいしい?」と僕に問いかける。
「うん、おいしいよ」と答える。
「姉さんはちゃんとご飯食べた?」
「私はいいよ。今はお腹あんまり空いてないし」
「はぁ……」
時雨が小さなため息を吐いた。
まただ。
またあの悲しそうな表情。
どうして。
「時雨?」
「え、何?」
「いや…なんかため息吐いてたから」
「心配かけちゃったね。ごめん」
「悩み事でもあるの?」
「うん。でもそれも今日で終わりだから。気にしないで」
「そう? ならいいけど……」
「うん、ありがとうね。ゆき君」
時雨は悲しそうな表情を浮かべ「食べて食べて!」と空元気に言った。
◆◇◆
「ごちそうさまでした」
「お粗末様でした。じゃあ、私はお皿洗ってくるね」
「ありがとう」
時雨は中身が無くなったお椀とスプーンをお盆の上にのせ、台所に運んだ。
約5分後、洗い物をし終えた時雨が、お盆の上に水の入ったコップと錠剤の薬を載せてテーブルに運んできた。
「さて、お腹も膨れたし、ゆき君は薬を飲んで寝ようか」
「あ、ああ。でも薬なら医者から処方されたのが部屋にあるけど……」
「知り合いの薬剤師に処方してもらったすぐの治る風邪薬だから大丈夫だよ」
「……そっか。すぐ治る方がいいもんな」
僕は薬を水で喉を通し、時雨に促されるまま自室のベッドに転がり込んだ。
ふかふかのベッドが僕の体を受け止めた。
「おやすみ、ゆき君」
「…なんか、無性に眠たい……」
「大丈夫、薬が効いているだけよ。目が覚めたら全部元通りだから」
「し…ぐれ………?」
僕の意識は完全に闇に落ちた。
◆◇◆
「さて。雪風君は眠ったわ。瑞穂さん、少し話をしましょうか」
瑞穂は答えない。
ただ、そこで表情も姿勢も変えずに一方向に視線を向けている。
「ま、答えないでしょうね。いや、答えられるわけないか……ならそれもそれでいいわ。でも、私の話は聞いてもらう」
時雨は立ち上がり、瑞穂に近付いた。
「そろそろ開放して。雪風君はもう私の物よ。いい加減に彼の心に棲むのはやめて。いい加減に雪風君の心から出て行ってよ! あなたは邪魔なのよ……いつまでも…いつまでも雪風君を縛らないで‼」
時雨は机を叩きながら叫んだ。
その目には怒りと憐れみが宿っている。
しかし、瑞穂は眉一つ動かさない。
「そうだった。あなたに話しても返事なんてこないわよね」
時雨は目の前の仏壇に置かれた写真立てを手に取り呟いた。
「あなた、3年も前に死んでるんだもの。死人が声を出せるわけないものね」
写真立てを握る手に力がこもり、フレームが軋む。
「だからさ、もう消えてよ。死んだならさっさといなくなってよ」
時雨は狂ったように笑いながら、大きく手を振り上げ写真立てを地面に叩きつけた。
ガラスが蛍光灯の光を乱反射しながら割れ散らばる。
写真立のガラスは粉々に割れ、中の写真が写真立から出てきた。
その写真を時雨は手に取った。
写真には制服姿の高校生の女が写っている。
「なんど見ても忌わしい。綺麗な黒髪。整った容姿。
時雨は写真を何度も何度も破った。
破った写真の破片はコンロの上で燃やす。
何枚かの破片が燃えずに残り、その中には顔の部分の破片もあった。
その破片を見ながら時雨はマッチを擦り、燃え残った破片に近付け、こう言った。
「安心して、雪風君は私がちゃんと幸せにするから。可哀想なあなたの代わりに」
これは
それは
あれは
そして
きっと
憎き
時雨は燃える炎を光の消えた瞳に写し囁いた。
「愛してるわ、雪風君」
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