第16話 アンジュ=サットンと買い物①


「え…」



その日起きるとなぜか制服も着ていない彼がソファーに座ってテレビを見ていた。



「何だよ、その顔」



いつもなら彼は制服姿で朝ご飯を作りながら起きるのが遅いと怒るか、制服姿で鞄に荷物を詰めながら起きるのが遅いと怒るか、制服姿で寝室に来て起きるのが遅いと怒るかだった。つまりいつも朝は制服を着ていた。


しかし、今日は着ていない。



「いや…制服…?」



目をこすりながら彼の隣に座る。



「土曜日まで制服着るかよ」



そんな私をちらりと見てから彼は視線をテレビに戻す。



「土曜日は学校、無いのね」



一度大きなあくびをしてから彼同様テレビを視界に映す。テレビでは女の人が今日の天気を事細かに説明している。横にいる顔洗ったか?だの歯は磨いたか?だの口うるさい彼にうんうんと適当に相槌を打って、テレビを見つめる。


あの日以来彼の過保護ぶりには拍車がかかっている。その扱いに不満がないわけではない。しかし、私はまだ自分でご飯を作ることも洗濯をすることも出来ない。おまけに髪を自分で乾かす気もない。そして、こちらには負い目がある。彼に逆らうことなどできないのだ。



「今日出掛けるからな」



彼はテレビの中の女性が一通り天気を伝え終わると一度伸びをしてからそう言った。



「えっ!!どこに⁉」



テレビから彼に視線の方向を変える。


この数日間私の生活と言えば朝、機嫌の悪い彼に起こされて朝ご飯を食べた後、彼を見送って、昼までテレビを見て、昼ご飯を食べて、彼が帰ってくるまで通販番組に突っ込みを入れながらテレビを見て、彼が帰ってきてから一緒にテレビを見て、夜ご飯を食べて、テレビを見て眠るというものだった。


このままでいいのかとは何度か思ったが、焦っても一人でできる事は何もないのでこの生活をただ受け入れていた。だが毎日ベランダに出て外へ出たいという欲求を持て余していた私にこの提案は魅力的すぎるものだった。



「この間休みの日に帰る方法探しに行く準備をするって言っただろ」



そんな私を見て彼は冷めた視線を投げる。先程まで彼の話を全く聞いていなかったことがばれているみたいだ。首を竦めて笑ってみせると彼は一つ大きなため息をついた。この前テレビでため息をつくと幸せが逃げていくという話を聞いた。彼から一体いくつの幸せが私の所為で逃げて行ってしまっているのか…








「わぁ!!なにこれ!これも!ねぇ!神田!これは何⁉」



あの後彼は適当に私へジャージとは違う洋服を渡して着替えるように言った。チェックのシャツにベージュのズボンといった元の世界でもよく見かけたものだった。着替えた私を見た彼に似合わないなと笑われて腹は立ったが、新しい洋服に胸が高鳴っていてそんな怒りなどどうでもよかった。


廊下を歩いている最中に彼の大きすぎる靴の所為で今回も転んだ。そんな私を見て彼はまた笑った。


駅に着いてから、人の多さに面食らって、迷子になりかけた私はとっさに彼の手を握った。真っ赤になる彼を見て朝の仕返しだと満足だったのだがその後乗った電車の所為で私はこの手を放すタイミングを完全に失ってしまった。


電車を降りた後は彼が街中で駆け出していきそうな私の手を離すまいと必死に握っている。赤くなることも忘れて。



「ちょ!!頼むから走るな!」


「遅いわ!神田!」



私の世界でいう市場であるここは私の知らないもので溢れていた。様々な見たことの無い食べ物を売っている店、音楽の流れる洋服店に何やらギラギラ輝く建物、そして驚くほどの人、人、人の群れ。ここで興奮するなという方が難しい。



「一旦!!落ち着け!!」



あっちへ、こっちへと走り出しそうな私の手を神田が思わぬ力で引っ張る。顔が思い切り彼の胸板にぶつかった。


痛い…


彼はよっぽど私の手綱を握るのに必死なのかそこまで私が引っ付いても赤くなることも無く至近距離で“離れると困るのはお前なんだぞ!?”と怒ってくる。その距離にこちらが赤くなってしまう。



「ご、ごめんなさい…」



戸惑って素直に謝る私にため息をついてから彼はどこか目的地があったのか進み始める。“取り敢えず”と手を繋いだまま話し始める彼の背中を見つめる。やはり彼の手はあの懐かしい父の手に似ている。



「また転んだりされても困るから、まず靴だな」



そう言って連れてこられた場所には靴だけでなく沢山の洋服が並んでいた。なんとなく見たことのある形のものから全く知らない形のものまである。ここでも“凄い凄い”とはしゃいでまた怒られた。


“自分で選ぶのはまた今度にするとして”と呟きながら彼はぐいぐい私を引っ張っていく。沢山の靴が並ぶ場所までたどり着くと彼は、その中から白い紐が通された黒い靴を手に取ってこれ履いてみろと私に渡す。近くの椅子に腰かけて言われた通りにする。ピッタリである。



「凄いわ!!神田!!ぴったりよ!!」



はしゃぐ私に特に反応することも無く彼は私の足元に跪く。



「まぁそうだな…こんなもんか…」



つむじしか見えない彼は靴を履いた私の足を押しながらサイズを確認する。何故かドキドキした。それを紛らわすかのように彼のつむじを親指で押す。



「何すんだよ」



一気に彼の機嫌が悪くなる。



「押してみたくなるつむじをしているのが悪いと思うの、それにその部分はテレビで何かのツボだって言っていたわ」



誤魔化すようにそう言う私を睨んでくるが、私の足元に跪いて上目遣いになる彼は全く怖くない。笑い続ける私にそこは腹壊すツボだと低く唸る。それを聞いて私はさらに笑ってしまった。洋服は適当に彼が選んだものを着た。色は白と黒ばかりになりそうだったので自分で選んだけれど。



「お腹が減ったわ」



洋服を選び終わって、ピンクのパーカーに黒いズボンを身に纏った私はお腹を鳴らしながら彼に言う。その音に彼は顔をゆがめる。



「もうちょいお腹の音を聞かれることに恥じらいを持て」



いくら呆れられても、もうすでに私は彼にお腹の音を聞かれたことが有る。今更恥ずかしがっても無駄というものである。



「もう聞かれて散々笑われたもの」



なんてことないように胸を張る私に彼は自慢げにするなとさらに呆れた。





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