勇者の矢

 それは正に戦争だった。


 八咫鏡が壊れてしまったのか、それとも鑑定スキルの方に異常が出てしまったのかは解らないけれど、攻撃力もHPも補正値もスキルもその他ステータスも全部文字化けしてしまっている、山羊の足を持つ巨大な悪魔。

 表現するのも嫌になるほどの不吉で気色の悪い雄叫びを上げながら、その拳と魔法で破壊の限りを尽くしている。


 足を踏み込めば地割れが起こり、魔王の侵略で既に満身創痍だったサウジアラビアはもはや見る影もない。

 やめたげて、サウジアラビアのライフはもうゼロよ!


 ――冗談はさておいといて、それに対抗するのはぶよぶよのお腹と汚い牙、古代の中国の宦官みたいな着物を纏って「ぬぅ。これもダメですか。困りましたねぇ」と、見掛けに全く似合わない高い声で汗をぬぐうそいつは、確かにトロールの特徴を示していた。


 当然のようにステータスはぼやけて見えないけれど、あのトロールは魔法を扱っている。


 知能が低く筋肉バカでとにもかくにも頭が悪いことで有名なあのトロール。

 トロールの存在が知れ渡ってから「トロールの一つ覚え」ということわざまで広まってしまうほどには「バカ」の代名詞であるあのトロールが魔法を扱っている。


 火の玉を放ち、重力を操作しているのか暴走している悪魔を宙に浮かせたり、悪魔のパンチを多重の防護結界でガードしたり。

 そして、あの魔法を使うトロールはやはりトロールらしくあの馬鹿力も持ち合わせているようで、防護結界をものともせずに突き破る悪魔の拳を手のひらで受け止めていた。


 それでも抑えきれず手が弾けていたけど、その傷だってトロール特有の再生力ですぐに元通りになっている。


 恐ろしい……。

 もしタイミングが違えば、私たちはあの化け物のどちらかと遭遇して戦うハメになっていたかもしれない。


 想像するだけで身の毛もよだつ。


「あの勇者さん」


 そんな想像に震えていると、賢者が小声で私に話し掛けてきた。


 深い紫のフードから覗く赤い瞳と紅い髪。……いつ見ても、見とれてしまうほどに可愛らしかった。

 ただ、この状況で見とれているわけにも行かないので理性に鞭打ちして私は賢者の話を聴くことにした。


「あの悪魔……多分、バフォメットだと思います。それも眷属じゃなくて本物の」


「バフォメット……バフォメットと言えば魔界の序列十一位の超上位悪魔じゃないですか?」


 賢者の言葉に聖女が驚く。

 しかし、それが本当だとしたら本当に厄介だ。

 あのバフォメットのランクが高いから恐ろしい、と言うわけではない。


 むしろ、息を吐くように街を破壊できる化け物。それよりも序列の高い悪魔がさらに十柱以上控えていると言うことが厄介なのだ。


 魔界の悪魔もいずれ倒さなければいけない敵。


 なのに、その敵があの強さを引っ提げているだなんて最早絶望しかない。


「いや、待てよ……」


 如何に最強クラスの悪魔と言えど、イスラムの勇者もいれば強力な賢者もいるこの国をこんなにも容易くぐちゃぐちゃに出来る強さの化け物がそんなにゴロゴロいるだなんてどう考えてもおかしい。

 仮に、あんな存在がゴロゴロ存在しているのなら今、この地球上に人類は残っていない。


 それにあの魔法を放つトロールもおかしい。


 トロールが魔法を扱っていると言うこともちゃんちゃらおかしいけど、それ以上にあんなに馬鹿げて強いバフォメット相手にほぼ互角に渡り合っていることがちゃんちゃらおかしいのだ。

 あのバフォメットは、もう五回も昇華をしている私を百回は吹き飛ばせそうなほどには強そうに見えるのに……。


 そして私は思い出していた。


 単なるザコに過ぎなかったあの男に、勇者である私が一太刀浴びせられてしまったあの時のことを。


「あのトロール……間違いなくっ」


 あのトロールもバフォメットも多分あいつの迷宮のモンスターだ。


 今、バフォメットと戦っているのは仲間割れと言うより――なにかが起きて、あのバフォメットとやらがあのクソ男の支配下を逃れて暴走しているように見える。

 だから、私が憎むべきはあのトロールだ。


「くっ」


「勇者さん」

「勇者様……」


「ええ。解ってるわ」


 私は口の奥に反芻する苦みと共に、あの日、愛する彼女たちが受けた辱めと私が受けた屈辱を思い出していた。

 あのトロールが憎い。

 今すぐ殺してやりたい。


 そう思うといてもたってもいられない。


 でも、大切な仲間が傷付くのはもう嫌だ。


「賢者。今からまた東南アジアに戻りましょう。撤退よ。転移魔法の準備をしておいて頂戴」


 並の魔導師が使うなら、転移魔法は発動までに一時間以上。そして、生半可な魔力ではそもそも発動することさえ出来ないほどにコストパフォーマンスの悪い、非常に高度な魔法だ。

 しかし、私たちの賢者ならそれを扱うことが出来る。

 それも発動時間五分の上に、魔力も45%カットした上で。


「わ、解りました!」


「聖女も。万が一に備えて防護結界魔法の準備をしておいて」


「もちろんです!」


 これで大丈夫。隙はない。


 私は考えた。仲間たちを傷つけたくないこの気持ちと、あのトロールが憎いという気持ちを天秤にかけて、そして思った。

 私は勇者よ。少しでも欲しいなら天秤にかけるまでもなく総取りしちゃえば良いじゃない!


 私は天叢雲剣を構え大きく振りかぶって、トロールに投げつける。


「ぬっ!? き、奇襲ですか? こんな時に……ぐ、あっぁあぁぁああああああ!!」


 天叢雲剣がトロールに刺さり、それに注意を奪われたトロールがバフォメットに殴られ吹き飛ばされる。

 ふっ、精々仲間同士で殺し合ってなさい!


 瞬間、私たちはビエンチャンにまで転移した。


 暫くして天叢雲剣を召喚する。


 ざまぁないわね! 一矢報いてやったわよ!

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