『真尋、です』
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野球部の退部届を提出して数日、顧問の先生が受理するのを拒んでいたが、正式に受理された。
野球推薦で入学した俺は、退部することは退学を意味する。
「本当に、これでよかったのか尾崎?」
「はい、これでよかったんです。もう俺がマウンドに立つ資格はないです」
監督との最後の会話。
野球部の監督である崎守先生は、俺のことをよく目にかけてくれていた。
俺が野球部に顔を出さなくなってからも、毛嫌いせず親身に接してくれた。
本来であれば、ここから立ち上がって再び野球を続けるのが道理なのかも知れない。
だけど、俺はこの当時、ボールに触れることさえできなかった。
そんな俺がこれからもこの高校で野球を続けるなど到底無理な話だった。
「そう、か……。だが、きっとお前ならまた野球を好きになる。好きになれる。俺はお前を応援してるからな。編入先でも頑張れよ」
「……すみません、監督。今まで本当にお世話になりました」
***
「今日でこの高校ともさよならか……」
俺は野球部を退部したことで、この高校からも除籍となる。
元々スポーツ推薦で入学したからだ。
「思えば、この高校には一年しかいなかったんだな」
一年ほどしか在籍していない高校では、思い出に耽ることもできない。
思い出せるのは希望に満ちた入学時と、絶望に陥った夏の大会以降の記憶のみだ。
何度か部活に顔を出そうかと勇気を出してみたりしたものの、部室に入ることすらできなかった。
空白の半年間を過ごし、二年生に進級したタイミングで俺は退部を決意した。
嫌な思い出と、自身への不甲斐なさ。両親への申し訳なさ。
良い思い出など、一つもない。
……いや、一つだけあった。
「今日もあの子、音楽室で練習してるのかな」
俺はこの高校を去る前に、もう一度だけ、あの子の歌声を聴きたいと思った。
人生を経験してまだ十数年しか経っていないけれど、彼女の歌声は俺が今まで聴いてきた中で最も心を打たれるものだった。
夏の大会以降の俺は、ずっと暗闇の中を彷徨っているかのように、目に写る全てのものがセピア色に見えた。
しかしそんな中、暗雲から光が差し込むかのように彼女の歌声が舞い込んできた。
それは俺にとって、まるで天の調べのようだったんだ。
***
俺はあの日の思い出に引き寄せられるかのように、音楽室へと足を運んでいた。
吹奏楽部は夏の大会前は活動が活発になるが、大会以降は吹奏楽コンテスト前以外は週に三日程度しか活動していない。
今日は何も演奏が聴こえてこないので、おそらく休みだろう。
今日ならば、彼女もいるかも知れない。
そんな淡い期待をしつつ、以前に出会った場所である音楽準備室の扉を開いた。
しかし、残念なことに彼女の姿も、歌声もそこにはなかった。
「まぁそうだよな……そんな毎日こんなところで練習してるわけ……」
ギギギィ! と、年季の入った準備室のドアの開く音が鳴る。
何事かと振り返ってみると、そこには。
「え! この間の……」
彼女だ。
あまりクラスでは目立たなそうなお下げのメガネ女子。
前髪も彼女は長いため、あまり顔の表情はわからない。
「すみません、ここ使ってますよね。失礼します……」
「いや! 待って!」
「え?」
「えっと、その、言いにくいんだけど……」
「はい……?」
「君の歌を、もう一度聴きたいなって思って……」
自分で言ってて恥ずかしい。
正直女の子に告白するよりも恥ずかしいセリフではないだろうかと思った。
しかし彼女は。
「そ、そんな風に思ってくれただなんて……嬉しいです」
一瞬だけ見えた彼女の笑顔。それはとても輝いて見えた。
***
それから彼女は、観客俺一人だけのソロコンサートを開いてくれた。
音楽室の片隅にある、決して広くはない音楽準備室で。
窓から差し込んでくる夕陽の光。
それは後光となって、彼女が歌うステージを彩る。
時間にして十五分余り。
全部で四曲歌ってくれた。
その全てがアーティストの楽曲カバーではなく、自身で作詞した曲であった。
胸躍る、ということを経験したのは、野球以外ではこれが初めてかも知れない。
「えっと、あの、これ使ってください!」
「え?」
彼女は急に、俺にハンカチを渡してきた。
どういう意味であろうかと一瞬考えたが、気づいたら俺はまた泣いてしまっていたようだ。
「うわっ! ごめん、恥ずかしいな。一度ならず二度も泣いてるところ見られるなんて……」
女に泣きっ面を見せるなんて、男失格だな……。
しかしそんな俺を彼女は、何も言わず見守ってくれていた。
「ごめん、ハンカチありがとう。洗って返したいところだけれど……俺、もうこの学校には来れないんだ」
「え……!? そ、そうなんですか? どうして……」
「スポーツ推薦で俺はこの学校に入学したんだけど、色々あって部活をやめることにしたんだ。部活をやめたら学校も退学ってことになってるから……」
「そう、だったんですね……じゃあもう、会えないんですか?」
「明日からはもうこの高校の生徒じゃないからね。編入試験を控えてるから、勉強しないと。ははは……」
俺のせいで暗い雰囲気になってしまったため、笑って誤魔化そうとした。
けれども、彼女は悲しげな表情を浮かべたまま、俯いている。
しばしの沈黙が訪れるが、不意に彼女は口を開いた。
「いつか、また私の歌を聴いて欲しいです。もっと貴方のために、歌いたいです」
「え……」
「私、将来は歌手になるのが夢なんです。春休みの期間、東京まで一人でいって路上ライブとかもしたんですけど、道ゆく人は誰も振り向いてすらくれなくて……でも、貴方は初めて私の歌を真剣に聴いてくれました。それだけでなく、もう一回聴きたいって言ってくれました。それが私、とても嬉しかったんです……」
彼女には、夢がある。
夢を叶えるために、こうしてこの人気のないところで日々練習を重ねてきたのだろう。
俺が数日前に聴いた時よりも、彼女はさらに上手くなっていた。
弛まぬ努力を続ける彼女は、誰よりも美しく感じる。
「私、この間あなたが私の曲を聴いて泣いてくれた時、気づいたんです。私はこれまで、歌手になるために多くの人に向けた歌を考えてきました。でも、それは違うことに気づきました。歌にとって何よりも大事なのは、誰かのために、何かのために歌うことが大切なんだって。私はここ数日、貴方のために歌ってきました」
「俺の、ために……?」
「はい……貴方の心に寄り添うことができる音楽を目指して。そうしたら、一番自然な私の歌が歌えるようになりました。これから私は、人の心に寄り添える音楽を作っていこうと思います。そしてその音楽を、たくさんの人に聴いてもらいたい。もちろん、貴方にも……」
彼女の言葉を聞いてハッとした。
彼女は自分の夢と向き合って、何度も挫折してきている。
しかしそれでもめげず、自分の夢の形、その先の形を探求し続けている。
それに比べて俺は、たった一度の挫折でここまで廃れてしまった。
でも俺は、彼女の歌、そして言葉で勇気をもらった。
野球はもうできないかも知れない。でも、野球以外の夢をもう一度探してみよう。
自分の人生と、もう一度向き合おう。
「ありがとう。少なからず俺が君の力になれていたのなら、こんなに嬉しいことはないよ。もしかしたら、もう会えないかも知れない……けど、俺は君をずっと応援してる。君が歌手になって有名になっても、最前列は誰にも譲りたくない」
「うふふ……ありがとうございます。私が有名になったら、一階の最前列の席、確保しておきますね?」
「ははは……その時は、頼むよ。そうだ、お互い名前知らなかったな。俺は二年生の尾崎傑……と言っても、もうやめるんだけどね」
「私は一年生の
これが彼女ーー椎名真尋との最後の会話だった。
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