第12話 アンジュ=サットンの夢①

“アンジュ…アンジュ…どこに行ってしまったの…?”


暗闇の中で必死に誰かの名前を呼ぶ声がする。きょろきょろと見回してみても私の目が光を捉える事はなく、どこまでも広がる深い黒の中を手探りで進むしかない。

前は?後ろは?右は?左は?自分が向かっている方向すらも分からない。


アンジュ…アンジュ…その間にもその声は響き続ける。


「誰!アンジュって誰なの!」


叫んでみてもその声は虚空に吸い込まれていくばかり。

“ダレ、だれ!!誰?だれ…”

狂ったように私は叫ぶ。知らない。アンジュなんて知らない。


アンジュなんていないのよ…だから泣かないで…お母様…


勝手に口をついて出た言葉に驚く。これは母の声だ…どうして気付かなかったのだろう。ゾッとした。いつか本当に母を忘れてしまうような気がして。


お母様!!アンジュよ!!アンジュはここにいるわ!!


一際、大きな声でその声に答える。そんな私を嘲笑うかのように、母の声はどんどんか細くなっていく。


待って、待って、私を置いていかないで…


「お母様!!!」


自分の叫び声で目が覚めた。額には大粒の汗が滲んでいてとても心地いい目覚めとはいかない。見慣れない天井に一瞬驚いたが、ここが神田の家であることを思い出し一息つく。締め切られたカーテンから光が差し込んでいる。


…明るいわ…


何時間寝ていたのだろうか。10時間…いや、もっとかもしれない。このままではいけないと、体を起こす。寝すぎたせいで瞼が重い。


「神田?」


彼を呼びながらリビングに入ったが彼の姿は見えなかった。代わりに机の上で、目玉焼きの乗ったパンとお茶の入ったコップが私の起床を待っていた。その上に被せられたフィルムには“学校に行ってくる”と書かれたメモが張り付けてあった。彼の字なのだろう。さっき見た夢の所為か彼がいないことを心細く思う。まだ完全に覚醒していない意識の中で椅子に座って目の前のパンを一口かじった。


「冷たい…」


しかし、時間が経って固くなったパンはお世辞にも美味しいとは言えない。硬くて噛み切りにくいし、塗られているバターが口の中でべたつく。

…昨日食べたハンバーグが食べたいわ…

食事は暖かいものを家族で机を囲みながら食べるに限る。昨日の食事は良かった。

“こんなおいしいものがこの世にあるのね”とハンバーグに感激する私を見て神田が

“ファミレスの料理にそんな感動されるとなんだか胸が苦しくなってくる”と笑う。

暖かい食事と一緒にいてくれる人がいるという安心感。神田がいなければどれも手に入らなかったものだ。きっと私ならそんな変な人間に食事を与えようとは思わないし、家に入れてあげようなんてとても考えられない。


神田は…優しい。


もし、神田と出会えていなかったら…?そんな “もしも”を考えて身震いがした。怖い。神田がこのまま帰って来なければどうしよう。


「神田…」


学校に行っているだけ。そんなのは分かっている。それでもさっきの夢の所為か寂しさが消えてくれない。意味もなく部屋の中を歩き回る。意味もなくリビングを出る。意味もなくバスルームに入る。意味もなく寝室に入る。

ふと、リビングともバスルームとも寝室とも違う部屋を見つけた。おそらく。


…神田の部屋だ。


フラフラとその部屋の扉の前に立って扉を開ける。その部屋に入った瞬間先ほどまでの寂しさとはまた違う種類の寂しさに襲われた。三段しかないチェストと申し訳なさ程度にある本棚、それ等の小ささを際立てる異様に大きいだけのベッド。それがその部屋のすべてだった。

元の世界の私の部屋は沢山のもので溢れていた。大きなウォークインクローゼットには数十着のドレスと同じ量の靴が入っていたし、大きさでは負けるベッドの上には誕生日に決まってもらえる年齢と同じ数のぬいぐるみが鎮座していた。棚には着けきれないほどのアクセサリーとお気に入りの絵本が並べてあって、部屋の中央に置かれた薄いピンクのソファーと同じ色のレースが掛けられた白い机は私のお気に入りだった。そんな私の部屋に比べてこの部屋は物が少なすぎる。

そんな事実がより一層私の孤独感を増幅させる。何か神田が帰ってくるという確信につながるものはないかと部屋に視線を巡らせる。何か見つかればきっとこの寂しさも消える。そしたらリビングへ戻ってあの冷たいパンを食べよう。神田が帰ってきたら冷たかったと文句を言って今日もふぁみれすに連れて行ってもらおう。それでちゃんとお礼を言おう。まだ帰る手立ては見つからないけれど神田は優しいから頼めばきっと一緒に探してくれる。必死で部屋を見回す私の視界に鮮やかな水色が映る。


「アルバム…?」


本棚の中のそれは生活感のないこの部屋で唯一ここが神田の部屋であることを私に分からせてくれるもののような気がした。



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