次章 ロゼワインとヘデラ

「私……赤木君のことが好きなの。中学のころから。好きなの! 付き合ってください」


八丈はちじょうは頬を赤く染め、返事を待つかのように体をモジモジとさせている。

やがて照れが出てきたのか、首に巻いてたマフラーを口元まで上げて顔を隠した。


卒業式が終わった後、僕は八丈に呼ばれて誰もいない校庭の桜の木の下にいた。

その場所で人生初の告白を受けている。


女子から告白される妄想をしたことはある。

いざ実際に告白されると想像以上に冷静な自分が不思議だ。


「な、何か言ってよ」


沈黙に耐えれなくなった八丈が口を開く。


「ごめん、なんせ経験がなくて」

「知ってる。赤木君が瑞穂みずほさん以外の女の人の話をしてるの見たことないし」

「僕はそんなに姉さんの話をしてるのか……」


八丈は苦笑いをしながら「してるよ」と答えた。


「ねぇ。そんななことより、返事。欲しい…な」


「えっと…その……」


八丈の事は他の同級生よりも知っているだろう。

何度か家に行ったこともあるし、逆に来たこともある。


趣味は読書。

昼の弁当は毎朝自分で作り、忙しい母親に代わって家事をしているとも聞いた。

頭もいい。

ついでに言えば、かなり良い胸をしている。

(一説にはDカップあるとか……ないとか)


そんな女子に告白されたのなら答えは決まっている。


「こんな僕でよければ……よろしくお願い、します」


酷く震えた声だ。

さっきまでの冷静な自分が嘘みたいに緊張している。

手は汗でべとべとし、呼吸も荒い。おまけに心臓の音もうるさい。


それはきっと、八丈の不安そうな顔を愛おしく感じてしまったから。


「はぁーよかった! 赤木君って瑞穂みずほさんのこと大好きでしょ? だから絶対断られると思ってた」

「馬鹿にするな。姉さんの事は好きだけど、あくまで姉としてだから」

「なんだ、ちゃんとわきまえてるんだ」

「常識があると言ってくれないか」


八丈は呆れたように「はいはい」と言った。


「ねぇ。寒いし、どこかでお茶でもして帰らない?」


そう言い、顔を隠した八丈の耳は林檎りんごの様に赤かった。

寒いからなのか、はたまた別の理由か。

今の僕には簡単すぎる謎だった。


「そうだね。どこか行こうか」


八丈は笑って「うん!」と答え、右手で僕の左手を握った。

僕は八丈の手を握り返す。

冷たいその手は、しっとりとしていてすべすべだった。


「手…繋いでもいい?」

「…うん、いいよ」


もう繋いでるだろ、というのは空気が読めていないと思いやめた。

八丈は鼻歌を歌いながら上機嫌に僕を引っ張って歩く。



これが生れて初めて彼女が出来た日。

生れて初めて姉さん以外の女性を好きなった日。


◆◇◆


「ただいま、姉さん」

「お帰り。遅かったね」

「ご飯食べ来たから。LINEしたのに、既読つけなかったでしょ。それじゃあ携帯の意味がないよ」

「ほんとだ。忘れてた」

「いいけど。姉さんはご飯食べた?」

「うん、食べたよ」


僕はうがい手洗いをするために、台所に立った。


「あれ? 姉さん、洗い物したの?」


台所には食器が丁寧に水気を取り、棚に入れられていた。

家事がてんでダメだめな姉さんにしては珍しい。


「失礼ね。私だってそれくらい出来るんだから」

「はは。どうだか」


水道水を含み、うがいをしていると、姉さんがずっとこちらを見ていた。

ずっと見つめられていると流石に気になる。


「どしたの?」

「いや、今日は機嫌がいいね」

「そう?」

「うん。顔が笑ってる」


慌てて自分の顔に手を当てるが、表情筋はいたって普通だ。


「何があった? お姉ちゃんが聞いたげる」

「今日……彼女が出来た」

「へぇ~⁉ よかったじゃん、おめでと!」

「あ、うん……」

「あれ…? 嬉しくないの?」

「いや、嬉しいよ。嬉しいんだけど、さ」


素直に喜んでなど欲しくなかった。

少しくらいは嫌そうな顔をして欲しかった。


でも、これは。

僕の気持ちが悪い切望せつぼうで。

誰にも理解されない願望がんぼうで。

自分だけが知っている欲望よくぼうで。

ただの、我望がぼう

純粋な寂しさだった。


姉さんは不思議そうに首を傾げて「何か、あったの?」と優しく問いかける。

きっと今の僕は酷い表情かおをしているだろう。


「なんでもないよ、ごめん」


「そっか。私に嫉妬して欲しかったんだ」

「なに言ってんのさ」

「分かるよ。弟の事だもん。顔とか口調とかで」

「……なら今の気持ちも分かるの?」

「恥ずかしいと思ってる」


そう言った姉さんの表情かおには、感情の欠片も人間らしい温かみも宿っていなかった。

姉さんの笑顔つくりがおがひどく恐ろしかった。


◆◇◆


『明日、会えないかな』


僕の彼女になったばかりの八丈からLINEが来たのは僕が布団に潜り込んで13秒後の事だった。


特に明日の予定はなかったので『いいよ』と返した。

少し素っ気ない返事だったかもしれない。


『じゃあ私の家に来ない?』


「え⁉」


思わず大きな声を出してしまった。


「んー?どうしたの?」


隣の部屋の姉さんが壁越しに話しかけてきた。その声にまた驚き、思わずスマホを投げてしまう。


「な、なんでもない!」

「夜なんだから静かにねー」

「分かってるよ」


僕はすぐにスマホを拾い『分かった。何時に行けばいい?』と返信した。

八丈の家に行くのは初めてではない。

けれど、恋人という関係になってからは初めてなわけで。

今までは想像もしなかったあれやこれがあるわけで。


年頃の男子が色々考えてしまうのは至極当然の結果だろう。


『朝の10時とかでもいい?』


返信してから20秒と経たずに返信が来た。

今の僕と同じようにスマホを握りしめ、返信を今か今かと待っているのだろうか。


「10時か…起きれれば大丈夫だな」


『分かった。じゃあ、10時に行く』


返信してからの数十秒、何度も自分が送った文面を読み直す度に、いかに自分がメールを送るのに向かない人間かを思い知らされる。

そもそも姉さん以外とLINEをしたことなかった人間が、感情のこもった文面を送るなどどだい無理な話なのだ。


『うん!おやすみ!』


はい可愛い。

画面の文字を見るだけで八丈の愛おしい表情かおが脳裏に浮かび、顔が一人でに熱くなる。


『おやすみ』


なんと素っ気ないことか。

今まで文面でやり取りをしてこなかった自分が嫌になる。


「明日、謝らないといけないな」


スマホを充電器に差して部屋の電気を消す。

明日は早起きしないといけないので、目覚ましを8時半にセットした。


目を閉じ、布団を口元まで手繰り寄せた。

明日が楽しみで眠れないかもしれないと思っていたが、不思議とすぐに眠れそうだ。


「おやすみ……姉さん」


返事など期待せず、無意識に呟いた。


「おやすみ、ゆき」


だというのに、後ろから姉さんの声がした。


「な、なんでいるんだよ……」


姉さんはベッドの端で自分の腕を枕にして横になっていた。

いつかと同じ白いワンピース姿。


「一緒に寝よ?」


姉さんは表情を変えずに言った。


「なんでさ」

「私が寝たいからじゃ不満?」

「……彼氏にしてもらいなよ」

「何言ってるの。今の私と寝れるのはゆきだけだよ?」


お願いだからそんなセリフを真顔で言わないでほしい。

僕の気持ちも考えろってんだ。


「僕は朝が早いんだ。僕を抱き枕にしたいのなら勝手にすればいいけど、僕は寝るからね」


彼女あの娘とデートなんだ」


姉さんは僕の体に腕を巻きつけ、耳元で冷たく告げる。

僕は何も答えなかった。


「別にいいよ。けど、お姉ちゃんの事も忘れないでね。彼女さんにばっかり優しくしないでね。毎日お話しようね」


姉さんは僕の体を強く抱きしめる。

けれど抱きしめられた感覚が無い程、優しい抱き方。


「……姉さん」


僕は姉さんの手に右手を添えた。

生きているのか怪しいくらいにか細く冷たい強かな手。


そうだ。

これが僕の大好きな姉さんの手だ。


「おやすみ」

「うん、おやすみ」


◆◇◆


目覚ましの音で目を覚ますと、姉さんはいなかった。

布団にひと肌の温もりはなく、冷たさだけがそこにあった。


まるで昨夜の出来事が夢であるかの様に。

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