第2話

 潮は引いていた。少女の足は濡れた草むらに落ち着いている。

「初めて、大地に足をつけました」

「そうなんだね。今の気分はどう? 」

「まだ少し、恐ろしいです。・・・・・・でも、とても澄んだ空気です 」

 確かに少女の瞳は、月を浮かべて青薄く澄んだ海をありありと映していた。

「そろそろ、いけそう?」

 頷くのを見て、手を差し伸べれば柔らかい手が重なった。

 僕が佇んでいたあの場所は砂州だった。潮の満ち干きが早いらしい。あれだけ抗っていた海も、波の音さえもせず静まり返っている。

「君は、またあの塔に帰りたい? 」

「・・・・・・帰らなければ行けません」

 帰りたい、とは言わなかった。濡れた草の上をしばらく歩けば面積の狭い砂州が。僕は足を灯していた草を見て笑った。真珠のような実をつけた草だ。

「見てごらん、灯し草だよ」

 少女は目を落として、しゃがんだ。僕はそのビロードのスカートに瞬きをした。灯し草に照らされているのを見て、始めてその美しさが目についた。

「君、の名前は? 」

「・・・・・・深琴みことです」

「深琴は、なぜあの塔にいたの? ほんとに何も知らないの?」

「・・・・・・わかりません」

 塔を振り返れば、暗いうす気味の悪い白さの相貌。中にいた時はあんなに居心地がよかったはずなのに。

 背中をふるわせて、「僕のこと道流みちるって呼んでくれればいい」とまた砂を踏み歩いた。



  幻想を見ていたのだろうか。闇はただあの荒海だったのだろうか。僕たちが“おじいさんの家”を下り坂のふもとに見つけた頃にも眠り鳥は鳴いていた。深夜に入ったものと思い込んでいたのに。

 そして、オルゴールの奏が耳を撫でる。この音色を聴くのは僕が息をすることと一緒だ。「この子は・・・・・・うさぎさんでしょうか」深琴のものの言い方に疑問を思いながらも、そうだよと頷いてみせる。「やっぱり、不思議かな? うさぎがオルゴールを弾いているなんて」

 塔の中にいたならもしかしたら兎という概念も無かったかも知れない。だが深琴はそれを知っていた。本でも読んでいたのだろうか。確かに塔内の隅に本が積み重なっているのを見たかもしれない。

 だが、深琴は首をかしげた。

「うさぎさんはオルゴールを弾かないのですか? 」

 僕は少し笑った。

「そうだね。大体は弾かないのが常識かな。ただ例外はいる、あいつみたいにね」

 指を指すと深琴はうさぎの前にしゃがみこんだ。「はじめまして、うさぎさん素敵なオルゴールですね」うさぎはきょとんと首をかしげている。しばらく深琴

を見たあとでまたそ知らぬふりで音を奏で始める。主動力はうさぎなのだ。深琴の瞳はとても落ち着いた湖のような色をしていた。

「深琴は。そんな目の色も見せるんだね。とても穏やかな瞳だ」

 不意だった。ぱちぱちと瞬きをしたあとに、僕は頬にその手の温もりを感じた。

「あなたは、とても冷たい目をするのね」


 少女がとても人臭く感じた。

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