姉愛のメーデー

米 八矢

序章 ディープレッドカーネーション

降りしきる雨が頬を伝った日。

耳をつんざく雷鳴を聞いていた日。


姉さんをこわしてしまった日。


その日のことが霞んで思い出せない。

それはきっと僕の自制心がそうさせた。

両親が死んだことによる不安、それに伴って生じた将来への不安。

或いは、明日への不安。

静まることを知らない雨音と不意に響く雷鳴が僕の不安定な心を煽る。


骨になったばかりの両親が入った白い箱を抱え、鉛にように重い空を見上げていた。

火葬場で見たあの空の色。


唯一思い出せるのは姉さんの体温だけ。

雨に打たれ続け、一滴の涙も流せなかった僕を優しく抱きしめて、そのしなやかに温かい手で僕の頭をでてくれた。


僕はそれがただただ嬉しかった。この人は薄情な僕を許してくれるんだと思った。

それと同時に、この人の傍に一生いたいとも思った。


恋という名の病気の始まりだったのだ。


◆◇◆


17歳の春、僕はふと目を覚ました。

頬の辺りが冷たい。

春だと言うのに、冬の朝の様な気温の日だ。


何故か僕の体は気怠けだるさを覚えた。

乾いた目元を擦ると指に粉が付く。

体は元気だが、胸中の得体の知れぬ気持ち悪さのせいで布団から出たくない。


枕元の眼鏡ケースを手に取り眼鏡をかけた。


「もう8時……。あれ? 今日は姉さんが起こしに来てない……」


いつもは7時半には姉さんが僕を起こしに来ている。

両親を死んでから姉さんが起こしに来なかった日は記憶にない。


(まだ寝てるのかな……?)


今日はいつも通りに学校がある。

仕方なく布団から這い出て、隣の姉さんの部屋に向かった。

瑞穂みずほ』と書かれたネームプレートがぶら下がった扉をノックする。


「姉さん、入るよ」


僕が部屋に入ると姉さんは布団の中でくるまっていた。

寝息をたてる姉さんに近付き、肩をする。


「姉さん? 大丈夫?」

「ぅ…ん? ゆき……?」

「おはよう、姉さん。もう8時だよ。今日も1限目でしょ」

「あ!ごめん‼ 寝坊しちゃった、ごめんね!」


姉さんは化粧入れをもって洗面所に走って行った。

僕は自室に戻り、しわ一つない制服に腕を通してネクタイを締める。

ブレザーは甘い柔軟剤の香りがした。



「姉さん、そろそろ出ないとコンビニ寄れないよ」

「ごめんごめん」


慌てて玄関に姿を見せた姉さんは、寝起きの頃と違い髪を整えて薄く化粧をし、白いワンピースに身を包んでいた。


「行こっか」

「うん」


学校に着くまでの道中のコンビニで朝ごはんのパンと昼ご飯のおにぎりを買った。

姉さんは大学の学食で食べると言って何も買わなかった。


◇◆◇


始業2分前に教室に到着し、落ち着く間もなく鞄から出した教科書を机に置いた。

一息ついたところで隣の席の女子から話しかけられた。


「……遅かったね」


僕は横目で隣の席を見ながら「ちょっと寝坊した」と答えた。

話しかけてきた女子生徒の名は八丈時雨はちじょうしぐれ

我がクラスの委員長にして、学年首位。

国語の教科書を読んでいるのは予習だろう。


整った顔をしているが、男子のことを毛嫌いしているようで、冷たい視線を男子に向ける。(ような気がする。)


男子側も最初は声をかけるのだが、何度も塩対応をされ続け飽きる。

挙げ句の果てには、その態度を耳にしたスクールカースト上位の女に「調子に乗っている」と嫌がらせを受ける。


僕が大丈夫か問えば、きまって何がと聞き返す。だから僕もそれ以上は追求しない。




「そう……最近どう? 疲れたりしてない?」

「なんでさ?」

「だってほら、一人じゃ大変でしょ」


八丈はページをめくる手を止めて言った。けれど視線は教科書にあわされたままだ。

中学生の頃からの付き合いの僕等ぼくらはお互いの家族構成をある程度知っている。


「まぁ姉さんがいるから大丈夫だよ」

「………そう、なんだ……」

「なんだよ?」

「あの——————」


八丈の声は教室の扉が開く音で遮られた。

国語教師の佐々木が教室に入り、「授業を始める」と厳格な声で言った。

僕は仕方なく「悪い、また後で」と小声で言った。

八丈も真面目な性格故か、話を続けようとはしなかった。


(なんだったんだろう……)


授業が終わった後に問い詰めてみると「なんでもないよ。気にしないで」と突っ放された。

それ以降の僕は、八丈の言葉の続きへの興味が自然と消えていった。

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