第10話 アンジュ=サットンの長かった一日③
「い、いやむ、無理だろ…いやでも面倒を見ると言い出したのは俺か…それでも無理だ!!」
食事を終えた後、彼が向かったのはあの高い建物のうちの一つだった。そして。彼はそこにたどり着いた途端、このようにして独り言を言い始めた。
「親はいないからいいとして…違う!!そういう問題じゃない!!」
何を一人で慌てているのか。建物から人が出てきて、訝しげに彼を見る。次いで私の方も見る。
…これは居心地が悪い…
「ね、ねぇ人に見られているのだけれど…」
私の言葉にハッとして彼は私の方を見る。
「お前…寝る所は…」
「ないわ!」
がっくりと肩を落とす彼。何を当たり前のことを聞いているのか。違う世界に私の寝る場所がある訳ないだろう。
「あの…じゃあ寝る場所は…」
「あなたの家になるわね!」
そうだよなと再び彼は肩を落とす。まぁ私も馬鹿ではない。彼が慌てている意味は分かる。未婚の女性が男性の家に泊まることは良くない。しかし、部屋さえ違えば問題はないだろう。実際、オリビアの家に泊まった時は彼女のお父さんと同じ屋根の下にいたわけだし。しかも今はいつもとは違う状況に私は置かれている。我儘は言えない。
「はぁ…」
大きなため息をついてから彼は建物の中に入っていく。ここが彼の家だったらしい。
「わっ!なにこれ!!どうして勝手に開くの⁉」
彼について入ろうとすると入口の門が勝手に開く。凄い…どんな仕掛けで開いているのか…一人ではしゃぐ私を無視して彼は進んでいく。
「大きな家に住んでいるのね!」
きょろきょろと周囲を観察する私に彼は冷めた視線を投げかける。
「この建物全体が俺の家なわけないだろ。建物自体は親のもんだけど…」
…よくわからない。
この建物は彼のご両親のものだけれど彼が住む家ではない?理解できず、首をかしげる私を放っておいて彼は壁を触りながら何やら手を動かす。そして、又扉が勝手に開く。扉を通る時によく観察してみるが仕組みは分からない。
「おい!!おいていくぞ!!」
少し先の階段の途中で止まって、彼は叫ぶ。数段の階段を上った先には扉があり、その横の壁を又彼が触ると、これも勝手に開いた。上に登っていく感覚がしてそれがエレベーターであることに気が付く。勝手に開くエレベーターは初めてであるが、これは知っている。しかし私はこの乗り物がすごく苦手だ。こそこそと彼に近づいて彼の腕を掴む。
「私これ苦手なのだけれど…特に降りるのが…」
もう彼が赤くなって“ばっ”だの“やめっ”だの言っていることには反応しない。それどころではないのだ。何度か乗ったことはあるが、いつも父に掴まって降りていた。降りるタイミングが難しすぎるのだ。どうにか私の手を放そうとする彼を無視して降りる時を待つ。しかし。チンという小気味いい音がしてエレベーターは止まった。
止まった?
そういや乗る時も止まっていた気がする。
「いい加減離せ!!」
止まった驚きで力が緩んだのか簡単に手が彼から離れる。さっと私から距離を取り、外に出る彼の顔は相変らず赤い。止まるエレベーターは初めてだった…
「広いわ!!」
もしどこかに行って一人で帰ってくることになってもここ以外に入るなよと言われた先の部屋はとても広かった。部屋に走り込もうとすると彼に肩を掴まれて靴を脱げと凄まれた。
「お前の相手をしていると幼児の世話をしている気分になる」
靴を脱いだらしい彼は私の横をすり抜ける。失礼なことこの上ない。もうわたしは16歳の立派なレディだ。さっさと部屋の中に入っていく彼を恨めしげな眼で見る。
「とりあえずお前風呂に…」
先に部屋の中に入った彼はまだ廊下にいる私を見る。何故か彼の顔が赤くなる。
「パン…」
「パン?私もうお腹は空いてないわよ」
そして、何故か食べ物の話をする。
「いや違くて…した、下着…新しいの無いよな…?」
彼の言いたいことが分かって私も赤くなる。そうだ。もう同じ下着を三日もつけている。いい加減気持ち悪い。
「うわ…これはマジでどうしよう…」
そう言って彼は頭を抱える。私の方がどうしようと言いたい。
「え…俺の…?俺の貸すしかないのか…?」
もう混乱してきた彼はありえないことを言い出す。
「え!!あなたの着たものはさすがに着れないわよ!!」
慌てて彼の案を却下する。
「ちげぇよ!!履いた後の奴じゃなくて新しい奴が有るんだよ!!」
そんな私以上に慌てた彼が大きな声を出す。数秒悩む。それしかないのかもしれない。
「わ、分かったわ」
「え」
自分が出した案のくせに彼はぽかんとした顔をする。
「い、いやダメだろ」
「ダメじゃないわ!!それしかないんだもの!」
“え”とか“あ”とか“う”と言いながらも決心した表情の私を見て彼は部屋から出ていった。その背中には哀愁が漂っていた。
戻ってきた彼は違う服に着替えていた。そして、服とおそらく下着だと思われるものを透明な袋から出して私に手渡す。広げてみると短いズボンのような形をしている。これがこの世界の下着…まじまじと見つめる私を見て、あんまりみんなよ!!と彼は女の子みたいなことを言い出す。
「いいじゃない!見慣れないのよ!」
これではどちらが女なのか分からない。
「早く入れ!!」
慌てた様に彼は私の腕を掴んで違う部屋に連れ込む。先ほどの部屋より少し小さめのそこにはシャワーと浴槽があった。これなら私でも使えそうである。私をさっさと押し込めて彼は扉を閉めて出ていった。洋服を脱ぐと外気に触れて鳥肌が立つ。さっとシャワールームに入り、水を出すためのレバーをひねる。出てきた少し冷たい水に驚いたが、数秒後にそれはお湯に変わる。
「凄いわね…」
そして、一人で感心する。髪が濡れないように気を付けて体を流しよくわからないボトルと一緒に並んだ石鹸を手に取り泡立ててから体を洗っていく。久々に体を流せる喜びからか思わず鼻歌を歌ってしまう。気持ちいい…この世界は変なものが多いが合理的に作られている部分においては悪いものではない。
「これ使ってもよかったのかしら?」
シャワールームを出て、彼がいる部屋に戻ってから勝手に使ってしまったタオルを見せる。それに肯定の意を示しながら私を見る彼は訝しげな表情を作る。
「お前髪乾かせたのか?俺はてっきりまた濡れたままで出てくるかと…」
そんな彼を見て首をかしげる。髪…?髪はお風呂に入るたび洗うものではないでしょう…つい一週間ほど前に洗ったばかりだし…
「お前まさか洗ってないのか…?」
当たり前のことを聞く彼にえぇと頷いて見せる。
「そこからかよ!!」
何故か怒鳴られまたシャワールームに連れていかれる。
「ねぇ何を怒っているの?」
焦りながら彼の方を見ると、彼は私の方を見ずにここでは風呂に入るたび髪は洗うんだよ!!と声を荒げる。彼はよほど怒っているのか私の手を掴んでいるのに顔を赤くしない。
「そんなに怒らなくてもいいのに…」
彼に聞こえないように呟く。
「これが髪を洗う石鹸で、これで洗った後、髪にこっちを塗って流す。分かったか?」
あの変なボトルを指しながら彼は私に使い方を教える。必死な彼には申し訳ないが使ったことのない物の説明を理解できるはずがない。
「ご、ごめんなさい…分からないわ…」
「は⁉なにが⁉」
「使い方よ…」
どうやらイライラしているらしい彼は一々声が大きい。
「どうしたらわかんだよ!!」
「神田がやっているのを一度見たらわかると思うわ」
おずおずと私が答えるとやっと彼の顔はあの見慣れた赤色に染まった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます