第19話 決別


 季節は移り変わり、すべてのものを燃やさずにはおかないような夏の日差しが、アスファルトを照らし続けている。


 雨池が失脚したあと、空白となった営業部門の責任者として、金川社長は私を指名した。結果として、長年にわたって雨池が守ってきた縄張りを私が奪い取ったのである。花形である営業部門をみるということは、会社の業績の浮き沈みを先導するという重責である。やりたいとしても、誰もがなれるポストではない。


 社内では、私は雨池を追い出した金川社長の懐刀として見られ、良くも悪くも一目を置かれる存在となった。日増しに、私の発言、権力が社内で高まっていくのを自分でも感じるようになった。


 もう一つ、嬉しかったことがある。


 長期職場離脱をしていた秋谷が、会社に復帰することができたのだ。はじめのうちは、総務課所属として半日勤務からではあるが、少しずつ生活基盤を取り戻しつつあった。奥さんもきっと喜んでいることだろう。秋谷は、私の部屋に来て、涙を流しながらお礼を言ってくれた。


 元出向先であったZ社のデューデリジェンスも無事完了した。特に、買収に障害となるものも見つからなかった。今月末の大安には、私が現地を訪れて、調印式をやることで決まった。向こうの社員たちが、会社を事業譲渡した私を許してくれるかは分からないが、とりあえず安堵した。


 すべてが、私の思い通りに事が進んでいるように思えた。



 その日は、社内の部門別業績管理表に目を通している時に、私のスマホが鳴った。業績がなかなか思ったようにならず、イラついていたところだった。普段なら、着信の相手をみてから電話に出るのだが、その時はなぜか無意識で出てしまった。


「やっと、繋がった。あなた、一体どういうことなの? 最近、連絡も取れないから、どれだけ心配したと思ってるの? こっちに様子を見にきたら、アパートは引き払っているし、こっちの会社に聞いたら本社に戻っているというじゃない。ちゃんと説明してよ……」


 元出向先の会社と住んでいたアパートに、妻が光輝を連れて向かったようだ。もぬけの殻に慌てて、電話をしたらしい。


 この電話に出てしまったことに後悔した。


 ここ数日、妻からの着信が何件も残っていた。電話の奥からは、これまで見せた事がないような妻の怒りと憤りを感じる。


 あまりにも不意打ちの電話であったため、言い訳が全く浮かばなかった。妻は、そのままとんぼ返りするというので、東京に戻ってきてからきちんと話すとだけ言って、電話をきって逃げた。


 とやかく理由をつけて、誤魔化し続けたが、もう限界だった。姑息な時間稼ぎはもう通用しないことを悟った。



 妻との結婚生活はもう13年になる。


 頼りのない旦那であったと思うが、私自身は不貞はない。大きな喧嘩もしたことはないし、結婚したことに後悔はない。我ながら円満な夫婦生活だったとは思う。世間から見れば、鬼嫁に尻をひかれているように見えるが、私自身はそれでもよく、むしろそれが心地よかった。


 だが、歳を重ねるごとに、周りからも社会的にも子供を要求された。


「はやく、孫が見たい。いつまで、待たせるんだ」「あの人は、子供ができない体なのかしら」「子孫を残せないやつは、社会不適合者だ」


 そりゃ、子供は欲しいとは思うが、死ぬまで夫婦二人っきりの生活で終えても悪くはないと本気で思っていた。気持ちがあせればあせるほど、子供には縁がなかった。二人で相談した結果、不妊治療を始めることにした。


 だが、不妊治療とは、我々が想像したよりもはるかに壮絶なものだった。ホルモン剤、排卵剤の誘発剤、漢方治療など可能性のあることはすべて試してみた。そのぶん、金と時間を費やした。


 男の私にできることはほぼ無く、妻を励まし続けることしかできなかった。期待しては絶望し、期待しては絶望するの繰り返しだった。


 ついに、妻は精神、身体ともにボロボロとなった。医者からも、この歳ではもう子供は諦めた方が良いと諭される始末だった。


「いままで、よく頑張った。もうこれ以上は限界だ。子供は諦めよう。子供がいなくても、俺は十分幸せだ」


 ある夜、私は妻にこう言った。


「子供を産めなくてごめん……」


 暗闇の中、妻は布団の中で泣いた。私も妻から漏れてくるすすり泣きを聞きながら、人生は思い通りにならないものだと泣いた。そして、私達は不妊治療をやめた。


 

 不妊治療を辞めてから半年後、妻が自然妊娠していることがわかった。思いがけない授かりものに、私達は喜びを爆発させた。真面目に生きていれば、こんな奇跡が起こるのかと思った。


 苦労した分、この子には光り輝く人生を歩んで欲しいと、「光輝」と名付けた。



 その夜、実家の母親から電話がかかってきた。多分、妻が私の実家に、言いつけたのだろう。何度も無視したが、あまりにしつこいため、出ざるを得なかった。


「あなた、聞いたわよ。なにやってるのよ。奥さんとまだ小さい子供を放ったらかしにして。いい大人が情けない。父親の自覚はあんの?いい加減にしなさい!!」


 こっちの気持ちも考えずに、とめどなく説教をしてくる。子供のころから、こっちの言い分をまったく聞かない様は、昔と同じだ。父親の自覚?そんなのあるわけないだろう。当然だが、遺伝子検査を受けたことを言っても、納得してもらえないだろう。電話の奥でまだなにかごちゃごちゃと言っているようだが、そのまま電話を切った。


 親から何度も続く着信を無視した。あまりにもウザいので、電源を切った。それよりも、妻に何を言えばいいのかをずっと考えていた。



 私には三つの道がある。


 すべてを妻に打ち明け、妻と光輝を拒絶する人生。


 すべてを打ち明けた上で、不貞を働いた妻を許し、光輝を自分の子供として育てる人生。


 何も話さずに、何も気づかないふりをする人生だ。



 翌日、妻は会社近くの喫茶店に、私を呼び出した。平日でないと、また私が逃げると思ったのだろう。覚悟を決めて喫茶店の席につき、妻と面と向かっても、結論が出ていない。


 光輝は、妻の実家に預けてきたのだろう。目の前に光輝を現れたら、自分が何を言い出すのか、どのような行動をするのかが分からず、怖かった。それを回避することができて、ほっとしている自分がいた。


 久しぶりにみた妻は、目の下には大きなクマができており、やつれたように見える。疲れ切っていて、別人かと思うほどだ。その様に、同情の気持ちは湧いて来ず、自分の人生をめちゃくちゃにしたという憎しみしか生まれてこない。


 店員にオーダーしてから、アイスコーヒーがテーブルに運ばれるまでは、妻も私も一言も話せなかった。お互い、まともに目線も合わせることができなかった。なにを話せばいいのだろうか。10年以上も夫婦をやっているのに。


 妻が、胸のなかに詰まっていたものを絞り出した。


「どういうことなの? ちゃんと説明してよ。」


「そうだな。東京に戻ってきたことを黙ってて悪かった。」


 妻は、アイスコーヒーを一口含んでから、ようやく私の顔をまっすぐみた。


「それも、東京に戻ってきたのは、年明けだったらしいじゃないの? なんで、連絡もしなかったの? まさか、向こうで好きな人でもできたの?そうならば、ちゃんと、そう言ってよ。」


「そんなことあるわけないだろう!!」


 妻のあまりにも的外れな疑いに、さすがに苛立ちを隠せなかった。自分のことを棚に上げて、何を言ってるんだと。裏切ったのはお前だろう。


 また、沈黙の時間が過ぎた。次に何を話せばいいのだろうと悩んでいると妻がうつむきながら言った。


「私もずっと考えていたの。なぜ、あなたが、うちに戻ってこなくなったのかを。私も反省もしたわ。私は会社で起きていることはよくわからない。だけど、急に出向になって、あなたが落ち込んでいたことはわかる。あの時、私は光輝を連れて、あなたと一緒に何処へでもついて行くべきだった。それでも、私は田舎には行きたくないとわがままを言って断った。あなたを一人で送り出してしまった。あの時は、慣れない子育てで精神的に余裕がなかった。幼い光輝をつれて、見知らぬ土地へ行く勇気ができなかった。結果として、あの子とあなたを引き裂いてしまった。それが原因なんでしょ。本当にごめんなさい。」


 今さら、なぜ妻はこんな嘘をつくのか。子育ての大変さを理由にするなんて、どういう心境なのだろうか。どうしても、自分の過ちを認めようとしないのか。どうせ、光輝の本当の父親、浮気相手と離れることができなかったんだろうと思った。俺から金だけをむしり取りやがって。


「それはもういい……」


「じゃあ、なによ。もう。あなたが何を考えているか、全然わかんない!! はっきり言ってよ!! まだ幼い光輝をほったらかしにして、私たちはこれからどうすればいいの? この前みたいに、光輝が突然いなくなるとか怖い事がいつ起きるのかわからんのよ。私一人であの子を育てるのなんて絶対に無理。助けてよ。」


 また、始まった。妻は、困ったら自分の感情を押し付けようとする。物静かな喫茶店に、妻の感情的になった声が響く。もうこれ以上、俺に関わるのはやめてくれ。その浮気相手と、何処へでも行けばいいではないか。だけど、思ったことを素直に言えない情けない自分がいる。


「お前の気持ちはわかった。今まで通り、ちゃんと生活費は払う。しばらくの間、別々に暮らさないか……。そうしよう。」


 私は、第3の道を歩こうとした。いや、もっと卑怯な道だ。


 つまり、妻には本心を何も話さずに、何も気づかないふりをする人生だ。これならば、金は払い続けるが、偽の息子と会う必要がない。私だけが我慢をすれば良い。それならば、今まで通りだ。妻から別れたいといえば、喜んで別れてやる。これで、どうだ。


 仮に、この場で妻を問い詰めるとしても、心の整理がつかず、まだ時間がかかるような気がした。この後に及んで、姑息な時間稼ぎをしようとしたのだ。


「なぜよ? 私は思っていることを全て話したわ。あなたは、自分の気持ちをなにも話してくれないじゃない。あなたは卑怯よ。百歩譲って、私のことはいいわ。光輝はまだ3歳よ。あの子が可愛くないの?」


 アイスコーヒーのグラスの中の氷がぱちんとはじけたのと同時に、私の心の中で何かが弾けた。頭が割れるように痛い。胸も締め付けられるように痛い。私の意識が飛んだような感覚があった。


「頼む。教えてくれ………そもそも、光輝は本当に俺の子なのか? 」


「自分がなにを言ってるのか分かっているの? あなた、一体どうしてしまったの? 」


「………」


 何も言い返さない夫に向かって、妻はスマホの待ち受け画面を見せつけた。


「これがあなたの息子です。忘れたの。しっかりと、目に焼き付けておきなさい!!」


 妻は、情けない夫の姿に、哀れみと悲しみで完全に打ちひしがれる。私は居ても立っても居られない状況に陥り、錯乱状態に落ちている妻を置いて店をでた。


 私は最低だ。また、逃げた。


 不貞を働いた妻は、時間をかければ許すことができるかも知れない。婚姻関係となったとしても、所詮は他人だ。自分の性欲に負けて、他の男に走ることもあろう。ただ、血の繋がりのない光輝の存在を許すことをどうしてもできないのだ。妻がいくら私は無実だと感情的に訴えをしたとしても、遺伝子検査の結果が「あなた達は親子ではありません」と科学的に立証しているのだ。


 私と光輝とでは、Y染色体の遺伝子が異なっている。遺伝子からは、決して逃げる事は出来ないのだ。


「待ち受け画面の光輝」は満面の笑みを浮かべていた。画面上の光輝は、生まれたばかりの面影を残しながら成長をしていた。


 だが、私は愛情という感情が全く湧き出てこなかった。

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