第2話 アンジュ=サットンへの試練①
「なわけないじゃない!!」
叫びながら私はがばっと上半身を起き上がらせた。ふと冷静になってみると、私は何も悪いことはしていないことに気が付いた。間抜けなのに変わりはないが、私だって人の恋路を邪魔してまで彼と結婚しようとしていたわけではない。私には愛する人なんていなかったし、結婚に対して何も言わない彼もそうだと思うのは当然ではないか。両親が喜んでくれるのなら誰でもよかった。彼でなくてもよかったのだ。
「どうして私が恨まれないといけないの⁉どうして私があんな目を向けられないといけないのよ⁉」
やり場のない怒りが蓄積されていく。
「これは一言文句を言わないと気が済まないわ!!」
そしてようやくあたりを見回す。
「ここは…どこかしら?…」
大きく膨らんでいた怒りが途端にしぼんでいく。私の家はおそらく大きいほうだと思う。事業が成功した両親は丘の上の土地を買い取り、庭付きの家を建てた。そんな私の家より高く大きな建物が今、目の前にある。こんな大きな建物に住んでいるのは王族くらいであろう。均等な間隔で並んだ窓は無機質でお世辞にも素敵だとは言えないけれど、光を沢山取り込むという点では機能的である。周りの景色をちゃんと見るために、立ち上がろうとした時。
「痛…」
すぐ下からうめき声が聞こえた。どうやら私は人間の上で数分間過ごしていたらしい。状況が読めず、ただ立ち上がるという動作さえできない。
「ちょっと…本当に…どけ!」
どけの“け”を発するのと同じタイミングで彼は無理矢理立ち上がった。立ち上がる準備もしていなかった私は勢いよく膝の上から転がり落ち、地面に倒れた。
「うわ……女じゃん……」
一向に起き上がる気配のない私の顔の上に掛かる影。何故かそれがあの婚約者に見えて、今度こそはと手を伸ばした。しかし、あ、生きてると呟きながら彼は私の手を払った。
「生きてるなら自分で起きろよ。俺お前の所為で体痛いんだから」
やはり彼は私の手など掴んではくれないと落胆している私に、彼はそう声をかける。
…彼じゃない?
だって彼はいくらメアリーが好きで私がその恋路を邪魔する人物だとしても貴族の子供。こんな下町の子供のような言葉遣いを私にした事はない。これは誰だ。急いで起き上がって、目の前の人物を視界に入れる。
いや…誰?
目の前には白いシャツにチェックのズボンを身に纏い、地面についていたお尻を手で払った後ワザとらしくため息をつきながら私が乗っていたであろう太ももを払う男がいた。もう一度言おう。これは誰だ。首元のボタンはだらしなく開けられ、ズボンのサイズだって合っていない。髪の毛に至っては全体的に長すぎる。こんな人物知る訳がない。その人物はパニックに陥った私にちらりと視線を投げかける。結婚式の時の彼を想起させる視線によってあの感覚がよみがえって余計に動けなくなった私に
「“どうして私が恨まれないといけないの⁉どうして私があんな目を向けられないといけないのよ⁉”って?そんな恰好であんな高さから落ちてきたからだろ。大体お礼を言われることはあっても文句を言われる筋合いはない。」
そう言って、目の前の男は私を嘲笑った。
春のまだ肌寒い風が私の怒りで引くついた頬をなでる。やけに長いドレスが風で舞い上がろうとする煩わしさも相まって、私の苛立ちは増幅していく。こんな誕生日あんまりではないか。目の前の男に精一杯の睨みをきかせる。
「ご丁寧に全ての疑問に答えてくださってありがとうございます。でも全てあなたに投げかけた言葉ではないので勘違いして怒るのは見当違いというものですよ。私の言動に足りないものがあり、語弊を生んでしまったのなら謝罪します。」
そう言ってふんっと鼻を鳴らした。目の前の彼は先ほどの私と同じように頬を引くつかせている。お互い言葉を発することも無く、沈黙が私たちを包む。木々が揺れる音の中に遠くの方で何人かが叫ぶ声が聞こえた。近くに市場でもあるのだろうか。
「演劇部かなんなのか知らないけど…」
彼が何かを言おうとしたとき大きな鐘の音が鳴り響いた。途端に目の前の彼から音へと意識が向く。どこかぎこちなくなるこの音は私が知っているあの鐘の音に似ている。
きっと近くに協会があるのだ!
気づいた時には、もはや目の前の失礼極まりない男への苛立ちなどどうでも良くなっていた。ここがどこかは知らないけれどそんなに遠くには来ていない事が分かり安堵する。早く父と母に会いたい。そして伝えたい。私は我を忘れて教会を飛び出してしまうほどこの結婚が嫌であること。彼の事は嫌いではないからこそ彼が幸せになることの邪魔になりたくないこと。私は貴方たちが祝福してくれるのなら彼でなくてもいいという事。目の前の男をもう一度睨みつける。
「では私予定の最中でしたので失礼させていただきます。膝の上で支えていただいていたこと感謝いたします。お召し物を汚してしまい、大変申し訳ありませんでした」
不本意であるということが彼に伝わるように語尾を強調させた。そして彼の方を見ないようにして鐘の音がするほうへ走り出す。もう二度と会うことがないようにと祈りながら。
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