悌章 竜胆の枯れるその日まで

午前9時50分。

僕は玄関の前で右往左往していた。


というのも、約束の時間よりも10分早くついたからだ。

いや、それは言い訳で僕が緊張しているだけだ。


八丈はちじょうのマンションの部屋の横の部屋の扉が開き、中から主婦が出てきた。

扉の前で頭を抱えていた僕を不審そうに眺めてくる。


これはまずいと思い慌ててインターホンを押した。


『はい』

「あ、赤木だけど。ちょっと早く着いた」

『分かった。すぐ開けるね』


一連の会話を聞いた主婦は理解したようで、そそくさと立ち去った。

主婦が立ち去ってすぐに、扉の鍵が開き中からポニーテール姿の八丈が出てきた。


「お、おはよう」

「うん、おはよう。赤木くん」


僕等ぼくらは玄関先で無言のまま立ち尽くした。

(なにを話せばいいのか分からない……)

手汗でベトベトになった手をズボンに擦り付ける。

それでも緊張感は全く取れない。


「寒いよね! 入って入って!」

「え、あ……お邪魔します」


玄関で靴を脱いだ僕は、そのまま八丈の自室に案内された。

部屋は綺麗に片づけがされており、花の香りがする。


「今日はごめんね。急に呼んじゃって」

「大丈夫。何かあったの?」

「教えてほしいことがあって」

「教えてほしいこと?」

「……ケーキの作り方」


「ケーキ? なんでまた」

「今日はお母さんとお父さんの結婚記念日なの。それで今までのお礼を込めてお祝いしてあげたくて。今日は五十鈴いすず姉さんもいなし、サプライズには丁度いいの」

「優しいんだな、八丈は」

「そうかな」

「そうだよ。八丈は普段料理してるんだろ?」

「うん。一応毎日お弁当は作ってたよ」

「なら話は早い。材料ある?」

「一応買ってあるけど。足りるかな」

「確認してみよう」


台所に行くと、卵や牛乳、生クリームなどの必要な物は揃っていた。


「大丈夫そうだ。これだけあればそれなりの物は出来るよ」

「ほんと?」

「うん。でも八丈は料理得意だろ?」

「うーん。どうかな。お菓子とかは作ったことなくて」

「なんで僕に?」

「あはは……覚えてるかなぁ。中学生の頃の調理実習でケーキ作ったこと」

「……あったな、そんなことも」


あれは中学3年生の時。

両親が死んで間もない頃の調理実習だったと思う。

落ち込んでいなかった僕は姉さんの「休んだら?」の言葉を聞かず、その日に授業科目も知らずに登校した。

その日の授業の半分は調理実習だった。


「私と同じ班だったのも覚えてる?」

「一応」

「あの時さ、赤木くんがほとんど作っちゃったでしょ」

「すまん」

「別に責めてるわけじゃないよ。ただね、凄いなって思ったの」

「凄い?」

「うん。こんなに料理が上手な同い年の男の子がいるんだって。きっと優しい人だったんだね」

「優しい……?」

「だってそうでしょ。男の子が小さい頃から料理をするのって、お母さんを助けたいって気持ちからだよ。そんな気持ちを持ってる赤木くんは優しい人なんだよ」


八丈の言葉は僕の心の隅に突き刺さった。

僕が母親を助けたかった?

優しい気持ちから?


笑わせるな。

そんな感情はない。

死んだときに涙一つ流してあげれなかった愚息だぞ。

僕の中にあるのは優しさとは正反対の冷たさだ。


だから僕は感情をなるべく消して言った。


「それは違う。僕は優しい人間なんかじゃない」

「どうして?」


八丈は優しく聞き返してきた。

柔らかい声。その柔らかさが僕の心の闇を突き刺していく。


「……僕が料理をするのは、傍にいてくれた……いや、傍にいてくれる姉さんの為。でも、それは一周回って自分のため」



「ふーん。そう。瑞穂みずほさんの為なんだ」



八丈は吐き捨てる様に言った。

親の仇を目にしてるかのように。


「なんだ、つまんないの」


その言葉は微かに僕の耳に届いた。


「え…? は、八丈……?」

「あ、ごめん。なんでもないや。早速作ろっか」

「う、うん…」


(なんだ、今の八丈。嫉妬かな‥?)

その後も姉さんの話題が出る度に八丈は嫌そうな表情を浮かべ、話を逸らそうとしてきた。


それ以降は意識的に姉さんの話を控えた。

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