アルゼンテイ

Rain坊

アルゼンテイ

「パスタが食べたい」

 会社の昼休みが五分前に終わり、まだうっすらとカップラーメンの匂いが漂う中、さあ仕事をやるかと意気込んで背伸びをしたとき、ふと僕はそう思った。一度そう考えたが最後、頭の中にパスタが茹で上がる光景が流れる。沸騰した鍋の中にパスタを入れ、そしていい感じに茹で上がるの待ってざるへと移す。ふわりと湯気が顔にかかり、少しだけしょっぱい匂いがする。お湯を切り終わると一本だけパスタを手に取る。黄色に輝いていて美しい。そして口元へ運ぶと一気に吸い取り――。

ひと時の回想を終えた頃には、僕は無性にパスタが食べたくなったのだった。



 仕事の最中はとにかくパスタのことで頭がいっぱいだった。そういえば最近おいしいパスタ専門店が駅前に出来てたなと考えながら顧客情報を入力する。そして気付くと顧客の名前欄にはカルボナーラ、ナポリタン、ペペロンチーノ、ペンネ・アマトリチャーナ、ボンゴレ、ミートスパゲッティなど、ありもしない顧客のデータを入力していた。あまつさえ、それらの誤った顧客データを上司にメールで送信していた。上司からは、

「いつからうちのクライアントはおいしそうな方ばかりになったんだろうね」

 と、皮肉交じりに再提出の旨を告げる電話が掛かってきた。数日、上司からは目を合わせてはもらえなかった。けれど僕のパスタへの照準だけはがっちりと合わさっていた。

 午後からもさらにパスタへの思いは募り、同期のやつらがコンペに関する打ち合わせをしに来た時は、

「ここのところだけど、このままだと場所が分かりづらいから地図とか載せておくか」

 チーズとか乗せておくか!

「いいんじゃないか」

 ――コクが深まって。とろけたチーズがパスタに絡みつき、風味も増す。僕は頷きながら想像で料理を堪能していた。

「いや、でもそれだと安直だと思う。その分のスペースを企画意図の説明として3D図に使った方がいいんじゃないか?」

 ――アンチョビだと思う! パスタにアンチョビの塩気が重なりあって、それはまさにデリシャス。

「確かにそれも捨てがたい」

 チーズもいいが、アンチョビもまた悪くない。腕を組んで、うんうんと悩むそぶりをする。

「それでも載せておいた方がいいと思う。ほら、もしも間違ってここにいったら、こういう感じで迷ってしまうかもしれないじゃないか。それこそ先方に時間を取らせてしまう」

 ――たらこ、迷ってしまう! 舌をぴりりと刺激する辛さ。一粒一粒のはじけるような食感、それはパスタの味を引き立たせる。

「お前はどう思う?」

「うーん、迷うな。確かに迷うな」

「だろ」

「ああ、迷う。僕なら完全に迷う」

 チーズかアンチョビかたらこかで。

「おいおい、どれだけ方向音痴なんだよ」

 などと同期の連中に笑われてしまったが、僕の耳には届かなかった。むしろ同期が真剣に話し合う中、僕の口の中は唾液でいっぱいになっていた。スマホで調べものをするフリをしてパスタ料理の画像を眺める。どれもこれもおいしそうだった。

その日はまるで仕事にならなかった。





 自宅に帰り、さっそくキッチンへと向かう。大きな鍋を用意し、水を入れて火にかけておく。

「何にしようかな~」

 鼻歌まじりに冷蔵庫を開ける。中には缶ビールしか入ってなかった。冷蔵庫の中に食材が入っている前提でものを考えていたが、そういえば僕は普段からあまり料理をしない男だったことに今更気付く。パスタへの思いのあまり、自分のことすら忘れてしまっていたようだった。

「まっ、いっか」

 鍋の水が沸騰した頃合いを見計らって塩を入れる。そしてパスタを軽くねじるようにして鍋に投入。徐々に沈み込んでいくパスタを少し眺め、ちょっとしたS気分で「ほら沈めよ」と熱いお湯の中に箸で押し込んでいった。

 茹で上がり、ざるへとパスタを移す。ふわっと湯気が舞い上がって眼鏡が曇る。見えないけれど匂いだけで僕は喉をごくりと鳴らす。

 一本だけパスタを手に取り、口元へ運ぶとちゅるりと吸い込む。

「う~ん、アルデンテ!!」

僕は最高においしい素パスタを食べたのだった。

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アルゼンテイ Rain坊 @rainbou

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