第18話 人生には自分なりの物差しが必要なのだと思う Part2

妻との問答をきっかけに脳内で様々な考えが駆け巡るなかで、私はストレスを軽減する、あるいはより広い意味合いで人生を豊かにするための重要な要素に思い当たった。


それは、「自分なりの物差しを持つ」ということ。


Part1で述べた内容に沿って考えれば、「他の人達もそういった状況を抱えながら生きているのだ」「そんなことを言い訳にして休んではダメなのだ」「そんな理由で転職をしても結局はうまくいかないのだ」とは考えないということだ。端的には、私の妻が言ったように、「他人は他人。自分は自分。自分自身が辛いとか苦しいって思っている事実に目を向ける」ということになる。


まぁこうやって改めて言語化してみると、どうにも様々な自己啓発書で目にしたことがあるような内容だ。もしかすると、アドラー心理学か何かの本でも同じような内容を目にしたかもしれない。


ただ、「自分なりの物差しを持つ」という解釈を自ら与え、それを心に留めることができたということが重要なのだと思っている。先人たちが幾度も幾度も擦ってきた内容であるかどうかというのはこの際関係ない。



「自分なりの物差しを持つ」


これは、”かもしれない”私を含むHSPである人にとっては非常に重要な要素だと感じている。


Part1でも述べたことではあるが、非HSPである人よりも日々あるいは人生において大きなストレスを抱える可能性が高いHSPである人が、非HSPである人と同じように振る舞い、同じように”頑張る”ことで、どうして健康で文化的な最低限度の生活を送ることができると言えようか?という話である。


これは各所で語られている通りHSPである人の割合が全体の20%程度という前提に立ったうえでの話ではあるが、第15話でも述べたようにHSPである人はマイノリティであると言える。つまりは、(本来、私はまだ自分自身をHSP”かもしれない"という程度にしか定義付けられてはいないが、僭越ながらあえて「私はHSPである」と定義付けると…)HSPである私たちのように物事を捉えたり感じたりする人というのはおそらく圧倒的に少数だろう。


HSPである私たちが日々辟易し、ストレスを感じるような物事であっても、大多数の人たちは何も感じないか、多少のストレスを感じる程度ということだ。これはつまり、そもそもHSPである私たちとは異なる「物差し」を持っている人たちがほとんどだと言って良いだろう。そして、そんな異なる「物差し」を持っている人たちの振る舞いや生き方に無理やり合わせようとしても、どこかで帳尻が合わなくなるのは目に見えている。


しかし、残念ながら、いつの時代もマジョリティの「物差し」が社会の「物差し」として定義される。国内においてもHSPへの理解が進むことを私自身も願ってはいるものの、前時代から社会一般ですでに認知されてきたうつや発達障害、LGBTQに対する今日における受容状況を踏まえると推して知るべしだと感じているというのが正直なところだ。


そして、だからこそマイノリティである私たちは、「自分なりの物差し」を持たなければならないのだと感じている。社会的な受容を願いつつ、ただそれを待つのではなく、自ら「自分なりの物差し」を持って、それに基づいて人生を選択することが重要なのだと。自戒を込めて。

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