ヒトリと一人

Rain坊

ヒトリと一人

 生きている人間の呼吸がこうも気になるとは思ってもみなかった。手を伸ばせば届く距離にいるから――ということだけじゃない。微かなひと息ひと息が反響して彼女の存在感を際立たせているからだ。けれどそれが耳障りというわけではなく、むしろ僕の気分を高揚させてくれる。ぼんやりとしている彼女は規則的な呼吸の中に息をひそめた不規則な、ため息にも類似した静かで深い息をついている。緊張と疲れからか、表情が優れない。無理もない。エレベーターに閉じ込められて結構な時間が経ってしまったのだから。


 彼女は僕のことを知らない。だけど僕は彼女のことを知っている。彼女は川崎(かわさき)きよらさん。一か月前にこのマンションに引っ越してきた女性だ。

華やかさの欠片もない武骨で傷だらけ、どこか不気味さも感じてしまうほど薄暗いエレベーター。マンションの住人からも気味が悪いと言われ、あまり使用されていない。ここ数年では妙な噂も流れてその傾向がより一層強くなってきている。

出会うには相応しくない。

 巡り会うにはあまりに窮屈すぎる。

 そんな場所で僕は初めて彼女と出会った――とは言っても数分だけの邂逅だ。出会いと呼ぶには多少大袈裟だが、それでもここでは敢えて『出会った』と言っておこう。言い切っておこう。それだけ僕にとっては大きな出来事だった。衝撃的なことだった。ただこれは僕個人の印象というか、感じ方なので彼女――きよらさんとしてはそんなことは露にも思っていないだろう。見知らぬ他人とたまたま乗り合わせただけ、恐らくその程度だ。いや、そこまで印象的であればいいのだけれど数時間も経たない内に記憶の片隅に追いやられ、思い出すこともできなくなるほどの微々たるものだろう。そんな些細でなんてことない日常において、初めてきよらさんを視野に捉えた瞬間。

 僕は彼女という存在に心惹かれた。

 魂という曖昧で具体的ではない部分が確かに揺り動かされた。

 要はきよらさんに一目惚れしたのだ。

 二十と四年。これが生まれて初めての恋だった。

 ……ええっと、その、なんだか、こう――は、恥ずかしい!

 今まで色恋沙汰に縁遠かったので知らなかったけれど、誰かを好きになったということを真面目に語ることがこんなにも面映ゆいことだったなんて思ってもみなかった。しかもこの歳でやっとそれを経験しているという事実が輪をかけて恥ずかしい。

あまりの気恥ずかしさに顔を覆い隠したい。今すぐこの場から消えていなくなりたい。

 と、とにかく僕の心は見事に仕留められたわけで、それはなんだか出会いがしらにテロにあったような、初見殺しにあったようなで何とも言えない微妙な気持ちになってしまう。好きになったことを素直に喜べない。どうせなら少しずつ想いを募らせてほしかった。徐々に彼女のことを好きになりたかった。彼女からしたら随分と勝手な言いぐさだ。果てしなく身勝手な言い分だ。

つまるところ、これが惚れた弱みってやつなのだろう。惚れたその時から彼女に対する優位性は永遠に失われた。ただそういうことだろう。それならば納得できる。

初めて同じ空間にいたときに特別なことがあったわけではない。会話なんてものはなかった。できるはずがない。そもそもそんなだいそれたことは僕には不可能だ。やるとするならせいぜい何階ですかと訊ねることだけだっただろうが僕にはそれも無理だ。

 恥ずかしくて。

 だけど僕はきよらさんに惚れている。それだけはまぎれもない事実だった。

 どうしてここまで僕の心をかき乱すのか不思議に思ったこともある。でもそれは彼女のことを想っただけで解決した。彼女はとても魅力的、それだけのことだった。

腰の辺りで切り揃えられた黒髪は、少ない灯の中でもしっかりとした艶を発している。一度見入ってしまうと瞳が呑まれて視線を外すことができなくなる。だから彼女の姿を直視することはなく、横目で見るのが精一杯だ。

声は――未だに聞いたことはないが、吐息から微かに漏れ出る声とはいえない音を一つ一つ丁寧に拾い上げることで予想することはできる。それはまるで胸を締めつけてくる切ないピアノの一音。紡ぐことで奏でる言葉のハーモニー。聞き入ってしまう。 聞き惚れてしまう。

 狭いエレベーターの中で僕のところにやんわりと漂ってくる彼女の匂いは、女性特有の甘さと柔らかさを持ち合わせつつ、どこか懐かしくも感じさせるものだ。

目で何度も愛でて、耳で幾度も慈しみ、鼻で堪能する。魅力しかないのではないかと思うぐらい彼女の欠点が見当たらない。些か恋の盲目的フィルターが働いているようにも思えるが、恐らく気のせいだろう。

 後は、彼女と触れ合うことさえできればいいのだけれど、どうにかできないものだろうか。

 思えば昔から僕はこうだった。好きな人に対してどこか積極的になれずにいる。自分みたいな奴が――みたいな卑屈な気持ちが強いというのも勿論ある。だけどそんなことより僕には決定的に欠けていることがある。

傷つくことだ。

 僕は傷つくことに慣れていない。それを自覚してしまうほど周りに甘やかされて生きてきた。甘やかしに甘え、今では甘えの過剰摂取で肥太り、色んなことに身動きが取れなくなっている。生きていく中ではどうしてもそこで苦しめられた。世界はどうしようもなく息苦しく、そして生き苦しい。だけど生き続けるためには我慢をして妥協をするのが強さであり普通のことだ。それが当たり前だ。誰もが嫌だとは思いつつもやっている。生きるために。生き抜くために。しょうがなくやっている。

 人生は酸いも甘いも経験してこそ、と言われている。正にその通りだと思う。逆に良いことしか経験していない人間はどこか脆い。

 問題に弱く、

 困難に弱く、

 逆境に弱く、

 そして己に――とても弱い。

 だから僕は弱い。

 いや、もしかすると甘やかされて育ってきた僕が辛いと感じていることも他人にはなんてことないかもしれない。それもまた『甘え』なのかもしれない。そして僕には自分を変えられない。何故なら僕には境界線が分からなくなってしまっているから。何が甘えで何が普通なのか、それすらも。曖昧でいいかげん、何事においても中途半端。引きこもり気味で根暗。未だに日常レベルで迷い彷徨っている。それが僕なのだ。

 だけど。

 だけどそう。

 今はどうだろう。

 この状況は僕にとって日常といえるものだろうか。エレベーターに閉じ込められ、 そんな折に憧れの彼女と一緒にいるこの状況は。いや、そんなわけがない。こんなものは非日常だ。そもそもエレベーターに閉じ込められるという事象が生きている中でそうそう起こるものでもない。海外ならそれなりに起こることがあると聞いたことはあるが、ここは日本だ。その辺りはしっかりしている――はずだ。

絶対とは言えないけれどそれでも長時間どうにもならないなんてことが起こるとは考えにくい。ましてや何かしらの手でも使わない限り都合よく二人きりなんてなるわけがない。

 だけどそれが起きた。

 つまり、これはチャンスなのだ。今までの自分はへたれでへっぽこ、くだらなくてしょうもない人間だ。だけどそんな己を変える機会が訪れたのではないかと僕は考える。その一歩が踏み出せなかったこの足が嫌だった。だけどお膳立てはここまでできているのだ。一歩を踏み出すまでもなく倒れ込むだけで変われる機会がやってきた。それでやらなきゃ男じゃない。後はただやるだけなのだ。行動に移すだけだ。

 そうだ。僕は今日こそ彼女とお近付きになりたい。たったそれだけで僕の捻じれてしまった何かが元に戻る、そんな気がする。



 エレベーターが停止してすぐに彼女は外部との連絡を試みた。エレベーターに備え付けてある非常用呼び出しのスイッチを押す。このスイッチを押すと、エレベーターの管理会社の方へと連絡が行く。つまりそれで助けが来るということだ。

プツッという音が鳴った。

 外部に繋がったと思った彼女はこれで助かると安堵したのだろう、胸を撫で下ろしていた。だがそれもその後に流れてきた『ざぁ――――――――――――』というノイズ音で掻き消えた。

 僕は一連の流れをじっと眺めているだけだった。



 まだ助けは来ないのだろうか。それなりの時間が経過したと思う。僕には時間を確認するものがない。それに狭くて薄暗い中にいると時間の感覚が分からなくなってくる。時間をどうしても弄んでしまう。どうしたものかと考えているときよらさんの様子がおかしくなっていることに気付いた。

「ふぅ……」

 彼女がため息をついた。心なしか顔色がさっきよりも悪くなっている気がする。それはそうだ。あの後何回も外部連絡用のスイッチを押していた。そして何回もあの無機質な音が流れるのを聞いては落ち込んでいた。気落ちするのも無理はないのかも  ――いや、待てよ。そう言えば聞いたことがある。

『パニック症候群』。別名、不安障害ともいうのだが、その名の通りこの症状は強い不安にかられてパニック状態に陥ってしまう。さらに呼吸困難、動悸、吐き気、眩暈、嘔吐、発汗、手足の震え、冷え、のぼせなどの身体的症状にも及ぶ。無意識の発作が起きてしまうらしい。自分が嫌だと思ったもの、苦手なものに接触した場合に起きる。一度発作が起きた場所なんかに行くと起きたりするらしい。実際には因果関係はない。だがその場所に行くとまた発作がおきるのではないか、という恐怖。逃げたくてもすぐには逃げられない。発作が起きたら恥をかく。何かあった際、誰も助けに来てくれない。そんな強い恐怖や不安が招いてしまうのだ。そしてそのような感情になりやすい場所がある。例えば、飛行機や地下道、トンネルや高速道路、人ごみなんかも対象の場所だ。そして今いるエレベーターもその一つだ。

 もしかすると彼女は現在その症状に陥っているのではないのだろうか?

 見知らぬ男と二人きり。脱出できると分かっていても不安には違いない。

改めてまじまじと彼女を見てみると彼女は自分の身体を抱きかかえている。頭を伏せているので表情を窺うことはできないが、彼女の肩がぷるぷると震えているのが分かる。彼女と二人きりという奇跡的な状況に浮かれていて気付いていなかった。

もしかして彼女は発作の状態なのか?

 不安が募る。あくまで発作は仮定の話だ。僕が話を膨らませて勝手に邪推しているだけなのだ。実際はエレベーターの中が寒いだけで暖を取っているだけかもしれない――いや、まてよ、そんなわけがない。そうだ、思い出した。確か今の季節は夏。むしろ密室に閉じ込められて息苦しさや暑さを感じるはずだ。寒さで身震いするなんてことありえない。ずっと外に出ていなかったからすっかり忘れていた。ならばここだけ寒いとか――馬鹿な。局地的に寒く感じる場所などそうそうあるわけがない。ああ駄目だ。不安過ぎて思考が上手く働いていない。頭が混乱する。こんなんではいけない、そう思った僕は頭を冷やすために首を左右に回した。

 一回。

 二回。

 三回。

 一息ついて自分が落ち着いたのを確認する。

 ふと、こんなことをやっていると彼女に不審に思われるのではないかという考えが頭をよぎって彼女の方を横目で見たが、俯いて黙っているだけだった。よかった、彼女の方は何とも思っていないようだ。それはそれで複雑な気持ちではあるが。

とにかく寒さでという選択肢はなくなったと考えよう。しかしそうなるとまた発作かもしれないと疑ってしまう。勘ぐってしまう。自分のことではないというのに胸が痛くなる。そんなことはまやかしだと分かっている。痛みが僕に起きるわけがない。そう、己に言い聞かせる。そうだ、僕が不安になってはいけない。僕は下唇を噛み締めた。しっかりしなくては余計に彼女を不安にさせてしまう。恐怖を与えてしまう。

「まだなの……」

 初めてしっかりと聞いたその声はとても弱々しいものだった。声を聴くことができた嬉しさよりも心配の方が勝る。大丈夫なのだろうか。君はこんなにもすばらしい人だというのに僕は何にもしてあげられない。じれったくなる。自分の不甲斐なさが恨めしい。自分で自分を呪い殺したくなる。どうしてこんなにも僕はだめなのか。どうしてここまで僕は糞野郎なのだろうか。気付くと左手を力いっぱい握り締めていた。痛さはもう感じない。その代わり悔しさだけが残る。自己満足で無意味な自傷行為でもやっておかないと気が狂っちまいそうだ。

 馬鹿なことしか考えられない頭でもその辺にぶつけるか?

 いらつきを溜め込んで固まった拳を突き出すか?

 それともここから動けないこの身体で体当たりでもするか?

 ああ。ああああ。ああああああっ糞!!

 頭をエレベーターの壁に叩きつける。ぶつかりさえすればどこでもいい。そんな気持ちを文字通り振り回しながら僕は動く。

 ガン! ガン! ガン! ガン!

 頭が壁にぶつかるたびにエレベーターが揺れる。だが気にせず僕は続ける。頭がふらついたので今度は拳を、腕全体を鞭のように使って猛打する。

 バン! ドン! ボン! ベン!

 またエレベーターは揺れる。気にしない。だんだん腕が上がらなくなってきたので身体をぶつけにいく。

 ドゴン! ドゴン! ドゴン! ドゴン!

 落ちるのではないかというぐらいの揺れが起きた。

「うっひゃひゃひゃひゃひっゃひゃっひゃひゃひゃっひゃっひゃひゃひゃっうひゃひゃっひゃひゃひゃうひゃっひゃっひゃっひゃ」

 子供が地団駄を踏んでいるように暴れ回った。意味などない。僕のいる世に意味があることなど一つもない。奇行に逃げている最中はずっと笑っていた。そしてそれは疲れて動き回るのを止めてからも続いた。笑い声は反響して何重にもなって聞こえる。

「もういや!」

 悲痛な叫びが混じった。それを聞いて僕は正気に戻った。笑うのを止め、叫んだ本人、きよらさんの方を見ると彼女は耳を塞ぎ目を閉じ、そして――泣いていた。

「誰、か……助、けてよぉ」

 頭を抱えて消え入るようにそう呟いた。しゃくり上げて泣いているので言葉が途切れ途切れになっている。呼吸をするのもきつそうだ。だけどそれ以上に僕が彼女をそうさせてしまったのだ。あれだけ怖がらせないように気をつけようと思っていたにもかかわらず、僕がとち狂った行動をしたせいで彼女を怖がらせてしまった。

 失敗だ。

 失態だ。

 罪悪感に苛まれる。あんなに艶があった髪は水垢にまみれた洗面台の鏡のように曇って、声は泣き崩れてすっかり鼻声になってしまっている。僕の心を射止めた綺麗なあの姿はまるでない。乱れて崩れ去っている。脆弱な彼女の素を垣間見てしまったみたいだ。そんな状態本来なら他人が、ましてやエレベーターで一緒になった程度の男が見られるものではない。見るべきものではない。禁断の何かを覗いてしまったようなバツの悪い気持ちになる。

だからといって目を背けることはしない。むしろ彼女の弱りきった姿をしっかりと見る。己の罰を見逃さないように、見て見ぬふりをしないように。僕にはそうする責任がある。だから決して彼女から視線を逸らすことはしない。かなり辛いことだが本当に辛いのは――ああ、そっか。

 僕は自分の間違いに気付いた。

 一体何をやっているんだ。

 恐怖で震えているのかもしれない、不安で押しつぶされそうになっているのかもしれない、寒さで震えているのかもしれない――そんなことはどうだっていい。原因なんてものは知る必要はないんだ。僕がやらないといけないことはそんなことではなかった。失敗したのなら取り返せ。いや、例え自分のミスでなかったとしても僕は彼女に手を差し伸べるべきだ。

 だってそうだろう?

 惚れた女が泣いているのなら、それを拭ってやるのが僕の、彼女のことを愛してしまった男のやるべきことだ。一番大事なことは彼女を救ってあげることだったのだ。護ってあげることだった。女を泣かす男は最低だが、泣いている女に手を差し伸べない男はもっと最低だ。怖がっているなら言葉を掛けて気分を紛らわせるべきだった。具合が悪いなら介抱するべきだったのだ。そこに何の躊躇いがあるだろうか。

 僕は彼女に向かって手を伸ばす。

 ――ごめんなさい、僕のせいで。でもそれももう終わりです。彼女の肩に手が届くまで後、三十センチ。

 ――意気地がなかった。勇気が出なかった自分をいつも責めていた。変われないと諦めていた。でもそうではなかった。変われないのではなく、変わる方法が分からなかったわけでもない。変わる必要がなかった。本当は言い訳がしたかっただけなんだ。後、二十センチ。

 ――君は僕のことを知らない。それは僕が君に心を開いていなかった。好きだという気持ちを持っていながら僕は君との些細な、だけれど圧倒的な差異によって蝕まれていた。けれど、もういいんだ。後、十センチ。

 ――最初にどう声を掛けてみようか。やっぱりまずは彼女の涙を止めることから始めよう。後、五センチ。

 ――ああ、あとちょっと。あとちょっとで彼女に触れられる。恋焦がれている彼女にやっと触れられる。後、二センチ。後――一センチ。指先が彼女に触れようとした その時、

 ガコン!

 彼女は音に驚いて伏せていた頭を上げた。ガガガと引きずるような音と共に光が外から入ってきた。光は徐々に大きくなり彼女も僕もあまりの眩しさに思わず目を一瞬細めた。眩しさにも慣れ、光の入ってきた方を見ると、停止していたエレベーターの扉が開いていた。そしてそこには作業着を着た中年の男性が立っていた。



「遅くなって申し訳ありません! 私、エレベーターの管理会社の者です。大丈夫ですか?」

 彼女はそれを聞いて胸を撫で下ろしていた。鼻声で、

「は、はい」

 と短く答えた。僕は黙っていた。

「おい、お前は基盤の方を頼む」

 後ろを向いて中年の男は言った。よく見ると管理センターの人は二人組だったようだ。奥に同じ作業着を着た若い真面目そうな男がいた。若い男は「はい」と小さく言うと外で機械を取り出して何か作業を始めた。

 中年の方がまたエレベーターの中に視線を向け、狭い中を軽く見回して言った。

「お一人ですね?」

 彼女は立ちながら言った。

「はい。一人です」

 僕はそのやりとりを黙って眺めていた。

「そうですか。とりあえず事故原因を調べますのでここから出ましょうか」

「はい」

 彼女は急いでエレベーターから降りた。

「それではエレベーターが停止した時の詳しい様子をお聞きしたいのでとりあえずこちらに――」

「あの……」

中年の男の話を途中で切るように、また窺うように彼女は声をかけた。

「はい、どうしました?」

 話を途中で切られた中年の男はしかし、嫌な顔一つせず丁寧な対応をした。彼女は幾度か逡巡した様子を見せた後、躊躇いがちに言った。

「ええっと、あの、ですね。ここって、幽霊が出るって噂があるんですけど、それって……本当ですか?」

「ああ……。まあ、確かにそんな噂はありますね。四年前にエレベーターの事故で死んだ男のって話でしょ? 実際にそういう事実があるからあまり言いたくはないんですけど、正直困ってるんですよね。誰も乗っていないのに勝手にエレベーターが動いているとか、叩く音が聞こえるだの。まあ大方誰かの悪戯だとは思うんですが。毎回調べてもみても故障はしていないですし。管理する立場としては迷惑ですよ、まったく。ああ、そうだ。来月からこのエレベーターは取り壊しが決まっているので利用しない方がいいですよ。いつ故障してもおかしくないくらい古いですしね。どうだ。そっちは。ちっ、やっぱり外部連絡用の機械壊れてない。ほらね、どこかおかしいのでやめておいたほうがいいですよ」

「そう、みたいですね」

「顔色悪いですけど大丈夫ですか? 病院に連れて行きましょうか?」

「い、いや。大丈夫、です」

「……そうですか。うーん、そうですね。あまり調子もよくないようですし、お話の方はもう結構ですのでしっかりとお休みになってください」

「はい」

 彼女は小さく一礼すると振り返ることもなく逃げるようにその場を立ち去る。ここから出られない僕は彼女を追いかけることはできない。だから彼女の後ろ姿をじっと見つめていた。エレベーターの扉が動く。扉が閉まる直前に僕は言った。

「いつかきっと、あなたを独り占めにするからね。きよらさん」

 僕はまた、暗い所に閉じ込められる。

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