第3話 アンジュ=サットンへの試練②
「…こ、困った…」
鐘の音がするほうに向かって走っていたはずなのに一向に協会は見えてこない。鐘の音は止んでしまったし、最早手掛かりはなくなってしまった。時々すれ違う人に協会への道を聞こうとするが皆私の声が聞こえていないかのような態度をとる。反応してくれたとしても苦笑いで知らないと言われるだけ。周りにそびえる建物も見たことのない高さのものばかりで教会への道順の手掛かりは見つからないのに疲労だけが積み重なっていく。日は落ちていく一方で空はすでに茜色に染まっている。春の夕暮れはまだ肌寒く袖のないドレスを着た体がどんどん冷えていくのが分かった。家へ戻れないのかもしれない。いやな予感が頭をよぎったが、それを振り払うようにして頭を大きく横に振った。
「とりあえず…もう一度鐘の音が聞こえた場所に戻ってみるしかないわ…」
大きな門を一度くぐったことは覚えている。それにあんなに大きな建物だ。すぐに見つかるはずだ。そう考えてあたりを見回す。
…見えない?…
通ってきた道にはあの建物ほど大きくはないが、高さだけは嫌に高い建物が立ち並んでいる。
「…き、来た道を戻ってみましょう…」
そう決心して、来た道を引き返す。右へ曲って、歩いて、左へ曲って歩いて、戻って右へ曲って歩いて。そうやって必死になんとなく見覚えのある道を辿り、ようやく元の建物に着くころには辺りは真っ暗だった。冷気は私の体に侵食し、もう腕の感覚がない。ここまで寒くなるなんて予想していなかった。というよりこんな時間まで外にいることを予想していなかった。手のひらで外気に晒されている腕をこすると幾分かましになった気がした。その動作を続けながらあの大きな門にちかづき手を掛け押す。⋯開かない⋯なぜか、通ってきたはずの大きな門が閉じられている。いや案外“ なぜか”では無い。門は夜になれば閉じるものである。落胆から横の壁に体重をかけ⋯られなかった。理由は簡単だ。横にあるのは壁ではなく扉で、その横の小さな扉が開いていたからだ。一応ノックをするが、誰かが出てくる気配がしない。意を決して音を立てないようにして中へ入った。
「誰かにあってしまっても、事情を話して泊めていただこう。大丈夫よアンジュ。もし自分で帰ることができなかったとしてもきっとお父様が迎えに来てくれるから…」
父が私を見つけることができなかった時はない。いつだって私を見つけて私の手を引いてくれていた。鼻の奥がつんと痛くなり、涙がこぼれそうになるのを必死でこらえる。
「ちょっと!!君!!ここで何をしているんだ!!」
突然、とぼとぼと大きな建物の入り口を探す私に声がかかった。助かったと思った。今日はここに泊めてもらって、教会の場所を聞いて、いやもしかしたら私の家の場所を知っているかもしれない。この近くにはどうも市場があるようだし、私の家名を知っていてもおかしくはない。喜びから勢いよく後ろを振り向くと、明かりを持った人影がもうすぐそこまで近づいて来ていた。そこでハタと気付く。
怒っている…?
大体、簡単に入れてしまったけれどここは一体誰の家なのだろうか。そして、数刻前の王族以外こんな大きな建物に住める人物はいないという自らの考えを思い出す。ここがもし、本当に王族の家なのだとしたら。私はきっと…不敬罪で斬首刑だ…私だけに罰が課せられるのならまだいい。あの両親にまで罪が及んでしまうかもしれない。自分の間抜けさから両親を罪人にしてしまう可能性に身震いがした。
逃げなきゃ…!
そこからの私の行動は早かった。走るのに邪魔なドレスの裾を引っ張った。ちょうどスカートの中央にある切り返しの部分でスカートが二つに分かれる。それを相手に向かって投げつけて相手とは逆方向に向かって走り出した。
こんなに走ったのは何年ぶりだろうか。スカートがめくれあがるのを気にする余裕などなかった。こんな場面をもし、お母様に見られでもしたら、きっと酷く叱られるだろう。吸うことができる空気はどんどん少なくなってきているのに、口から洩れる空気は多くなっていく。幸いなことに後ろの人より私のほうが幾分か速かったらしい。目につく曲がり角を必死に曲がってもういくつ角を曲がったか分からなくなった時には後ろの人の姿は見えなくなった。走るスピードをどんどん落として呼吸を整える。膝が震えて自分の体重を支えることができない。
「助かったぁ…」
ほっと息をついて地面に座り込んだ。どうしてこんなことになったのだろう。六歳ころ彼との婚約を了承した時点で、もう何もかも間違っていたのだろうか。家に帰ることができるかすらわからない未来が頭をよぎって、又涙が出そうになる。涙がこぼれてしまわないように空を仰いで見ても、月の光のか弱さや見える星の少なさが自分の元居たところとは違うかもしれない現実を突き付けてくる。そんな現実に愕然とすると同時に抑えきることができなかった涙が零れ落ちた。一度こぼれた涙はとどまることを知らず、次から次へと流れ落ちてくる。
どうして…?どうして…?
と何度繰り返しても原因なんて分からない。ここはどこなのか。私の身に何が起こってしまったのか。頭の中に湧き出る疑問に答えることができうる知識などどこにも見当たらない。父と母に会いたい。ただひたすらにその願いだけを繰り返す。どのくらいの間そうしていたであろうか。涙が乾いた跡がひりひりする。どこか屋根のある所を探すために、立ち上がろうとした時、支えにしようとした窓の枠が動いた。
「あ、開いてる…」
窓の枠はキュルキュルという音を立てて、横に動いた。
「…今日はここで一晩過ごしましょう」
幸運だと思える自分の単純さに笑いが零れた。どこか知らない場所に知らない間に居て、見ず知らずの男に怒られ、不敬罪になってしまうかもしれない状況の中でも幸運だと思える。中に入るためにはスカートを捲り上げて、あられもない姿をさらさなければならないが、そんなこと気にしている場合ではない。ここには母もいない。見ている人もいない。誰が私を咎めるというのか。えいっと勢いをつけて窓枠にかけた足に力を入れれば、すとんと中に入ることができた。
「あら、私案外力があるのね」
自分の意外な一面に驚きながら部屋の中を探索する。どうもここは、図書室らしい。この本の多さから察するにやはりここは城内なのかもしれない。
「文字は…読めるものなのね…」
自分の見知ったものがあることに安堵する。一つ手に取りなるべく入口から遠く、人に見つかりにくそうな場所に腰を下ろす。その本の内容は、他の星からやってきた王子様の話だった。読み進めるうちに、きっと私がここに来たのは何かを知るためなのだわ。そう思うことができた。これは神様が私に課した試練なのだわ。明日はきっと家に帰る方法が分かる…そう考えて小さな王子様の物語を胸に抱えたまま私は静かに瞳を閉じた。
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